三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「きみが死んだあとで」

2021年04月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「きみが死んだあとで」を観た。
 長時間の映画だが、前半と後半に分かれていて、間に休憩もあるからまったく苦痛ではない。前半(上)ではタイトルの「きみが死んだあとで」の「きみ」である山崎博昭さんが羽田闘争で死んだ経緯についての人々の証言、後半(下)では山崎さんが亡くなったあとの学生運動の変遷とそれに関わった人々の証言を映し出す。
 ベトナム戦争については様々な考え方があると思う。1950年にはじまった朝鮮戦争は当時まだ記憶に新しく、韓国は朝鮮戦争で日本をはじめとする支援国が朝鮮戦争特需で大儲けしたことを知っていた。折からはじまったベトナム戦争に今度は自分たちが参加してベトナム戦争特需で儲けようとしたのが韓国の朴正熙政権の狙いであり、同じ図式でアメリカを相手の商売で大儲けしようとしたのが日本の佐藤栄作政権の狙いであった。そしてそのいずれの狙いも的中して、韓国も日本も大いに潤った。
 当時の日本は高度成長期であり、オリンピックが開催され、国内のインフラや道路や鉄道が整備され、大きなビルディングも次々に建設された。その原資となる金はどこから来たのか。朝鮮戦争やベトナム戦争で得た金が使われたのである。日本の高度成長とは要するに朝鮮特需であり、ベトナム特需であったのだ。ベトナム戦争で沢山の人が死のうがどうしようが知ったこっちゃない、自分さえ儲かればいいというのが日本の本音だったのである。もちろん当時から現在に至るまで誰もそんなことは言わないが、それが真実であることは多くの人が知っていると思う。
 学生運動は純粋である。戦争は人殺しだ。人殺しは悪だ。だから悪に加担する日本政府は許さない。だから佐藤栄作首相がサイゴンに行くのを阻止しなければならない。そういう論理である。しかし佐藤栄作は岸信介の弟であり、60年安保のときと同じく民衆がどれだけデモ行進をしようが我関せずである。正義よりも利益を優先するのだ。
 同じく日本国民も何よりも利益を優先する。自民党政権がずっと続いているのがその証拠だ。政権が最も願うのが政権の維持である。一旦得た政治権力は、別の勢力には渡したくない。だから一番大事なのは選挙に勝つことだ。政策は常に、次の選挙に勝つために何をすればいいかという動機で決定される。そして選挙で政権に不利になる発言をする反体制的な人間は、目障りだから排除しなければならない。
 水戸喜世子さんの話が最も印象に残った。山崎さんと一緒に羽田闘争に加わって逮捕された学生たちを援助した女性である。その後内ゲバで学生が殺されると、権力を相手ではなく少しのイデオロギーの違いみたいなことで人を殺す人たちは援助できないときっぱりした態度を取る。実に天晴れな女性である。
 夫は原子物理学者の水戸巌さんで、喜世子さんと一緒に反体制派の支援をするとともに、原発反対の活動家でもあった。双子の息子たちと登山した剣岳で遭難し、三人とも亡くなったが、本当に遭難であったのか疑わしい。テントがしっかりしているので亡くなった理由を発狂したと言う人がいるが、喜世子さんは、夫はともかく、冷静な息子たちが発狂するはずがないと断言する。
 水戸巌さんは福島第一原子力発電所が稼働した1971年ころから既に原発反対の活動をはじめていて、政権にとっては迷惑な人間であったことは確かである。喜世子さんによれば権力の監視は四六時中で、日常の動きもすべて把握されていたらしい。剣岳登山も事前に警察に登山ルートを届け出なければならないし、警察が遭難事件を起こすことは可能であった。つまり水戸巌さんは権力に殺されたのではないかと喜世子さんは疑っている。
 全共闘の初代代表であった山本義隆さんは、一連の運動は意義のあることであったと語るが、日本の有権者はその後もずっと自民党に投票し続けた。一時的に日本新党や民主党に政権が移ることはあったものの、再び自民党が政権を取り続けている。モリカケ問題があっても安倍晋三は選挙に勝ち続けた。スガ内閣の支持率も44%で、不支持率38%を上回っている。日本の有権者は自分の利益優先で、正義も民主主義も関係ない。
 このままいくと、東京五輪が中止になるか、大失敗に終わるのは間違いないし、破れかぶれの政権が、有権者の支持を維持するために外敵を求めるのは自然の流れだ。今だけ、自分だけの利益を考えて投票している有権者の行動が、とうとう最悪の事態を招くことになるのだ。そのときになって日本国民は漸く、山崎博昭さんの行動がどのような意味を持っていたのかを知るだろう。しかしもう遅い。
 本作品は、戦後民主主義がどのようにして守られようとし、そして踏みにじられてきたのか、その貴重な資料にもなると思う。同時に自分で考えることを放棄してきた日本国民が、戦争の災禍を経てもなお、考えることを放棄し続けていることを明らかにしている。コロナ禍についても自分なりの意見を持っている人は少ないだろう。情報を取捨選択し、自分の知識と経験を加味して判断するという教育を受けていないから仕方のないことでもある。自分で考える人間は権力者にとって邪魔な存在で、そういう存在を生み出さない教育をしている訳だ。安倍晋三が愛国教育を道徳という教科にしたのがいい例で、お国のために死ぬロボットみたいな人間をこれからも大量生産していくのである。

映画「SNS 少女たちの10日間」

2021年04月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「SNS 少女たちの10日間」を観た。
 本作品はSNSを使った実験映画である。12歳の女性を装ってSNSにプロフィールを公開して、交流申請してきた男たちの実情を描く。
 一説によると男性は52秒に一度は性的なことを考えるらしい。我が身を振り返れば、そんなに頻繁ではなくとも時々はそんなこともあると思う。しかし若い時のことを思い出せば、文字通り四六時中というのがそのまま当てはまるほど、セックスしたいなあという気持ちは頭を離れなかった。街で若い娘を見かけるとその娘とセックスをするとどのくらい気持ちがいいだろうかなどとすぐに考えたし、ナマ足のミニスカートにはチラチラと視線を送っていた。
 といっても妄想するだけであって、実際にそういう娘にちょっかいを出すことはなかった。学校や部活やアルバイトで忙しすぎたのである。それ以外の時間は本をたくさん読んだ。本を読んでいる最中はその世界に没頭するのであまり性的なことは考えない。将棋を指しているとき、麻雀をしているときなどは、性的なことを考えるヒマがない。ということはヒマな人間が性的なことばかり考え、その衝動が高じて女性に声をかけたり、最悪の場合には痴漢をしたりするのだろう。
 中国の諺で「小人閑居して不善を為す」というものがあって、つまらない人間は人目のないところでは悪いことをするという意味らしいが、ではつまらない人間とは何かというと、教養のない人間のことらしい。たしかに本作品に出てくるネット住民の男たちの殆どは教養がなさそうに見えた。
 日本の諺の「律義者の子沢山」は、真面目で品行方正な人は夫婦仲がよくて頻繁にセックスをするから子供が多く生まれるという意味で、肯定的に使われている。「貧乏人の子沢山」ともいうらしいが、貧乏で他に娯楽がなく夫婦でセックスばかりしているから子供が多いという意味なのか、子供がたくさん生まれたから貧乏になったという意味なのかは不明である。
 フロイトは性的衝動(リビドー)が形を変えて芸術や科学の活動のエネルギーとなると説明している。してみると当方が学生時代に本をたくさん読んだのは性的衝動の代替行動だったのだろうか。たしかに52秒に一度性的なことを考えるのであれば、その衝動を別のことに使わないと世の中に性犯罪が溢れることになる。
 日本の性犯罪の件数は戦後に比べると大幅に減少している。草食男子などという言葉が生れたように、性衝動のすべてを別のことに変換したり、性衝動の対象を二次元にしたりするなど、異性への欲望を直接から間接に変えたのだ。そうなると生身の女性は不要になるから、当然のように婚姻率は下がり、同時に出生率も出生数も下がって人口が減少する。
 日本は世界でも突出した少子高齢社会で、アフリカやインドの人口爆発と対象的である。世界の人口の動勢はよく登山に例えられる。登りがあれば必ず下りがある。登山においては実は登りよりも下りの方がより困難なのである。日本は下りの先頭にいて、右往左往している。
 本作品はチェコ映画であり、SNSで見ず知らずの女の子を相手に直接的な欲望をぶつけたり命令したりする身勝手なチェコの男たちを見せられたが、日本でも同じように少女が欲望むき出しの日本人の男たちによってトラウマを与えられていることも考えられる。
 しかしそもそもSNSにはそういう危険性が最初からあった筈だ。ノーパンのミニスカートで満員電車に乗る女性はいない。男たちばかりが一方的に非難されることには違和感を覚える。むしろ教育の不足を感じた。国語算数理科社会に加えて、低年齢の段階からインターネットの教育をする必要性があるのだ。そういう時代になったのだという、是とも非ともつかない複雑な感慨がある。

映画「るろうに剣心 最終章 The Final」

2021年04月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「るろうに剣心 最終章 The Final」を観た。
 主演の佐藤健がかつて言っていたように、本作品はアクションを楽しむ映画だと思う。実際にその通りで、剣劇にガトリングガンや迫撃砲を取り入れたアイデアも面白かった。しかしアクションは戦いがあってこそで、戦いのないアクションはただのショーになってしまう。では戦いをどこから持ってくるか。本作品はそこに苦労したフシがある。
 人間の怒りの源は被害者意識である。身体を傷つけられたり、大事なものを奪われたりすると、人は怒りを感じる。加害者の理由が理不尽で身勝手なものであれば尚更だ。加害者に悪意があれば、被害者は怒りが膨張して殺意さえ覚えるだろう。しかし逆に加害者に悪意がなくて偶然の事故だったり、不可抗力だったりしたことが判れば、怒りは急激に勢いが衰える。ときには怒りが消滅することもある。
 時が怒りを鎮めることもよくある。理不尽な被害に遭っても、何十年も過ぎてしまえば、怒りは薄れてしまう。世の中は理不尽なことで溢れているということを悟るのだ。賢い人は世の理不尽を上手に避けながら生きていく。自分は世渡りが下手だったか、運が悪かった。そう思うのである。
 学校で自分のことを虐めた先輩がいて、もし20年ぶりに再会したとしても、そいつのことを殴りたいと思う人はあまりいないだろう。戦うなら20年前に戦うべきだった。登山靴で登校して、虐められそうになったらとにかく登山靴で蹴って蹴って蹴りまくり、相手を再起不能にするとか、夜中にそいつの家に火をつけるとか、対抗手段はあったはずだ。戦わなかった自分が情けない。今更そいつを殴っても、情けなかった自分を救える訳じゃない。
 という訳で新田真剣佑が演じる縁の怒りの根拠があまりにも弱すぎることがわかる。つまり、たとえ大事な人を奪われても、その後相手に悪意がなく不可抗力であったことがわかり、その上歳月を経ている場合には、怒りは希薄になりその後霧散してしまう。本作品の縁の怒りの継続は不自然で無理矢理だとしか思えない。「シリーズ最強の敵・縁」と公式サイトにあっても白けるだけだ。
 無理な設定をするよりも、縁が子供の頃から悪意の塊であり、成長して悪のカリスマとなって虐殺と略奪の集団を組織し、その組織が巨大化してついには東京を襲撃するくらいの壮大な戦いにしてしまえば、縁の暴れぶりももっと容赦のない残虐なものになったであろうし、剣心のアクションをもっと自然に楽しめた気がする。
 とは言え、無理な設定の縁を演じきった新田真剣佑はとても見事であった。普段からハリウッド俳優みたいに身体を鍛えているのだろう。血管の浮き出た二の腕が恐ろしく強そうだった。対して佐藤健は少し細すぎる。剣術にパワーは不要だという説もあるが、それは違うと思う。高校のときに何度も優勝している剣道部員がいたが、彼はプロレスラーみたいにゴツくて、体育大会の100m走や走り高跳びはぶっちぎりで優勝していた。佐藤健も着物の肩のあたりが盛り上がる程度に鍛えていれば、新田真剣佑に対抗できそうな印象を持てたと思う。

映画「アンモナイトの目覚め」

2021年04月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アンモナイトの目覚め」を観た。
 映画「燃ゆる女の肖像」を鑑賞した人は、本作品の印象がとても似ていると思うだろう。当方もそう思った。いずれも海辺の寂れた場所が舞台なのでますますそう思える。どこが違うのか。その相違点に本作品の価値があると思う。
 まず場所と時代が異なる。「燃ゆる~」は18世紀フランスのブルターニュ地方の孤島であり、本作品は19世紀イギリスのブリテン島南岸の町ライム・リージスである。ちなみにライム・リージスから南下したところにガーンジー島があって、映画「ガーンジー島の読書会の秘密」の舞台となった。これも女性が主人公の映画である。そしてガーンジー島の南西にブルターニュ地方がある。19世紀イギリスは産業革命によって封建主義が崩壊しようとしている時代だったと思う。シャーロットが封建主義的な夫に反発するのは、女性の精神に封建主義が根付かなくなったことの現れである。
 本作品は男性監督のフランシス・リーで「燃ゆる~」は女性監督のセリーヌ・シアマである。ほとんどのシーンで監督の性別は無関係だったが、レズビアンの性描写のシーンでは男性監督と女性監督の差が出てしまった。本作品の性描写は直接的すぎてちっともレズビアンらしくない。「燃ゆる~」のセリーヌ・シアマ監督によるセックスシーンの方が数段上だった。
 名女優ケイト・ウィンスレットが演じた本作品の主人公メアリー・アニングは、著名な化石収集家である。実在した人物をレズビアンだったとする作品が堂々と公開されたことにはある種の感慨がある。そういう時代になったのだ。
 本作品のメアリーは、シャーロットと出会う前から自分がレズビアンであることを知っていた。その相手はフィオナ・ショウが演じたエリザベスである。登場シーンから乳を揺らしていて、なんだか妙に色っぽいおばあちゃんだと思って推測したのだが、多分間違っていないと思う。
 レズビアンという秘密を押し隠して、ひたすら化石集めをして細々と生活してきたメアリーだが、シャーロットに出逢ってレズビアンの欲望が疼き出す。感情を表に出さないけれども、視線はシャーロットを追っている。そのあたりのケイト・ウィンスレットの演技が見事だ。
 女であることで本を出版することが出来ず、地位も安定した生活も得られないことに甘んじているメアリーは、女性の地位向上についてのシャーロットの進んだ考えを垣間見て驚く。しかし知的な女性らしく驚きを見せないところがいい。音楽会で最後列に座るメアリーと最前列に座るシャーロットの位置が、そのまま二人の関係性となっている。
 18世紀末に生まれたメアリーと19世紀生まれのシャーロット。自由な女性、解放された女性としての自分を自覚しているかのようなシャーロットだが、自分の考えに他人を当てはめてしまうのが悪い癖だ。メアリーから、あなたは私のことを何も分かっていないと言われるのも当然である。
 本作品には女性解放やジェンダーフリーや封建主義的な精神からの脱却など、多くのテーマが詰め込まれている。しかしそうとは悟らせないように静かにシーンを重ねる手法が面白い。原題は「Ammonite」で邦題は「アンモナイトの目覚め」だ。久しぶりに見る優れた邦題である。19世紀のイギリス。女性解放はひそやかにはじまっていたのだ。

映画「The Vow from Hiroshima」(邦題「ヒロシマへの誓い サーロー節子とともに」)

2021年04月22日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「The Vow from Hiroshima」(邦題「ヒロシマへの誓い サーロー節子とともに」)を観た。
 https://www.hiroshimaenochikai.com/

 節子さん、ヒロシマの被爆者サーロー節子さんがドキュメンタリーの中心だ。被爆二世である竹内道さんがプロデュースし、ナレーションも担当。戦後から一貫して被爆体験を語り核兵器廃絶を訴え続けてきた節子さんに対して、竹内さんの母親が死ぬまで沈黙し続けたことを対比させる。節子さんの勇気は壮絶だが、竹内さんの母親が必ずしも勇気のない人ではなかったことが、作品の中で次第に明らかになる。

 節子さんは50年以上連れ添った夫のことをsoul mate(魂の友)と呼ぶ。英語でも日本語でも、とてもいい言葉だと思う。夫婦でもパートナーでもなく、ましてや同居人でもなく、魂の友と呼べる存在があったことは節子さんにとって僥倖である。そこまでわかり合える人間が近くにいる人は少ないだろう。
 以前、野球の落合博満選手がテレビで、世界中が敵になっても妻ひとりが応援してくれればそれでいいという意味合いの発言をしていた。印象に残った言葉だったのでいまだに憶えている。落合選手にとって奥さんは魂の友なのだろう。三冠王を三度も獲得した背景が少し理解できた気がしたものだ。

 節子さんは自分が差別主義者だったことを臆せずに告白する。ソーシャルワーカーの仕事を通じて貧しい人々と接することで、それに気づいたとのことだ。小さな頃からの封建主義教育で植え付けられた差別意識を克服するの大変な努力が必要で、多くの人はその努力を放棄して、差別を正当化してしまう。元五輪準備委員会会長の森喜朗がその典型だ。
 そして森喜朗と同じような差別意識は誰もが持っている。もちろん当方も持っている。差別は不寛容だから、何らかの不寛容な感情を抱いたと自覚したときに、これは差別ではないかと自省することにした。一生自省し続けることになるだろうと覚悟している。

 節子さんは普段から英語で話す。67年も英語で暮らしているから、20年にも満たない日本語での生活に比べれば、圧倒的に英語のほうがしっくりくるのだろう。地方から東京に出てきて東京暮らしのほうが長くなると方言を話せなくなってしまう場合があるのと同じである。
 被爆したときは日本語を話していた訳だが、被爆体験は英語でも十分に表現できるのだと感心した。英語にない単語は日本語をそのまま使えばいい。tofu や sushi が英語になっていたり、麻婆豆腐が日本語になっているのと同じで、節子さんの hibakusha やワンガリさんが使った mottainai もそのうち英英辞典に載るのだろう。

 節子さんが応援した核兵器禁止条約が2017年7月7日に国連総会で採択されたことは非常に意義のあることで、節子さんによれば、これまで倫理的道義的によくないとされてきた核兵器が、これからは違法となる訳だ。国連総会の採択に激しく反対し、欠席するように各国を脅したのは、その年の1月まで駐日米大使を勤めていたキャロライン・ケネディである。
 同条約は今年(2021年)の1月22日に発効したが、日本はアメリカのポチだから、この有意義な条約をいまだに批准していない。今月(2021年4月)にアメリカまでのこのこ出かけていった稀代の無能首相がまっさきに挨拶したのがキャロライン・ケネディである。バイデンに脅されて中国の悪口まで言わされていたが、日中関係が経済的に巨大であることを多分知らないのだろう。関係悪化は即日本経済にダメージを与える。万が一アメリカと中国が衝突したら、真っ先に犠牲になるのは沖縄に決まっている。
 そんなアホのガースーはもう帰国したが、海外から入国したすべての人が2週間のカンヅメが強制されている。しかしその指令を出した当の本人は帰国して平気であちこちほっつき歩いている。もしかしたらコロナウイルスを撒き散らしているかもしれない。1年くらい隔離してほしい。

 節子さんの純粋で勇気のある行動や発言や演説には心から感動して、鑑賞中は涙も鼻水も流してしまった(鑑賞にあたってはティッシュとハンカチが必須です)。すべての核保有国とその衛星国(日本をはじめとするポチの国)が核兵器禁止条約を批准する日は当分来ないだろう。当方のようなペシミストは近い将来、地球温暖化が解決する前に人類は核戦争で死滅するだろうと悲観しているが、もし本作品を世界中の人が観たら、核兵器が人間に何をするかという節子さんの訴えが伝わるだろう。もしかすると核戦争を防げるかもしれない。僅かな光が見えた気がした。


映画「アウトポスト」

2021年04月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アウトポスト」を観た。
 ネットの前評判から、勲章をもらった兵士を礼賛するような映画のような気がして鑑賞を後回しにしていた作品である。しかし鑑賞してよかったと思う。
 兵士たちの描写が大変にリアルだ。いつとも知れず、どこからとも知れず銃弾が飛んできて、時には誰かが怪我をしたり命を失ったりする。それがアウトポスト(前哨基地)の日常だ。精神を病まないでいるためにハラスメント行為をし、虐められてやり場のない新兵は麻薬をやり、大酒を飲む。
 アウトポストを支配していた空気は、この場所が必要なのか、我々は何をしているのか、任務ってなんだというニヒリスティックな疑問だった。守るべき住民の代表である長老たちは金銭ばかりを要求するし、そのために無関係な屍体まで持ってきて米軍が殺したと主張することも辞さない。そこでさらに疑問が加わる。俺たちは何を守っているのか。
 アフガニスタンはイスラム原理主義のタリバンに支配されようとしているのをアメリカが阻止しようとしていまだに交戦が続いているが、国民の殆どを占めるイスラム教徒にとってアメリカは異教徒だ。タリバンの圧政は嫌だがアメリカ人も嫌だ。その雰囲気は兵士たちにも伝わっている。アメリカが介入する意味ってあるのか。
 クライマックスの総力戦のシーンはまさに息を呑む迫力である。四方八方から銃弾が飛び交い、迫撃砲やRPGも不意を突いて飛んで来る。こちらにも迫撃砲や大口径の機関銃や狙撃銃はあるが、至近戦では小回りの利かない武器はすぐに使えなくなる。残っているのは突撃銃とグレネードくらい。そして兵隊の数ではタリバンが圧倒している。
 そんな中、ある兵士は負傷した仲間を救うために銃弾の雨の中を走り、もうひとりはその援護射撃をする。生き残るのは僥倖でしかない。
 また別の兵士は極めて短い時間に戦術を練り、断然不利な状況を跳ね返そうとする。成功するにはよほどの幸運が必要だが、何もしないで犬死するよりはましだ。
 運のよかった者が生き残り、運の悪い兵士が死んだ。しかし最初からこんなところに来なければ死ぬこともなかった。これが犬死でなくてなんだ。生き残った兵士も死んだ兵士も勲章をもらった。その勲章になんの意味があるのか。彼らは勲章をもらって本当に嬉しかったのだろうか。
 映画は勲章を肯定も否定もしない。ただ勲章が授与されたという事実を告げるだけだ。観客が悟るのは、戦争のPTSDはこのようにして生まれるのだということである。アウトポストには女性兵士がひとりもいなかった。

映画「AVA エヴァ」

2021年04月20日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「AVA エヴァ」を観た。
 格闘技には反則技が定められている。フルコンタクト空手と呼ばれている極真空手でも、試合となると沢山の反則がある。試合で死人や片輪が出ると困るからである。極真の試合に出るような人の打撃の強さは半端ではない。あまり知られていないが、反則のひとつに膝関節への攻撃がある。極真の道場で鍛えた空手家が前蹴りや横蹴りで正面から相手の膝関節を蹴ると、膝は確実に破壊される。下手をすると一生車椅子生活になる。
 兵士が訓練する近接格闘術は、柔道や空手の反則技だけを繰り出すようなもので、相手の身体や生命に確実なダメージを与えて戦闘不能にするのが目的だ。膝関節への正面からの攻撃も含めて、腰椎、頚椎への攻撃などを次々に繰り出す。文字通り死闘である。
 さて本作品のヒロインAVAエヴァを演じたジェシカ・チャステインはよく頑張っていると思う。44歳。撮影当時は43歳だったと思われるが、アクションもまだ現役である。一瞬だけ動きが緩慢になっているように見えるシーンがあったが、激しい動きが続くと筋肉の動きが悪くなるから、そういう演出だったのかもしれない。
 これまで映画で見たアクションの中ではマット・デイモン主演の「ボーン・アイデンティティ」の部屋での格闘が一番迫力があって真に迫っていたと思っているが、本作品のエヴァの肉弾戦も悪くない。小柄な女性だから筋力や体重には限界があるが、それをカバーする体術がある。躊躇いなく急所を確実に狙うところがいい。
 女の暗殺者が主人公の映画では2019年の「ANNA アナ」や少し古いが1991年の「ニキータ」の印象が強い。いずれもリュック・ベッソン監督だ。本作品はそれらに比べると少し落ちる気がする。暗殺シーンが少ないのが原因かもしれない。観客はヒロインがどれほどのレベルの殺し屋なのかを知る必要がある。しかし冒頭の暗殺シーンだけではよくわからない。事故死や病死に見せる暗殺もある筈で、それらのシーンがあればもう少し作品に厚みが出たと思う。本作品は起承転結で言えば承の部分がなくて起からいきなり転に行ってしまった感があり、やや観客が置いていかれる。
 ただ、ラストシーンがとてもいい。アメリカ映画らしくなく余韻がある。古いマンガだが、白土三平の「カムイ外伝」を思い出した。

~筒美京平 オフィシャル・トリビュート・プロジェクト~

2021年04月18日 | 映画・舞台・コンサート
 東京フォーラムホールAでコンサート「~筒美京平 オフィシャル・トリビュート・プロジェクト~ ザ・ヒット・ソング・メーカー 筒美京平の世界 in コンサート」に行ってきた。
 
「ブルー・ライト・ヨコハマ」を伊東ゆかりが歌ったのにはじまり、麻丘めぐみ、浅田美代子、稲垣潤一、太田裕美、大友康平、大橋純子、郷ひろみ、斉藤由貴、ジュディ・オング、庄野真代、C-C-B、中村雅俊、夏木マリ、野口五郎、NOKKO、野宮真貴、早見優、平山三紀、藤井隆、ブレッド&バター、松崎しげる、松本伊代、武藤彩未、森口博子、LittleBlackDress、ROLLY(あいうえお順)が次々に懐かしい歌を披露した。17時開演で休憩を挟んで終演が21時。4時間があっという間である。4月17日と18日の二日間だけの限定公演だ。15,000円も高くないと思った。

映画「Proxima」(邦題「約束の宇宙(そら)」)

2021年04月18日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Proxima」(邦題「約束の宇宙(そら)」)を観た。
 エヴァ・グリーンは2017年の映画「告白小説、その結末」で初めて見て、ずいぶん綺麗な女性が出てきたなと思った。ミステリアスな役だったので、余計にそう見えたところもあったと思う。
 本作品の撮影時は39歳くらいだと思うが、相変わらずの美貌である。エヴァ・グリーンが母親となると娘はかなり可愛くなければならないが、娘のステラを演じた子役は、かなりどころか驚くほど可愛くて、整った顔立ちにフランス人形のような眼をしていた。
 美人の母娘が登場すると、物語は当然ふたりの関係性の変化が中心となる。母親は宇宙飛行士だ。映画は、仲のいい娘と母親が物理的に離れなければならない状況になったとき、ふたりがそれぞれどのように感じて何を思うのかを表現する。製作者は子供のいる女性の宇宙飛行士の存在に着想を得たようだ。なるほど母親が宇宙に行くのであれば流石に娘は連れていけない。
 母親のサラは自己実現と娘への愛情のはざまで苦悩する。もし父親であればそんなに悩まないだろう。映画は、子育ては母親がやるものだという意識が先進国にあっても未だに残っていることを描く。そして同時に、父親だけでも娘はきちんと育つことも描く。やや共依存の傾向があった母娘の関係が、母親の訓練で離れているうちに娘は人格的に独立して、出発する母親を気遣うことができるようになる。あるいは母親のほうが依存している面があったのかもしれない。
 エヴァ・グリーンは本作品の母親役には美人すぎるところもあったが、数ヶ国語を操り専門知識も持つスペシャリストの役を上手に演じていたと思う。娘の成長に気づいて自分の精神性を抑制しようとするところもインテリらしい。母娘の心と関係性の変化が面白い作品である。

映画「椿の庭」

2021年04月17日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「椿の庭」を観た。
 最初の映像から、舞台は鎌倉のあたりだと思った。
 海が見える丘の上の家。そして広い庭。庭にはたくさんの花が咲く。椿や躑躅、藤、紫陽花、それに蓮の花。景色を邪魔しない淡い色の花ばかりだ。絹子と孫の渚が住む古い家は、花の淡い色を邪魔しない。花も庭も家も控えめである。
 虫や小動物もいる。藤には熊蜂が飛び交う。熊蜂はよほど藤が好きなのだろう、普段は見かけないのに、藤棚が満開になると必ず飛び交っている。
 紫陽花の花の上にいるカマキリは何を考えているのだろうか。蓮が植わっている大きな鉢の水の中を覗くと赤いランチュウが泳いでいる。渚のお気に入りだ。ぱくぱくぱくぱく。
 時間がゆっくりと過ぎていく映画である。象徴的なシーンがあった。花があって蝶がとまる。カメラは動かない。きっと、蝶が花から離れて再び舞うまで動かないのだろうと思っていたら、その通りだった。
 スピーディに展開する最近の映画に慣れた人には冗長に感じるかもしれない。しかし決してテンポが悪いわけではない。ひとつひとつのシーンに味わいがあるのだ。蝶が飛ぶまで待つようにシーンを味わう。ときにはさっと過ぎてしまうシーンもある。その緩急が本作品の肝である。
 雨が降って花を散らしてしまう。来年にはまた花が咲くが、その花は散った花とは別の花だ。晴れた日には庭からの海の眺めが美しい。しかし美しさで食べていける訳ではない。
 時は流れ、人は歳を取り、ひとりふたりとこの世から去っていく。毎年のように咲く花を愛でる。花は散るから美しい。散った花びらが道を飾る。しかし椿は花びらを散らさない。散るときには花ごとポトリと落ちる。ある日突然落ちるのだ。
 女優生活が57年になる富司純子。常に着物で過ごす凛とした佇まいがシーンを引き締める。波乱万丈の女優人生が、主人公絹子の人生に重なるようだ。それは花の人生である。絹子は椿だ。散り際を悟り、万感の思いをこめた短い手紙を渚に宛てて書く。古い万年筆が紙を掻く音が耳に残る。