三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯」

2019年08月29日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯」を観た。
 http://kamejiro2.ayapro.ne.jp/

 瀬長亀次郎のドキュメンタリー第二弾である。今回最も心に残った言葉は「小異を捨てないで大同につく」だ。説明不要、言葉のままの意味だ。人はそれぞれに生まれながらの違いがあって、その違いをなくすことは不可能である。だから違いを認めたまま、大きな同一の目的のために連帯するのが現実的で、そのやり方であればその後の内部対立を生まないという考え方だ。実に理に適っている。
 現在の野党も同じやり方をすればいいという声もあるが、たとえば憲法改正についての考え方は同じではない。野党議員の中にも憲法改正に賛成の者がいる。そして憲法改正は小異ではない。大同だ。消費税増税についても同じである。
 そう考えると、この国で野党と呼べる政党は共産党と社民党だけということになる。れいわ新選組はまだ海のものとも山のものともしれないし、N国は与党でも野党でもない。立憲民主党と国民民主党は憲法改正について大同団結していない。公明党と維新の会は与党である。議員定数465人の定数の内、野党は共産党12人と社民党2人の14人。割合でいくと僅か3パーセントである。道理で共謀罪も安保法制も特定秘密保護法もサクッと通るはずだ。
 議院内閣制では衆議院議員の多数派が総理大臣を指名するから、行政も国会も同じ権力者に集中する。そして最高裁判所の裁判長は内閣が指名し、裁判官は内閣が任命するから、司法も行政も立法も同じ権力者である。「私は立法府の長である」と暗愚の宰相アベが言ったのは、理論的には間違っていても、現実的にはそのとおりである。「私は行政府と立法府と司法府の長である」と言いたいところなのだろう。実際に最高裁が行政府に不利な判決をしたのはここ最近では見たことがない。
 これは実は由々しき事態ではなかろうか。有権者のバランス感覚がおかしいとしか言いようがない。アメリカの大統領選挙でも大抵は接戦だ。投票率は日本と同じくらい低くて50%ちょっとだが、アメリカでは投票するために有権者登録をする必要がある。日本でもアメリカと同じように選挙のたびに有権者登録が必要になったら、投票率は激減するだろう。半減して25%くらいになる気がする。そうなったらもはや民主主義国たり得ない。
 瀬長亀次郎の長い戦いはその後も引き継がれてはいるが、少なくとも選挙の結果を見る限りは、日本の有権者は沖縄などどうなってもいいと考えていると判断せざるを得ない。非常に残念である。

 さて、瀬長亀次郎のブレない姿勢はドキュメンタリー第一弾でも十分に解ったつもりだったが、沖縄を統治する米軍から被選挙権を剥奪されたことは本作品で紹介されるまで知らなかった。政治家にとって被選挙権がないということは四肢をもがれたに等しい。しかし亀次郎には、何もできないから諦めるという選択はなかった。被選挙権がなくても立候補する。選挙運動をする。賛同してくれる同士を応援する。
 家にあっては相談に来る人の話をすべて聞く。アドバイスがあれば話して聞かせる。金が無いと言われれば借りてきて渡す。借りてくるのはいつも亀次郎の妻瀬長フミさんだ。亀次郎は政治家だからそれなりの対面を保たなければならない。だから影でフミさんが苦労していた。蓋し良妻の鏡のような女性である。
 本作品のハイライトはフミさんの知られざる活躍である。この女性がいたからこそ、瀬長亀次郎の不屈の人生があったと思う。亀次郎は94歳という長寿で、フミさんは100歳まで生きた。長寿のご夫婦である。二人の信念は、民衆が黙っていない、必ず米軍のいない、基地のない平和な沖縄が取り戻せるというものであった。いまだにそれを実現できていないことを日本の有権者のひとりとして恥ずかしく思う。
 前作に引き続いてナレーションを担当した山根基世の落ち着いた声はとても聞きやすい。男性のナレーションは前作の大杉漣も悪くなかったが、本作の役所広司のナレーションはとてもいい。声に力がある。日本の有権者はしっかりせいと、聞いているこちらが励まされるようであった。


映画「命みじかし、恋せよ乙女」

2019年08月27日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「命みじかし、恋せよ乙女」を観た。
 https://gaga.ne.jp/ino-koi/

 数日間あるいは数か月間という比較的短時間の物語であっても、他の登場人物はいざ知らず、少なくとも主人公の過去については、物語の中で語られることが多い。日常の瞬間的な景色や風景を切り取った作品などには登場人物に関する説明が一切ないこともあるが、主人公の人格が物語に重大な影響を与える場合には、生い立ちから語られることもある。
 人間の人格は気質などの遺伝的な要素に加えて、乳幼児期に決まる気性、それと経験と記憶によって形作られる。記憶の殆どは無意識の領域にあり、大部分は自覚がない。だから本人から話を聞いても、それは人格を形作るほんの一部であり、どれだけ長く話を聞いたとしても、本人の話だけでその人を理解するのは非常に困難である。意識と無意識の割合は、一説によると一対数万と言われている。人間の人格は無意識の内にあると言って過言ではない。
 加えて人間は嘘をつく。記憶は本人の望むように改変されるから、嘘をついている自覚がない場合もある。そういった条件が人間相互の理解を困難にしている。他人と理解し合えたと思うのは錯覚である。さもなければ奢りだ。人間は生物の中で最も高等だから、最も個体差が大きい。特に精神世界については千差万別であり、まさに人それぞれだ。共通点よりも差異のほうが圧倒的に多い。深くて狭い川があるのは男と女の間だけでなく、すべての人間同士の間にある。
 しかし理解し合えないことを嘆く必要はない。寧ろ理解し合えないのが当然と思っていれば、たまに同じ星を見て美しいと言い合えることが大きな喜びになる。人は誰でも心の奥に混沌とした闇を隠している。自分でも上手く説明できない闇だ。広大な闇の世界に光を当て、その姿を朧気に浮かび上がらせると、人類に通じる真実が見えるかもしれない。

 本作品に登場する「ゴンドラの唄」は、黒澤明監督の「生きる」で象徴的に使われた歌である。昨年(2018年)の秋に赤坂でミュージカル「生きる」を観劇した。主人公渡辺勘治を鹿賀丈史と市村正親が交互に演じるダブルキャストで、当方が観劇したのは鹿賀丈史のほうだった。とても味のある歌を歌う人で、テレビで「Allez Quisine!」と元気に叫んでいたときから月日は流れ、いまでは枯れた男の哀愁を醸し出す。

 本作品の主人公カールはエリート銀行員からアル中に身を落とし、妻子からも捨てられそうになっている。この男がこれからどのように世界と関わっていくかが作品のテーマだから、彼の生い立ち、トラウマ、妄想などが描かれる。意外に複雑な人間関係で、そこに登場するのが謎の日本人女性ユウだが、トラウマを解(ほど)くよりも、ありのままを肯定しようとする。思えば主人公は否定される人生だった。しかしユウは何も否定することがない。流石ニーチェの国の映画である。肯定が力強い。
 ドイツ語と日本語と英語がランダムに出てくる作品である。神はどこにも出てこない。代わりに幽霊や悪霊が跋扈し、主人公の精神世界の闇を描き出す。闇を拒絶し現実から逃避するためにはアルコールが必要であった。しかしアルコールは闇をさらに大きくするばかりである。ユウと行動をともにしてトラウマの場所を尋ねることで、闇を闇として心に抱えて生きていく覚悟がいつの間にかできたようだ。神を否定し、生を肯定する。パラダイムはもはや意味を成さない。
 祭は共同体の精神世界を操るものだ。かつてはシャーマンが祭を取り仕切った。いまでは祭は形骸化して形式だけのものとなっているが、参加者の誰も意味がわかっていない祭の手順には、霊的なものが潜んでいる。祭の中にこそ人間の闇があるのだ。幽霊も悪霊もそこに集い、打楽器のリズムや掛け声の中で練り歩くうちに、人々の中の闇が少しばかり解き放たれる。ある種の浄化作用である。
 主人公がこれからどのように生きるかは不明だが、世界との関わりは確実に変化した。樹木希林が演じた老女将は、主人公の浴衣の左前を右前に直す。象徴的な場面だ。死者の世界との決別である。彼女がカールのお尻をポンポンと叩きながら「生まれてきたんだから、幸せにならなくちゃ」と言うときにも、やはり生を力強く肯定する世界観が示されている。日本語が理解できないはずのカールも何故か晴れ晴れとした表情を浮かべる。生は死を内包しているが、死の闇に生を差し出す必要はないのだ。そんなふうな映画だと思う。


映画「The Boy Who Harnessed the Wind」(邦題「風をつかまえた少年」)

2019年08月26日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「The Boy Who Harnessed the Wind」(邦題「風をつかまえた少年」)を観た。
 https://longride.jp/kaze/

 恥ずかしながら勉強不足でマラウイという国の存在を知らなかった。映画を見る限りではかなり貧しい国で、毎日同じものばかりを食べている印象である。食べていくだけで精一杯の生活で、両親もこの生活がいい生活だとは思っていない。子供たちには自分たちよりもいい暮らしをしてもらいたい。できれば学校にやって知識を身につけて、世の中の役に立つ人になってほしい。そして収入をたくさん得て、毎日の暮らしに汲々としない幸せな人生を送ってほしい。戦後の日本人の両親の願いも同じようであった。
 農業は自然を相手の仕事だから、先が読めない。長雨や台風、津波などの自然災害も恐ろしいし、植物には害虫や病気もある。熱帯気候のマラウイでは乾季には作物を育てられない。必ずしも水さえあれば栽培がうまくいく訳ではないが、本作品は乾季に食糧危機に陥る状況を打開するために奮闘する少年を描く。
 主人公ウィリアム・カムクワンバは、小学校は行けたが、授業料を払う義務のある中学校へは、頭金を支払った分だけしか通えない。機械の構造などに詳しく、近所の人からラジオの修理を頼まれるほどである。勉強が好きだが、夜は明かりがないから勉強できない。日本で歌われる「蛍の光」は、夏の夜は蛍の光を頼りに、冬の夜は雪あかりを頼りにして勉強したという出だしだが、電気の供給がなくホタルも雪もないマラウイでは、灯油ランプである。しかし灯油を買う金がなければ夜は闇で勉強などできない。
 それでもウィリアムは勉強し、やがて乾季の対策を考え出す。普段から真面目で親の仕事を手伝うウィリアムの必死の頼みは、母親をして父親を説得させる。また、姉はウィリアムのために一大決心をする。日頃の行ないは大事である。わかっていても感動する風車のシーンは本作品のハイライトである。ウィリアムは家族だけでなく、地域の人々から信用されていたのだ。

 これより先は当方の私的な意見である。意見というよりも偏見かもしれないが、子供を作ることを是とする人にとっては不愉快な見方なので、予めご注意申し上げる。

 ひとりの少年の成功物語はそれなりに評価できるし楽しんで鑑賞できたのだが、観ていてひとつ疑問が残った。これほど貧しいのに、どうして子供を作るのかという疑問である。人間には子供を生む自由と生まない自由がある。貧しくて子供を育てられないなら子供を作らない選択肢もあったはずだ。人間以外の生物は、自己複製のシステムとしての生物だから新たな生命を誕生させようとする。しかし人間だけには子供を生まない選択をする能力と自由がある。
 先進国では日本を筆頭に、少子化がはじまっている。生まない自由を行使する人が増えたということだ。子供がいなければいじめられる心配もないし、よその子供をいじめる心配もない。育児ノイローゼもないし教育費もかからない。大人になって殺人を犯したりする心配もない。自分が歳を取って要介護になったときに、子供に負担をかけることもない。子供がいれば沢山の喜びがあるが、ハイリスクハイリターンなのである。
 悪魔パーピマンはゴータマに「子のある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。人間の執著するもとのものは喜びである。執著するもとのもののない人は実に喜ぶことがない」と言ったが、ゴータマは「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著するもとのもののない人は、憂うることがない」と答えた。
 子供を生むのもよし、生まないのもよし。個人の自由である。ただ子供が与えてくれる喜びだけを考えるのではなく、子供がいることで生じるリスクについても考える必要があるのではないかと思う。女性は子供を2人以上産めなどと人権無視の発言をする阿呆な政治家や教員もいるが、人類の存続や共同体の存続の責務を個人が背負う謂れはない。
 人口爆発を続ける途上国では乳幼児が多くの割合で死亡する。餓死する人たちもあれば政府に虐殺される人たちもいる。ボロ布のように失われていくそれらの命のひとつひとつが、アメリカ合州国大統領の命と同じ重さであることをよく考えなければならないと思う。


芝居「ブラッケン・ムーア~荒地の亡霊~」

2019年08月25日 | 映画・舞台・コンサート

 日比谷のシアタークリエで岡田将生主演の芝居「ブラッケン・ムーア~荒地の亡霊~」を観劇。
 岡田将生演じる22歳の主人公テレンス・エイブリーが10年前に事故で死んだ友達の両親を10年ぶりに訪ねると、10年前に死んだ友達エドガー・プリチャードの亡霊に悩まされるという話である。エドガーの母親エリザベスを木村多江、父親ハロルドを益岡徹が演じて、重厚な芝居になった。
 驚愕というほどでもないが、それなりに考えられた結末に納得するものがあった。ハロルドが超常現象など信じないと最初に宣言していたこと、引きこもっていたエリザベスの生き返ったような微笑みが救いである。
 テレンスと一緒にプリチャード家を訪れるテレンスの父ジェフリーと母ヴァネッサの会話のひとつに、鉄道の旅客のひとりの女性がヒトラーを称賛しガンジーを敵視するという内容があった。第二次大戦の始まる前、1937年にはヒトラーやガンジーに対して賛否両論あったことが知れる。
 メイドのアイリーンを演じた前田亜季がなかなかよかった。ベイリーさんとギボンズ医師の両方を演じた立川三貴はベテラン俳優らしい存在感があり、ハロルド・プリチャードの置かれた立場を端的に説明してくれる。エリザベス・プリチャードの木村多江の目が光る。双眼鏡で見ていて残念ながら視線が合うことはなかったが、それでも凄まじい目の力だった。木村多江を見に来たので、満足の行く舞台であった。


映画「SUBMERGENCE」(邦題「世界の涯ての鼓動」)

2019年08月25日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「SUBMERGENCE」(邦題「世界の涯ての鼓動」)を観た。
 http://kodou-movie.jp/

 人が人間性を試されるのは極限状況にあるときである。だから多くの物語の主人公は、普段の生活では体験しない特別の状況に置かれる。日頃どれだけ見栄を張ったり自分を飾っていても、究極の決断を迫られる場面ではその人間の本性が出る。主人公の決断によっては、読者や観客は感動したり興奮したり、時にはがっかりする。
 本作品の主人公ふたりはMI6の諜報員と超深海を調査する数学者で、既に極限状況にあると言っていい。危険で重大な任務に向かう前の束の間の休息は、張り詰めた気持ちと孤独を癒やすためだった筈だが、同じような精神状態の異性と出逢ってしまったことで、あっという間に恋に落ちる。出逢いは偶然だが惹かれ合うのは必然だ。
 夢のような5日間を過ごしたあと、二人が直面したのはそれぞれに厳しい現実である。特に諜報員ジェームズはソマリアに潜入するのだ。銃や火器による殺人や暴力が日常的におおっぴらに行なわれて、誰も取り締まらない国である。世界をよくするための任務であるという自覚がよほど強烈でなければ、潜入しようなどとは思わない。その熱意はホテルで過ごしているシーンの中で予め表現されていて、この人はソマリアに行くのだろうなと納得できる。
 一方の数学者ダニーは、超深海への熱が治まらない。生命のよって来る根源の場所はどこなのか、調べずにいられない。その気持もホテルで過ごすシーンに表現されている。心に熱い思いを抱えた大人同士である。しかしその熱を若者のように直接ぶつけ合うのではなく、平静な表情の後ろに隠して、時々触れる指先から互いに感じ取る。世にも麗しき大人の恋の物語だ。

 思い出すキーワードはたくさんある。テレビを見ている家に手榴弾、アッラーワクバル、塩田、西経2度北緯74度、宗教に強制があってはならない、マントルに生命、超深海、捕虜、ジハード、信じる能力、ネイチャー誌、ノルマンディー上陸作戦のときと思しき巨大コンクリートのオブジェ、そして処刑される女性と撃たれる子供、無慈悲なジハード戦士の意外な知性。
 諜報員ジェームズに降りかかる凄絶な現実は、人類と共同体の不幸を象徴するかのようだ。襲いくる狂気を、我らはどうやって生き延びるのか。その問いかけの延長上に、人類及び生物はどこから来たのか、現れたことに何の意味があるのかを探るダニーの探究心がある。
 親水性という言葉には様々な意味があるが、水が人間を落ち着かせる意味もある。それは生物が水から生じたことを示すのかもしれない。原題の意味はそのあたりにありそうだ。時間的にも空間的にも世界観が広がっていく、スケールの大きな作品だと思う。


映画「アルキメデスの大戦」

2019年08月19日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「アルキメデスの大戦」を観た。
 https://archimedes-movie.jp

 傑作だと思う。最初から最後まで息つく暇もなく引っ張り回され、最後は二転三転という展開は、よく考えられたプロットと俳優陣のリアリティのある演技に支えられている。特に柄本佑がよかった。単細胞だが真っ直ぐな人柄の少尉が、菅田将暉演じる主人公櫂直の人柄と才能に魅せられて関係性が変わっていく様子が面白い。こういう役をこれほど上手に演じられたことは役者としての面目躍如である。
 菅田将暉は言わずもがなのカメレオン俳優だ。本作品の櫂直はとても「帝一の國」の主人公と同じ俳優と思えない。本作品は主人公櫂直の能力と人柄の魅力で成り立っている作品だから、一分の隙も見せられない。国家主義者でも愛国者でもない彼を戦前という時代の主人公に据えたからには、理性的で緻密な科学者の側面と同時に、ヒューマニストとしての優しさを持たせる必要があった。そのために登場したのが浜辺美波が演じた尾崎鏡子である。この女性の存在が主人公のキャラクターの幅を広げている。惜しむらくは尾崎社長の掘り下げがなかったこと。原作ではどうだったのか知らないが、少なくとも矢島健一の演技を見る限り、尾崎社長は奥の深そうな人物に見えた。

 舘ひろしの山本五十六や田中泯の平山忠道造船中将は肯定的に扱われているが、結局は軍人である。つまり人殺しだ。沢山の人が死ぬことを肯定している限り、どれほど国のことを考えていても、肯定されるべきではない。原作者や映画の製作者がどう考えているかは関係がない。戦争を前提として国家を語るのはどう転んでも軍国主義だ。
 それに対し、笑福亭鶴瓶の大里清だけは違う理想を述べる。「戦艦でも空母でもなく、商船で世界と戦う」と彼は言う。平和主義の彼は同じく平和主義の櫂直にシンパシーを覚えたのかもしれない。

 間違っても山本五十六が立派な軍人だったという映画ではない。大和という巨大戦艦を巡って、立場が微妙に異なる軍人たちが、それぞれの都合や考え方をぶつけ合う。あくまでも戦争を想定した考え方で、その前提となったのが日本全体を覆う戦争への意志である。日本が戦争へ向かったのは一部の軍官僚たちが天皇を騙したとかいう話ではない。当時の国民の多くが戦争を望んでいたのだ。今となっては考えられないことだが、作品の中で平山中将の言葉として触れられているように、日露戦争の勝利で日本が無敗の不沈艦であるかのように勘違いしてしまった国民は、国家主義の熱狂にとらわれてしまったのだ。
 特定秘密保護法や安保法制で不戦の誓いが世界から称賛される日本国憲法の平和主義を骨抜きにしたアベ政権の支持率が6割もあるのは、日米戦争の前の世論にそっくりだ。作品中で何度か出てくる「戦争になりますよ」という台詞に驚く人は、戦争になどなりっこないと思っていた。しかし実際には戦争になってしまった。現代でも、戦争が如何に割に合わないものかを知っている人は、たとえアベ政権がどんなにバカでも、さすがに戦争はしないだろうと思っている。しかし支持率のために韓国叩きをしている暗愚の宰相には、戦前の国民が冒されていた国家主義の熱狂と同じものを感じる。危機感は持ち続けなければならない。


芝居「お気に召すまま」

2019年08月18日 | 映画・舞台・コンサート

 池袋の東京芸術劇場プレイハウスでシェイクスピアの芝居「お気に召すまま」を観劇。前半終了時の感想。
 客席も含めたあちこちに芝居が分散する。個々の芝居を観るのか、全体の雰囲気を感じればいいのか、迷ってしまう。
 台詞が聞き取れない。有名な、人生は舞台、人は皆役者という台詞だけがかろうじて心に残った。
 坂口健太郎は身体を鍛えていて、腹筋も大胸筋も三角筋も見事である。映画やテレビで見るより実物はかなりでかい。役柄のために髭を伸ばしているのがワイルドで、大変に女性にモテそうだ。
 満島ひかりはイメージ通りのガサツな演技。そのおかげで芝居全体がなんともガサツな雰囲気になってしまった。

 さて20分の休憩を挟んで後半がスタート。後半は森が舞台で登場人物も増える。登場人物が喋りまくっているのに何故か退屈だった前半とは打って変わって、後半は俄然楽しくなる。楽屋落ちみたいな台詞もポンポン飛び出して、馬鹿馬鹿しい人間喜劇がとても笑える。下ネタと思しき会話もあって、居酒屋でのふざけ合いみたいな演出だが、悪くない。
 人は愚かだが愛すべき存在だというシェイクスピアの世界観が湧き上がるようで、フィナーレにはとても満足感があった。腐っても鯛。シェイクスピアはシェイクスピアだ。


映画「東京裁判」

2019年08月15日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「東京裁判」を観た。
 http://www.tokyosaiban2019.com

 収穫はたくさんある。ひとつは膨大な資料提供をしてくれたのがアメリカだということ。流石に情報公開の国である。どんな機密情報も30年を経過したら公開するという原則を忠実に守る。日本の官庁が公開する黒塗りの文書とは大違いである。この一点だけでも日本がまだ民主主義国たり得ていないことがわかる。
 もうひとつは玉音放送のすべてを聞くことができたこと。負けた国の元首にしては随分と偉そうな物言いではあるが、当時の天皇は絶対的な権威であったことを考えると、この文言がギリギリだったのかもしれない。
 3つ目は映画館が満席であったこと。若者は見かけなかったが、敗戦の日を翌々日に控えた日にこの映画を見る人がこれほどたくさんいるというのは、戦争に対する問題意識が高まっている証左ではないかと思う。それほど現代の日本はキナ臭いのだ。
 4つ目は東條英機が被告の中で最も愚かであるのが明らかだったこと。他の被告たちが尋問の意図を受け取って堂々と発言しているのに対し、東條は尋問者の揚げ足を取ったり、通訳の日本語がわかりにくいと非難したりする。どこぞの国会での暗愚の宰相が野党の質問をはぐらかしたり下品なヤジを飛ばしたりするのとそっくりである。
 5つ目は、極東国際軍事裁判が極めて特殊な裁判であり、裁判自体の正当性が何に担保されるのかが争われたこと、そして裁判官が戦勝国の法律家ばかりであったことが不公平に当たらないかと法廷内で指摘されたこと。GHQによる一方的な裁判だとばかり思っていたが、法の下の平等、法の不遡及ということについての認識がはっきりしている。
 6つ目は、天皇の戦争責任が否定される法廷であったこと。天皇に戦争責任がなかったことにしたかったのは、天皇の取り巻きや戦時政権ではなく、アメリカの意向であったことが解る。日本人をよく分析して、天皇という権威をそのままに置いておいたほうが日本を統治しやすいと考えた結果であるのは誰もが知っているところだが、東條英機をはじめとした軍官僚たちの中には誰ひとりとして天皇の戦争責任を積極的に否定する者はいなかったのだ。自分が助かるなら場合によっては天皇ひとりに全責任を被せようという肚だったのは明らかである。これもまた、誰ひとりとして責任を取らない自公政権とそっくりだ。

 長時間の映画だが、全く退屈しなかった。それどころか、当時の人々があまりにも普通の人々であり、現在の政治家たちと大差ないことに愕然とした。まさに今の政治家たちも同じように戦争を起こすのではないかと、悪い予感に慄えてしまったのである。


映画「シークレット・スーパースター」

2019年08月15日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「シークレット・スーパースター」を観た。
 http://secret-superstar.com/

 思春期の少年少女の音楽サクセスストーリーの映画はいくつか観た。2015年のイギリス映画「Sing Street」や2015年のフランス映画「La Fammille Belier」(邦題「エール」)などである。しかしイギリスやフランスの子どもたちが遭遇する困難と、インドの田舎の子どもたちが遭遇している困難とでは、かなり質が違うようだ。
 台詞はほぼヒンディ語と思われるが、度々英語が混じる。日本人が英単語を混ぜるように使うのではなく、丸々一文が英語だったりする。愛の告白も英語だ。言語は文化そのものだから、言語が混じるのは文化が混じるということだ。それはいいことだと思う。文化は放っておくと衰退するから、常に変化が必要だが、多文化との交流は変化の引き金になる。インドは多民族国家であり多言語国家だから、文化交流は国内でも盛んである。インド経済が凄まじい発展を遂げているのはそのあたりにも一因があるだろう。
 本作品の主人公インシアは学校へ通える身分だから、カーストは最下位ではなさそうだ。ニカブを着るところを見るとイスラム教の家庭である。父親は日本の家父長制度のように封建主義で暴君ぶりを発揮する。対する母親はどこまでも優しいが、優柔不断で独立心がなく父親の横暴に抵抗できない。インシアをインスゥと呼んで可愛がる。
 ヒンドゥ教ではないのでリーインカーネーションの場面はないが、代々受け継いだ家庭の伝統がある。どちらかと言えば女性の人権を認めないその伝統にインシアは反発し、抜け出そうとしている。そのあたりまでがこの映画の前提として知っておくといいと思う。

 インド映画の俳優女優はみんな歌が上手い。本作品も例外ではなく、インシアの歌はとても上手である。しかし歌が上手な人はこの世にごまんといる。テレビ東京の「カラオケ☆バトル」を見ていると、日本国内だけでも歌の上手い人が沢山いることがわかる。しかし歌が上手いだけでは売れないし食っていけない。本作品もそのあたりは解っていて、映画音楽としての歌が売れたことになっている。だが肝心のその映画が売れたシーンがない。もう少し時間が伸びてもいいから、その映画が大評判になったシーンがいくつかあれば、映画としてよりリアルになっただろうと思う。
 本作品は歌のうまい女の子が成功するだけの話ではなく、現代インドが抱えるカーストの問題、女性の地位の問題を隠しテーマとして伝えている。先日観た「SIR」(邦題「あなたの名前を呼べたなら」)という映画は、カーストの世襲の問題が正面から扱われていた。21世紀も20年近く経過して、異なる文化と宗教が入り混じったインドにおいても、実質的な女性解放の時代、それにカーストの終焉の時代を迎えたのかもしれない。

 主演のザイラー・ワシームは18歳。性格のいい主人公を楽しそうに演じている。柔らかくて声量のある歌は聞いていてとても気持ちがいい。個人的にはサラ・オレインを思い出した。アーミル・カーンのコメディタッチの演技もおかしくて、150分があっという間だった。


映画「よこがお」

2019年08月15日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「よこがお」を観た。
 https://yokogao-movie.jp

 実存的なリアリズムに満ちた作品である。不条理な世界で人は如何に生きていくのか。世の中の不条理はどのように生み出されるのか。
 主人公はどこにでもいそうな普通の女性である。ただ真面目に仕事をして生きてきた。訪問看護婦として、患者の家族から感謝されることで満足している。にもかかわらず自分の責任とは無関係なことで貶められ、非難され、迫害される。挙げ句に行き場を失い世を恨み、理不尽な仕打ちをした人間への復讐ばかり考える。いつ自殺してもおかしくない状況ばかりがつづいて、観ているのが辛くなる。
 現在のシーンと回想シーンの構成が巧みで、辛い映画なのに引き込まれて見入ってしまう。筒井真理子の演技は見事だ。極く普通の善良な人間が不条理な状況に陥り、自暴自棄の衝動と闘いながら生きる姿をリアルに演じる。

 人間は生きている過程で苦痛を味わい、不安と恐怖を覚えていく。不安も恐怖も知らない子供は声も大きく行動も大胆だ。しかし不安を覚え恐怖を覚え恥ずかしさを覚えると、自己抑制が働いて声は小さくなり行動は慎重になる。理性というやつだ。理性は一定の理念からではなく、恐怖から生まれている。恐怖は想像力の産物だから想像力の豊かな人ほど沢山の恐怖を感じて抑制的になる。つまり頭がよくて気が弱い人ほど理性的なのである。理性の働きは感情の手綱を引くことだから、理性的な人ほどストレスフルになる。
 一方で想像力の貧しい、頭の悪い人は恐怖を感じないまま強気に生きる。子供のときのままに声は大きく行動は大胆である。弱気な人を支配することができる。支配は強気と暴力に裏打ちされる。ガキ大将と同じだ。世の中は子供の社会と変わらない。頭の悪い強気なバカな人間が頭がよくて気の弱い人間たちを支配している。バカのうちで運がよかった人間が成功者となり、運が悪かった人間が犯罪者となる。世のトップにいる人間たちは、最悪の犯罪者と本質的には同じ人間なのだ。
 想像力があって気が弱い人間が心の中まで支配されないようにゴータマは恐怖の克服を説き、心の解放を説いた。しかしゴータマが予言したように人間は未だに解放されていない。それどころか支配層の愚鈍化と増長は猖獗を極め、格差はますます広がっている。加えて人々が寛容さを失い、多様性を認めなくなっている。車の運転の仕方が気に食わないと殴るし、承認欲求が満たされなければ大勢が働くビルに火をつける。

 本作品は我々が狂気の時代に生きていることを教えてくれる。時代が狂気なのではない。人間が狂気を内に秘めた時代なのである。それは地殻の下に広がるマントルみたいに、時折マグマとなって噴火する。誰の身に起きても不思議ではない。真面目だった人がある日突然街で無差別に人を殺さないとも限らない。自暴自棄と暴力への衝動は日常に偏在している。マグマを噴火させずに生きていくためには、他人というよりも自分自身を含む人類に対する寛容さが必要だ。目を閉じて深呼吸をして、そして歩き出す。何も求めまい。