名古屋の闇サイト殺人事件で被告3人のうち2人に死刑判決が出されました。残る1人が無期懲役だったことを受けて、被害者の母親が、全員の死刑を望んでいたのに納得できない、控訴を求める、とコメントしたようです。遺族の感情として当然という意見もあるでしょうが、私は違和感を覚えます。
殺人事件とは違いますが、クレームをつけてくる客の中には、こんな従業員は馘にしろとか、こんな店はすぐに閉店しろとか、そんなふうに言ってくる人がいます。大抵はきちんと謝罪して改善を約束し、ご意見を戴いたことに感謝すれば納得していただけますが、中にはテコでも納得しない人がいて、どんなに謝罪しても、許せないと繰り返すばかりで、一向に終わろうとしません。物やお金で解決しようとすればさらに怒るのは目に見えているので、どうにも困ってしまいます。従業員を馘にしたり店を閉店したりするのは簡単に出来ることではありません。クレーム客から言われて、ハイそうですかと馘にしたりすると、労働問題で大変なことになります。そもそも、客からの一方的な言い分だけで従業員を解雇したり店舗を閉店したりする会社など、どこにもありません。当然の話です。
ところがその当然の話が分かっておらず、どうしても馘にしろとか閉店しろとか強要してくる人がいます。あまりしつこい場合は強要罪となります。ですから、最後はそういう法律用語を持ち出して、物別れも辞さない心構えで応じます。その段階まで行くようなクレーム客は、諦めてクレームをやめることは決してなく、お前じゃ話にならないから、上司を出せ、社長を出せと言ってきます。これもまた脅しです。そこで、これは脅迫です、警察に言いますからねと通告して、やはり決裂します。
そういう客の心理は、とにかく私たちの存在が許せない訳で、何を言っても納得するはずがありません。突き詰めた言い方をすれば、相手が死ぬまで許さないという心理です。その人に不快な思いをさせたからといって、そのたびに死んでいたら、命がいくつあっても足りません。決裂するよりほかにないのです。
昔知り合いだった女性で、おばあちゃんが横断歩道で自動車にはねられて亡くなった人がいました。状況をよくよく聞くと、歩行者用の信号はすでに赤になっていて、トラックが右折しようとしたところにおばあちゃんが駆け込み、接触自体は軽かったのですが、道路に倒れて打ち所が悪く、そのまま亡くなってしまったということでした。警察の検証でも歩行者の過失割合が7割となりました。歩行者が7割というのは、自動車対歩行者では最大の過失割合です。つまりほとんどはおばあちゃんの自業自得だった訳です。
ところがこの女性はいつまでも相手ドライバーに対する恨みを口にします。謝罪の仕方に心がこもっていない、うわべだけの謝罪では納得できない、病院に来るのが遅かった、謝罪に来る回数も少ない、賠償を保険会社に任せっきりにしていると、言いたい放題です。そんなことを言っても仕方がないでしょう、おばあちゃんが帰ってくるわけでもないし、相手を責め立ててもおばあちゃんが浮かばれるわけじゃないと、いくら言っても、他人のあなたにはわからないと言うのみで、どこまでも頑なな態度でした。説得も付き合いも諦め、以後その女性とは会っていません。
かつて「粋(いき)」という言葉がありました。反対語は「野暮」または「不粋(ぶすい)」です。
粋とはひと言でいえば、諦めがいいことです。野暮は諦めが悪い。衣類や家具や建物を飾り付けるのに、諦めきれずにどこまでもゴテゴテと飾り付けるのは、誰が見ても野暮です。反対に、墨絵のような白地を生かすようなさらりとした飾り付けを粋と言います。いちばんいいところか、または少し足りないところでスパッとやめる。後に禍根を残さない。周囲をうんざりさせない。それが粋です。そうでない人を野暮と言い、野暮な人のことを唐変木(とうへんぼく)と呼んだりします。
周囲をうんざりさせると言えば、今はやりの言葉でKYという言葉があります。空気が読めない。これを野暮というかというと、それは違うと思います。野暮はあくまで粋の反対語です。周囲が粋な人ばかりならKYは野暮ということになりますが、周囲が唐変木ばかりなら、KYは野暮とは言えません。むしろ逆かもしれない。
KYという言葉は、使い始めたのが女子高生や女子中学生であることからもわかるように、他人を貶めるために使う、程度の低い言葉です。KYと言われた人は、エスカレートすると村八分状態になりかねない。あの人は空気が読めないという表現は、協調性がないとか、自分勝手であるとかいった、通知表にかかれるような欠点を表したものです。みんなでひとりの人を責めるための大義名分です。これは実は「非国民」という言葉を使うのと同じ心理で使われています。だから、KYという言葉が流行するのは、非常に危険な兆候なんですね。
さて、誤解を恐れずに言えば、遺族が被告に対して死刑を求めるのは、野暮だと思います。そういう人が刑務所を出てきてまた同じことをするのを防ぐ意味では、死刑も有効でしょう。しかし自分たち遺族の気が晴れないという理由で他人を死刑にしてほしいなら、それはいい感情ではありません。もしどうしても死刑にしてほしいと主張するなら、自ら死刑執行人を務めるべきだと思います。死刑も公開処刑にすればいいでしょう。自分の押したスイッチで苦しみながら死んでいく死刑囚を見てどのように思うのか、また観衆としてそれを見る庶民はどのように感じるのか、そのあたりから見直してみるのがいいと思います。またそれだけの覚悟なしに、人を死刑にしてほしいなどと軽く言うべきではない。
現代は野暮な時代です。諦めを知らない唐変木の時代です。現世の自分の利益のみを追い求める我利我利亡者の時代です。KYと呼ばれようとどうしようと、周囲の唐変木に惑わされずに粋でいたいものですが、それには客観的で論理的なものの見方に加え、相当な覚悟が必要になります。しかもその前に、粋が受け入れられる社会でなければなりません。マスコミに惑わされて、学校や会社やご近所づきあいの中で、「KY」などという言葉を使って他人を貶めているようでは、どこまでいっても野暮な時代が続きます。そしてその確率は、ため息が出るほど高いと思います。