三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「バイオハザード:ウェルカム・トゥ・ラクーンシティ」

2022年01月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「バイオハザード:ウェルカム・トゥ・ラクーンシティ」を観た。
 
 ビデオゲームの「バイオハザード」は大変な人気だったから、遊んだことのある人は多いと思う。かくいう当方も「バイオハザード2」の発売当時に、知人のプレイステーションで遊んでハマってしまい、自分でもプレステを購入。新しいバージョンが出たのに合わせて、プレステ2、プレステ3も買った。「バイオハザード6」まで買い、その他に「コードベロニカ」や「アウトブレイク」も買って遊んだ。
 
 本作品はゲームで遊んだ人にとっては懐かしさを覚える作品である。主に「バイオハザード2」のストーリーを中心にして、それに「バイオハザード1」を足して物語を組み立てている。ふたつのゲームのつぎはぎみたいなストーリーだ。
 クレア・レッドフィールドの兄のクリスを登場させる以上、レオン・ケネディをあまり活躍させる訳にはいかなかっただろうし、エイダ・ウォンが端役になってしまうのも仕方がない。ピアノで「月光」を弾くのがジル・バレンタインでもレベッカ・チェンバースでもなくてウェスカーなのもなりゆきである。ただひとつ残念だったのは「バイオハザード2」の「タイラント」が登場しなかったことである。
 
 ゲームではタイプライターのある場所でインクリボンを使うとそれまでのプレイデータをセーブできるのだが、一度でもセーブするとゲーム終了時に「Sランク」が取れない。だからセーブなしでゲームを進めるのだが、殺されれば当然ゲームオーバーで、セーブしていないから最初からやり直さないといけない。だから強力な敵が怖い。
 ゾンビはよけて走ればなんとかなったのだが、警察署にいた「リッカー」と研究所の「イビー」がとてつもなく強くて怖かった。何度も殺されてゲームオーバーになったことを思い出す。そして壁をぶち破っていきなり現れる「タイラント」は、最初にゲームしたときは度肝を抜かれた。つかまったらゲームオーバーになるので、なんとか逃げるしかない。思えば「バイオハザード2」は逃げながら謎解きをしてストーリーを進めるゲームだった。
 ゲームに慣れて「Sランク」が取れると、無限に撃てるマグナムや、無限ロケットランチャーが手に入る。それらが欲しくて一生懸命にゲームをするのだが、取ってしまうとゲームが簡単になりすぎて面白くない。だから手に入れても使わずにゲームをした。
 
 映画になるとゲームオーバーで最初からやり直すという訳にはいかないから、タイラントを登場させるわけにはいかなかったのだろう。主要人物は当然誰も死なないし、巨大バイオ企業「アンブレラ」も倒産していない。ウェスカーはこのあと何をするのか、エイダ・ウォンの正体は何なのか不明のままだ。物語は本作品のあとも続く。しかし続編の映画が製作されるかどうかはわからない。本作品の興行成績次第かもしれない。
 
 ゲームの「バイオハザード」シリーズを一度も遊んだことのない人には意味不明の感想ばかりを書いてしまった気がする。ただただ、懐かしい思いで鑑賞した。ある意味で感激したとも言えそうだ。同好の士にはご納得いただけると思う。

映画「シルクロード.com- 史上最大の闇サイト」

2022年01月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「シルクロード.com- 史上最大の闇サイト」を観た。
 
 予想と少し違った。サイバー犯罪にサイバー対策のスペシャリストが立ち向かっているところに、ひとり場違いな引退間際のおっさん刑事が参加して、聞き込みと防犯カメラの捜査で成果を上げるのかと思っていた。
 しかしさすがにそれではサイバー犯罪を突き止められない。ボーデン刑事はキーボード入力も覚束ないPCスキルだが、人を脅したり賺したりすることには手練である。サイバー犯罪も、人間がやっている分には、ボーデン刑事のやり方でなんとかなる筈だ。もし主犯が学習したAIであったら、ボーデン刑事には手も足も出なかっただろう。
 
 インターネットの匿名性は、自由な意見表明を可能にする一方で、無責任な人格攻撃や誹謗中傷も可能にしてしまう。そして様々な犯罪も、同時に可能にした。本作品で扱った事件はその典型的なひとつだと思う。
 それにしても見事な犯罪である。マリファナが合法の州もある。もう少し上手くやれば、重い犯罪にはならなかったかもしれないし、場合によっては犯罪にさえならなかったかもしれない。
 しかしそこは人間だ。家族をはじめ、人間関係からは免れないし、欲もあれば恐怖心もある。ミスを犯すのは必然である。
 
 ウルブリヒトを演じたニック・ロビンソンは上手い。天才的な犯罪者としての自負と、違法行為をした人間の怯えとの間で顫えている心理がよく伝わってきた。
 ボーデン刑事を演じたジェイソン・クラークは身体が大きくて押し出しが効く。今回の強引なおっさん刑事にぴったりだ。こちらには自負もなければ怯えもない。ウルブリヒトとの差は覚悟の違いだった。
 
 プラットフォームを運営するには手間と費用がかかるが、それをAIに任せてしまえば、運営者は追及されづらい。支払いを仮想通貨で行なえば足が付かないかもしれない。先ずは合法のサイトでAIに学習させて、非合法のサイトで使えるアルゴリズムを開発する。既に誰かがやっている気がする。

映画「グレート・インディアン・キッチン」

2022年01月28日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「グレート・インディアン・キッチン」を観た。
 
 驚いた。これは現在の話なのか。
 序盤を鑑賞した限りでは、50年前のインドと見紛うばかりだ。繰り返される家事の意外なほどのハードワークと男たちの非協力。労働に見合う対価などは当然のように何もなく、自由な時間もない。ほぼ奴隷である。加えて、毎夜のように強いられる不愉快なだけのセックス。もはや奴隷以下だ。
 途中でスマホが登場したので、やっぱり現在の話なのだと了解したが、IT国家として発展を遂げたインドでまだこんな旧態依然の差別が罷り通っていることに、改めて驚いてしまった。
 インドは仏教発祥の地だが、仏教徒は殆どおらず、大方はヒンドゥー教徒だ。バラモン教の流れなので、カースト制度が生きている。世界史の授業で習ったバラモン、クシャトリヤ、バイシャ、シュードラ、それにアンタッチャブルというカーストが、今でも厳然と存在するのだ。
 
 これまで観たインド映画「囚人ディリ」「WAR ウォー!!」「サーホー」「シークレット・スーパースター」「バーフバリ 王の凱旋」のどれにも、カーストを感じさせるシーンはなかったと思う。当方が意識しなかっただけなのかもしれないが。
 本作品のように、あからさまに女性が差別され、奴隷のように酷使され、生理が忌み嫌われるようなシーンのある映画は初めて観た。それらのシーンが実際の状況に即しているのであれば、ヒンドゥー教が極めて女性蔑視の強い宗教であるということになる。こういう作品が製作されるようになったのは、女性の人権に関わる問題意識が広まったということなのだろう。
 
 信教の自由があるから、ヒンドゥー教そのものを非難するのは語弊がある。国連人権理事会はインドに対し、宗教とは無関係な切り口で、女性差別を是正するように求める必要がある。そしてインド政府は、虐待される状況から女性が逃げ出すための受け入れ策を講じなければならない。虐待する主体が家族だという点が解決を阻む最も困難な事情だが、シェルターのようなものがあれば、そこに逃げ込むことで生命や身体の安全が守られる。
 
 ヒンドゥー教徒の多いインドでも、憲法には人権が謳われている。子供たちには、いの一番に人権教育を施さねばならない。女性が差別と虐待に甘んじなければならない義務はないのだ。解決はそこからだと思う。このことは日本も同じである。子供に人権の意識があれば、他人をいじめたりしないはずだ。

映画「ブラックボックス 音声分析捜査」

2022年01月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ブラックボックス 音声分析捜査」を観た。
 
 邦題から、聴覚に優れた音声分析官が能力を発揮して原因特定の難しい事故を暴いてみせるヒーロー物かと思っていたが、流石にフランス映画である。主人公だからといって運がよかったり思わぬ助けがあったりせず、しかも一筋縄ではいかないストーリーに仕上がっている。
 
 日本では経団連に入っている大企業と政治家や官僚(政官財)の癒着は、連綿と続いている。役所には許認可制度という法律の後ろ盾があって、いわゆる職務権限なのだが、役人はそれを利用する。つまり賄賂を受け取ったり、天下り先を用意させたりして、許認可を甘くするのだ。許認可は所管の大臣名で実施されるから、大臣にもそれなりの利益がある。
 日本国憲法には「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」と書かれているから、一部の大企業を優遇するのは憲法違反であることは明白だ。当事者である政官財の人間たちは、それを承知の上で悪事を働く。万が一バレそうになっても、情報を隠せば追及を免れる。黒塗り文書である。または公文書の改竄である。企業はまだしも、政治家と官僚は税金で生活している訳だから、罪は深い。
 
 すべての情報を開示すれば不正は起きにくい。それがわかっていても情報はなかなか公開されない。ソ連のミハイル・ゴルバチョフが、政治改革である「ペレストロイカ」のひとつとして唱えたのが「グラスノスチ」である。情報公開だ。密室政治だから不正が起こり、腐敗する。つねに情報を公開し続けることで、正しい政治が維持されるという趣旨である。青年の主張みたいな純粋な理念だが、これが長続きしなかった。政治は人間が行なう。人間は生物(なまもの)で、常に腐敗に向かうのだ。
 フランスも例外ではないようである。哲学が高校の必修科目になっているから、大抵のフランス人は、哲学的、論理学的に考える訓練が出来ている。客観的で巨視的な見方ができるはずなのだ。それでも腐敗が起きる。情報が隠され、あるいは改竄される。
 
 主人公マチューは孤独である。同じ官である妻は、政官財のサークルの真ん中にいる。友人は財であり、やはりサークルの真ん中にいる。自分がアウトローになってしまえば、妻の立場も友人の立場も危うい。しかし一方では理不尽に死んだ300名の乗客乗員がいる。不正を正さなければ、もっと多くの死者が出るだろう。
 
 中盤以降はとてもスリリングな展開で目が離せない。細身で戦闘力ゼロのマチューに感情移入して、政官財のトライアングルの強大さに恐怖を覚える。しかし民間から寄せられる情報もある。徐々に事実が見えてきた。マチューには勇気がある。それにコンピュータと通信に関するスキルがある。300名の無念を晴らせるかもしれない。
 しかし政官財には実力行使の部隊がある。非合法だが、事実を隠蔽して情報を改竄すれば合法になるのだ。つまりは合法である。それでも非力なマチューは、巨大な敵に立ち向かう。マチューはよく頑張った。腐った生物(なまもの)は冷蔵庫から出して廃棄しなければならない。そして新鮮な生物(いきもの)と交代させるのだ。

映画「Meandre」(邦題「TUBE チューブ 死の脱出」)

2022年01月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Meandre」(邦題「TUBE チューブ 死の脱出」)を観た。
 
 不条理というより、これほどヒロインに対して容赦のない作品も珍しい。常に緊迫した状況で疲労と苦痛に苛まれる中、残った体力を振り絞って脱出を図るリサ。子供の年齢から察するに30代後半くらいと思われる年齢設定もいい。元気いっぱいの20代でもなく、体力の衰えを感じ始める40代後半でもなく、瞬発力や柔軟性を発揮できるだけのスタミナが残っている年齢だ。
 最初に目覚めたのは道路に真横に寝そべっている状態だ。次にチューブの分岐点の中で目覚める。演じた女優さんは、かなりでかくて見栄えがする。しかしでかいだけにチューブが狭くて動きづらそうだ。逆にそれが狙いで、でかい女優さんを選んだのかもしれない。
 目覚めたときには状況は不明だった。チューブがなぜ存在するのか、誰が作ったのかも不明である。光る大きな腕輪にはタイマーが付いているが、意味はわからない。とにかく行ける方向に進む。分岐点を超えるとトラップが襲ってくる。ひとつ間違えば死んでしまうようなトラップばかりだ。
 ときにはホッとする場面もある。眠って夢を見る。現実に引き戻される。いや、これが本当に現実なのか。ヒントを見つけたような気もするが、それが正しいのかわからない。そもそもこの状況に正しいも何もない。突然落下する。見覚えのある分岐点だ。
 進んだら罠や罰則、時にはボーナスがあって、更に進むと、振り出しに戻ったりする。まるで人生ゲームみたいだ。あれ?、ということはこれは、もしかして、人生?

映画「CODA」(邦題「コーダ あいのうた」)

2022年01月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「CODA」(邦題「コーダ あいのうた」)を観た。
 
 フランス映画「エール!」は当時上映中だった映画館で鑑賞した。歌の才能のある女子高生が家族の困難を乗り越える成功物語だったと記憶している。若い恋も盛り込んだ王道の作品である。
 
 本作品はその「エール!」のリメイクで、あちらが農家だったのに対して本作品は漁師の一家という違いはあるが、家業にピンチが生じているときに娘に歌の才能が発見されるというドラマチックな展開はまったく同じだ。展開が同じなのにまたしても感動してしまうのは、物語に力があるからである。それが分かっているからこそのリメイクなのだ。
 
 あとは登場人物をどれだけ魅力的に描き切るかの勝負であり、本作品はそれに見事に成功している。特に主人公ルビーのキャラクターがいい。寛容で愛と優しさに満ちているが、時折は17歳らしい癇癪も起こす。
 イタリア人の音楽教師はズケズケと物を言うが、若い頃の情熱を失っていない。永遠の青年である。この教師の存在がなければ物語が成り立たない重要な役どころだ。ルビーの両親はあけすけキャラで憎めない。父親には哲学があり、母親はリアリストで視野が狭いが、いずれもルビーに対する無償の愛がある。
 
 聾唖や盲目、その他のハンディキャップがある人は世の中にたくさんいる。大事なのは彼らのことを理解することではない。目が見える人に盲目の人のことは理解できない。大事なのは、ハンディキャップの有無に関わらず、その人の人格を重んじるということである。
 人格を重んじるということは即ち、その人たちが生きやすい社会を作るということである。ハンディキャップのある人のために税金を多く割いたからといって、それを不平等だと主張するような人がいない社会を作ることである。そういう社会は未だに実現されていない。
 
 さて、ルビーの歌はたしかに上手いが、歌で生きていけるほど上手いのかは、映画を観ていても分からない。しかし家族はルビーの自立を手放しで喜ぶ。多分自分たちはなんとかなる。家族はどこまでも楽観的だ。これからも沢山の不運が家族を見舞うだろうが、この家族なら笑って乗り越えていけそうである。
 ほっこりとするいい作品だと思う。

映画「真夜中乙女戦争」

2022年01月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「真夜中乙女戦争」を観た。
 
 映画の冒頭から、夜の東京タワーに続く逆さの東京の夜景など、意味不明のシーンが多かった。廃校の通路の光景を回転させたり、意味なく匍匐前進させたり、無駄に長く池田エライザの歌を聞かせたりと、観るのが苦痛に感じられるシーンもあった。
 主人公はルサンチマンを心に抱くニヒリストとして登場するが、その後の台詞はニヒリズムから離れて一定せず、心は揺らぎっぱなしである。何を考えているかわからないのだ。それはつまり、何も考えていないのと同じことである。この主人公に感情移入するのは困難だ。
 柄本佑の演じた「黒服」の世界観も意味不明である。主人公と精神的な議論をしているのかと思えば、いつの間にか精神的な破壊が物理的な破壊にすり替わる。哲学的な話をしているように聞こえるが、実は雰囲気だけであった。ペダンティズムそのものである。
 
 元官僚が語るニヒリズムや賃金の安すぎるハードワークを不条理として描きたいのは分かる。美しいものの代表である花だが、実は花を花屋に卸す業者はアルバイトにタコ部屋労働をさせる悪徳業者で、つまりは悪徳資本主義の代表みたいに描きたいのも分かる。しかし花屋がタコ部屋労働というのはどう考えても無理がある。タコ部屋労働なら何ヶ月も監禁されて肉体労働をするものだ。ダム建設の現場などがそうだろう。しかしそれを描いてしまうと建設業界からクレームが来るから、業界というもののない花屋にしたのだろう。安易で、しかも狡い。
 
 東京を爆破するのに必要な爆弾がどれだけになるのか。2時間の講義を価格計算して講師に詰め寄るなら、爆弾の価格計算もすればよかった。おそらく数兆円単位の価格になるはずだ。重さも体積も、とんでもない量になるはずで、人力では数万人が必要になる。
 他にもツッコミどころは多い。若者は金がないと主張するのにバーに行く。金がない若者はバーには行けないはずだ。爆発の真横にいて、何の怪我もなくただ少し吹き飛ばされるだけという状況はあり得ない。不条理の実存主義哲学なら恋愛要素が入る余地はない筈だが、強引にそれを入れ込む。やはり似而非哲学の作品なのだ。
 
 主人公の演技にリアリティが皆無である。無理もない。設定が矛盾だらけでキャラクターも何もないのだ。演じた永瀬廉くんは、早くこの役を忘れ去ったほうがいい。ただ、柄本佑はこういう演技もできるのだということだけが収穫だった。当方も早くこの作品を忘れ去ることにする。

映画「Moonlit Winter」(邦題「ユンヒへ」)

2022年01月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Moonlit Winter」(邦題「ユンヒへ」)を観た。
 
 ここ数年だが、同性愛をテーマにした映画が多い気がする。LGBTに対する無理解を少しでも減らそうとしているのだろうか。
 
 ところで日本ではLGBTは最近になって話題となっているが、LGBTそのものは昔から存在しているようだ。何かで読んだ記憶があるのだが、古代ギリシアで恋というと男性同士の恋愛のことだったそうだ。日本の江戸時代も男色が普通に存在した。大奥も推して知るべしだろう。年齢や上下関係などの要素もあって、同性愛を一律には論じられないが、資料が残っているということは、社会的に認知されていたに違いない。
 最近になって話題になっているのは、ずっと話題にすることをはばかられていたからという理由もあるだろう。新宿の二丁目は昔からホモの聖地として認知されていたが、ある意味で否定的な認知だった。しかしそれが人間のひとつの性のあり方として、肯定的な認知に変わってきたと思う。だからマツコ・デラックスがテレビで存在感を示している。
 
 本作品は20年前の韓国で社会的に認められなかった悲恋を描いている。現在の韓国は不明だが、現在の日本でも、同性同士の結婚は法的には認められていない。議論も進んでいない。それはある種の人権侵害だろう。同性愛に厳しい国も多数存在していて、イスラム諸国のように同性愛者を死刑とする国もある。殆どが非民主国家である。
 日本国憲法には婚姻を定めた24条に「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、」という文言がある。憲法を改正するとしたら、第9条ではなく、まさにこの条文である。この条文を盾に取って同性婚の禁止を主張する連中がいるから困るのだ。
 憲法13条には「すべて国民は個人として尊重される」とあり、同14条には「すべて国民は法の下に平等であつて」とある。つまり憲法が同性婚だからといって国民を差別することはないはずなのだ。この整合性を理解できない政治家が多いのである。
 
 本作品は必ずしも「ユンヒ」が主人公ではなく、娘のセボム、函館で暮らすジュンの3人の群像劇となっている。ちなみに「ユンヒ」という名前だが、公式サイトが「ユンヒへ」となっているから仕方がないのかもしれないが、映画の中では「ユンヒ」という発音は一度も出てこない。誰からも「ユニ」と呼ばれている。
 ユニとジュンの再会を仕掛けたセボムは、母とジュンの本当の関係を知っていたのかどうかは最後までわからない。ただ、母の人生にとってジュンという人がとてつもなく重要な人なのだということはわかっている。
 ジュンを想うユニと、ユニを想うジュンの、それぞれの暮らしが淡々と描かれる。再会も別れも、淡々としている。日本も韓国も、そうしなければならない社会なのだ。いつか二人のような関係が祝福される社会が来るだろうか。
 
 韓国の社会はいまだに同性愛に対して否定的であると想像できる。作品の中でユニが長期休暇を取ろうとすると、女性の上司から「仕事に責任を持て」と言われる。つまり韓国では個人よりも組織を優先するという考え方が支配的ということだ。組織を優先する社会はLGBTに冷酷である。
 日本の社会は、民間では既に同性婚を認める雰囲気で、市区町村でもパートナーシップ制度の導入が進んでいるが、国の婚姻制度は変わる様子がない。杉田水脈みたいな政治家がその前に立ちはだかっているのだ。他人の幸せを妨害して何が楽しいのだろうか。

映画「ハウス・オブ・グッチ」

2022年01月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ハウス・オブ・グッチ」を観た。
 
 アダム・ドライバーは背が高くて見栄えのする俳優だが、どこかすっとぼけたところがある。いくつか観た出演作のどの演技にもそう感じられた。それはこの俳優の個性だろうし、いいと思う。
 本作品も例外ではなく、演じたマウリツィオ・グッチは放蕩息子の役の筈だが、すっとぼけつつも真面目で優柔不断な若者に見えてしまう。おかげで中盤までミスリードされてしまった。弁護士を目指すような勉強好きの人間なら、経営もちゃんと勉強するだろうと思ったのだ。
 
 レディ・ガガが演じたパトリツィアは「業突く張り」という言葉がこれほど似合う女性はいないと思うほど、強欲で独りよがりで強情で頑固である。こういう女性にモデルみたいな体型は似合わない。ちょっと太めで肉感的な女性がいい。レディ・ガガに白羽の矢が立ったのは自然の成り行きだろう。
 イタリア訛りは少し余計だったが、レディ・ガガの演技はなかなかのものである。マウリツィオの父でジェレミー・アイアンズが演じたロドルフォが鋭く見抜いたように、パトリツィアはカネ目当てでマウリツィオに近づいたが、そんな側面をおくびにも出さない強かさがパトリツィアにはある。多分ではあるが、女学生時代も小金持ちの娘として取り巻きに囲まれていたのだろう。人の御し方だけは上手だったという訳だ。そんなパトリツィアに見込まれてしまっては、世間知らずのマウリツィオはひとたまりもない。
 
 業突く張りだが忍耐力もあるパトリツィアの頭の中では、マウリツィオに出会った瞬間から、将来は自分がグッチを牛耳るのだという遠大な計画が生まれた。なにせ他人を騙して誘導する能力だけはピカイチである。将棋の駒のように誰と誰をどのように動かせばこうなるという読みがあった。将棋に捨て駒があるように、パトリツィアは人を捨て駒にする。
 
 パトリツィアの唯一の誤算は、マウリツィオを将棋の駒として扱わなかったことである。あるいは贅沢三昧で優柔不断を極めるマウリツィオを扱えなかったのか。彼女の権謀術数はマウリツィオとの出会いに始まり、彼との別れで終わる。それがパトリツィアの恋だったのだとすれば、あまりにも悲しい物語である。

映画「スティルウォーター」

2022年01月20日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「スティルウォーター」を観た。
 
 マルセイユの人口は87万人で、東京の世田谷区の91万人よりちょっと少ないくらいだが、面積は世田谷区の4倍もある。水辺は、多摩川に少し接しているだけの世田谷区に比べて、マルセイユは地中海に面していて、美しいビーチがある。東のカンヌやニースと西のモンペリエの中間くらいにあり、フランス有数の港湾都市だ。ただ世田谷区と違って、治安がかなり悪い地域もある。
 
 マット・デイモンが演じた主人公ビル・ベイカーは、準備もそこそこにマルセイユに飛ぶ。そして躊躇うことなく現地のどこにでも行く。大した勇気だ。もし当方が単身でマルセイユに行くとしたら、基本のフランス語を改めておさらいした上で、現地ガイドを入国から出国まで予約するだろう。ビルの勇気は、娘可愛さの親心もさることながら、フランスでは公共の場所で英語が通じるということが大きいと思う。同じように公共の場所で日本語が通じるなら、当方もマルセイユに単身で行くかもしれない。
 
 刑務所でのアリソンの人相が悪い。性格も悪そうである。しかしフランスの大学に進んでひとりで渡仏するくらいだから、父親と同じように勇気と行動力はある。ということは犯罪を犯す勇気も行動力もあるということだ。アリソンの人相が悪いおかげで、本当にやったのかやっていないのか、迷いながら鑑賞することになった。演じたアビゲイル・ブレスリンの演技力は褒めていい。
 マット・デイモンの抑制の効いた演技がいい。人相の悪い娘を見ても、ビルはたじろいだ様子も見せずに愛しく抱きしめる。親の愛は娘の人相など関係ない。娘が自分は無実だと言えば、絶対に無実なのである。
 娘からはあまり信用されていないようだが、ビルの頭は悪くない。むしろ回転が速くて決断力に優れているように思えた。たったひとつの名前、たった一枚の写真だけを手がかりにして進んでいく。なんとしても娘の無実を晴らさなければならない。「英語がわかるのか?」と聞いて「はい、私です」と答えた私立探偵には笑ったが、ビルはムッとしてすぐに出て行ってしまう。笑っている場合ではないのだ。
 
 様々な幸運に助けられたり、酷い目に遭ったりするビルだが、心のどこかでアリソンを疑う気持ちもあったのではないか。マット・デイモンの演技には、そう思わせるところがあった。99パーセント以上はアリソンを信じているが、1パーセントにも満たない僅かな心のしこりのように、疑問が残っている。ビルの視線や顔のそむけ方で、当方はそう感じた。
 
 フランス映画を見る限り、フランス人の多くは個人主義である。質問している相手の老人がアラブ人は全員犯罪者だという考え方を披露して、それを聞いたフランス人女性がこの老人は差別主義者だとして質問を打ち切ったシーンがある。
 相手の主義など気にせず、情報を聞き出す目的を優先しようとするビルに対して、フランス人女性は「あなたもアメリカ人ね」と言ってしまう。しかし多分あとで後悔したに違いない。自分がフランス人だからと決めつけられたくないように、アメリカ人だからという理由で人を決めつけてはいけないのである。これではアラブ人が全員犯罪者だと主張する老人と同じだ。このフランス人女性を演じたカミーユ・コタンは上手い。レディ・ガガ主演の「ハウス・オブ・グッチ」にも出演している人気女優である。
 
 色白のアラブ人を説明するのに使った「ホワイト」という単語をビルが聞き返すシーンがある。白人を指す「ホワイト」をアラブ人の形容に使った違和感があったのだろう。違和感を持つビルに対して当方は違和感を持った。ビルをその単語に反応させた製作者の意図が気になったのだ。
 スティルウォーターの近くにタルサ市がある。1921年に「タルサの虐殺」と呼ばれる黒人大量殺人事件が起きた。虐殺ではなく暴動だと主張する人もいる中、100年後の昨年、バイデン大統領は「暴動ではなく虐殺だ」と言った。深読みし過ぎかもしれないが、ビルにも人種差別の傾向が残っているのかもしれない。
 
 本作品は、複雑な思いでマルセイユを動き回るビルと、彼と関わりを持つ人々の人間模様を描く。と同時に、娘のアリソンも含めた登場人物たちの人生観を浮き彫りにする。弁護士は法を振りかざしてなるべく楽な道を選ぼうとする。大学教授もそうだ。元警察官はビルが道を踏み外さないように心配する。親切な人は常に親切で、自分勝手な人はとことん自分勝手、無関心な人はどこまでも無関心だ。加えて、それぞれの人々に目に見えない差別意識がある。フランス人に「英語はわからない」と言われたら、バカにされたと思うアメリカ人は多いだろう。ビルもそうだった。そういったディテールにこそ、本作品の見どころがあると思う。