三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「存在のない子どもたち」

2019年07月31日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「存在のない子どもたち」を観た。
 
 生まれた子供には無限の可能性があるというのは都市伝説でしかない。例えば同じ程度の頭の出来の子供がふたりいて、一方は東京の裕福な家庭に生まれ、一方は地方の貧しい家に生まれたとすれば、東大に入学できる確率が高いのは圧倒的に東京の裕福な家庭の子供である。よほど優秀でない限り、地方の貧しい家の子供が東大に合格することはない。生まれたときから格差ははじまっているのだ。
 しかし本作品の主人公であるゼーンとその兄弟姉妹たちにとっては、日本国内の格差など無きに等しいと言えるだろう。ベイルートのスラムの貧困は殆どその日暮らしだ。戸籍のない親が戸籍のない子供を生む。名前はつけるが誕生日は覚えていない。出生届も出さない。歩けるようになった子供はみんな働き手だ。しかも非合法、不衛生な仕事のそれである。盗み万引は日常茶飯事だ。仕方がない。まっとうな仕事にありつくには共同体の身分証明書がいる。共同体に認知されていない子供は共同体にとっていないも同然である。責任の所在が不明だから仕事にもありつけない。格差どころか、生きるか死ぬかの問題なのだ。
 
 本作品にはいくつかのテーマがある。ひとつは貧富の格差の問題であり、ひとつは貧しい人々ほど子沢山になってしまう人口爆発の問題であり、そしてもうひとつは身分証明とはなにかという問題である。これらは密接に結びついており、ひとりの子供を主人公にすればそのすべてを訴えることが出来る。
 例えば日本の銀座の中央通りには日本人の子供はあまり歩いていない。海外の旅行者の子供ばかりである。しかし貧しい国の貧民窟(スラム)は子供で溢れかえっている。日本でも戦前から戦後にかけてはやたらに子供をたくさん作った時代があった。しかし社会が成熟すると少子化になる。その前にベビーブームがあれば、必然的に少子高齢化社会となる。日本は世界でもその最先端を行く。
 だから本作品の子どもたちの実情は実感としては伝わってこない部分がある。貧しくて育てられないなら子供を生まなければいいと思うのは、すでに下り坂に入った社会の人間の感想である。スラムの人々は子供をたくさん生めば将来子供に助けられるかもしれないと思うのかもしれない。または直接的に働き手としての子供を生産するという目論見かもしれない。先進国は少子化、高齢化が進み、後進国は人口爆発が起きている。やがて先進国の富が移動するのは時間の問題だろう。孤独な老人がひっそりと苦しみ、ひっそりと死んでいく。先進国の未来はおそらくそうなる。日本の未来は必ずそうなる。
 
 共同体が個人の存在を認めるというのはどういうことか。認めてもらわずとも自由に生きるんだと考えても、共同体が作った社会の仕組みは、どの場面でも身分証明を要求してくる。共同体が認知してない人間が生んだ子供は、当然認知されようがなく、生まれたこと自体が不幸そのものだ。かくして人間は不幸製造機となってしまう。生まれた子供に無限の可能性などなく、大人になるまで生きられるかさえ怪しい。
 主人公ゼーンは栄養不足で育ち、見た目は8歳か9歳くらいに見える。しかし口の中を見たら乳歯がないから12歳くらいだろうと、年齢まで当てずっぽうで決められる。ゼーンはそんな社会をまったく信じていない。だから世の中を恨みこそすれ、楽しむことなど出来やしない。それは両親もまったく同じである。スラムの人間にとってこの世は地獄なのだ。
 
 最初から最後まで苦しい思いで観た作品である。ゼーンは心にナイフが刺さっているみたいだと母に告げるが、知らずしらずのうちに観ているこちらも胸が痛くなる。決して他人事ではない。
 日本は政権の失敗で年々貧しくなっている。働けなくなった将来には、ゼーンと同じように路上に放り出されないとも限らない。身分証を発行する政治権力はそのとき、自己責任という言葉ですべての問題をなかったことにするだろう。格差は連綿と続き、貧しい人間は不幸製造マシンとして子供をたくさん生む。年老いて貧しい人間は痛みと苦しさに耐えながら片隅に暮し、そのうち黙って死んでいく。

芝居「二度目の夏」

2019年07月30日 | 映画・舞台・コンサート

 下北沢の本多劇場で芝居「二度目の夏」を観た。
 http://mo-plays.com/secondsummer/

 岩松了が戯曲を書いて演出した舞台である。テーマは嫉妬ということだったが、直接的な嫉妬の言葉はなく、登場人物同士が互いの距離感を測りながら、探るような言葉を交わすという複雑な芝居である。
 東出昌大は昨年の12月にタカシマヤサザンシアターで三島由紀夫原作の「豊饒の海」に主演していたのを観たが、その時よりも今回のほうが演技に幅が出て、余裕を持ってゆったりと演じているように見えた。
 かなり無理のある脚本で、錯綜する愛憎と嫉妬の感情に加えて所々で笑いを取ろうとするものだから、演者は大変だったと思う。その辺は片桐はいりが一手に引き受けていて、さすがの女優振りを見せていた。
 それにしても観客の殆どが年配である。こういう愛と嫉妬の会話劇はちゃんと観ている分にはスリリングで面白いのだが、精神的なスタミナが必要でもある。若い人はもはや金も時間もスタミナもないのだろうか。


映画「The Sisters Brothers」(邦題「ゴールデン・リバー」)

2019年07月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「The Sisters Brothers」(邦題「ゴールデン・リバー」)を観た。
 
 原題「Sisters Brothers」の意味は冒頭のシーンですぐに解る。しかしSistersという名字を聞いたことがなかったのでちょっと面食らった。一度耳にしたら忘れられない名前である。そのせいもあってか当時のアメリカ南西部では有名な殺し屋として名を馳せていたという設定だ。
 本作品はフランス人監督による西部劇である。流石にひと味違っている。西部開拓時代の人々の精神性は、まず生き延びること、次に大金を稼ぐこと、それから先は好きなように生きることだ。生き馬の目を抜く生存競争の中で、正気を保ちながら殺し殺される日常を生き延びるのは並大抵ではない。おそらく数え切れない沢山の人々が命を落としたはずだ。殺すことを厭わず、良心の呵責も感じない粗暴な人間たちだけが生き延び、中でも飛び抜けて冷酷な人間が成功者となり指導者となっていく。殆ど原始時代である。
 さてシスターズ兄弟は兄弟の絆だけを信じて賞金稼ぎの殺し屋を続けているが、殺るか殺られるかの毎日に明日がないことはふたりとも解っている。しかし望む将来は異なる。
 兄イーライには馬に名前を付けて可愛がる優しさがある。名前を付けるという行為は家族を増やすことで、必ず愛着を生む。愛着は煩悩であり生への執着を強める。世の人々はイーライと同じように子供やペットに名前を付けて、家族という幻想を楽しんでいる。守ってやらなければならないという不文律さえ生じる。
 対して弟チャーリーは非情だ。馬は馬でしかない。移動のための道具であり、怪我をしたり死んだりしたら別の馬に乗るだけだ。人間関係は命令する者と服従する者、殺す者と殺される者に分かれている。自分は殺す側、命令する側になりたいと願っている。
 イーライは人を殺すことに躊躇いも迷いもないが、とどめを刺したあとに首を振る仕草には、この世の不条理を身を以て体現する人間のやるせなさが滲み出ている。不細工な大男という見かけによらずナイーブな一面を持つ主人公を、名優ジョン・C・ライリーが繊細に演じてみせる。ホテルのトイレに驚くさまは無邪気と言ってもいい。
 作品はゴールドラッシュ時代のギラギラした欲望にまみれたスラップスティックだが、そこかしこに人生に対する問いかけがあり、フランス人監督らしい哲学的な側面を感じさせる。
 マカロニ・ウェスタンのようなニヒルなタフガイは登場せず、ガンファイトはあるもののそれよりもヒューマンドラマに重きを置いたような、今までにないタイプの西部劇で、テンポよくストーリーが進んで楽しく鑑賞できると同時に、少し立ち止まって人生について考えさせられるような、味わい深い作品だと思う。

映画「こはく」

2019年07月28日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「こはく」を観た。
 http://www.kohaku-movie.com/

 エンクミがとてもいい。若い頃バラエティ番組に出演しているときから雰囲気のある女優さんだったが、ここにきて成熟味を増してきた。特にハスキーな声がいい。普段着のリアルな艶めかしさがある。本作品では女のやさしさに加えて母性愛が全開だ。流石に旦那が監督している作品だけあって、この女優のよさがすべて出ている。周防正行監督と草刈民代と同じである。
 井浦新はこのところ映画でもテレビドラマでもよく見かける。達者な俳優で、最近では映画「止められるか、俺たちを」での若松孝二監督の役のエキセントリックな演技が秀逸だった。本作品では口数が少なく真面目に生きる男を好演。
 アキラ100%には驚いた。自分に自信がなくて虚栄心とハッタリだけで生きているダメ男をうまいこと表現できていた。意外に存在感もあるし、役者としてなかなか面白い。次回作があれば試金石になりそうだ。

 家族は近くて鬱陶しい存在である。鬱陶しさが限界まで高じると殺人事件に発展する。事実、日本国内の殺人事件の半数以上は親族の間で起きている。職場や学校で不愉快な出来事があっても帰宅して眠ればある程度は忘れることが出来る。しかし家庭にも問題があれば心が安まる暇がない。

 本作品は家族の絆を描いたドラマである。エンクミの台詞「比べちゃうよね」に兄弟の悲しみが集約されている。父親がいない兄弟は、父親のいる子供と自分たちを比べてしまう。そして父親がいないことのメリットとデメリットを子供なりにぼんやり理解してきたことが窺える。しかし損得を超えた部分で父親のいない淋しさを抱え続けてきた。
 子供の頃の淋しさは大人になってまで引き摺ることはない。しかし怒りや恨みの気持ちは何年経っても燻り続けることがある。SF作家の筒井康隆が、子供の頃に受けた理不尽な仕打ちを思い出して夜中に飛び起きて怒りに震えたことがあるといった意味の文章を書いていた。共感できる人は多いだろう。
 本作品で製作者が表現したかったものが何なのか、よく解らない。何十年かぶりに父親に遭ったら殴ってしまうかもしれないと、恨みを覚えていた兄はそう考えていたが、実際に年老いた父親を目にすると、恨みも怒りもどこかへ消え去ってしまう。そういうところを描きたかったのだろうか。
 しかしわだかまりはそんなに簡単に消えるものではない。複雑な気持ちのときは無表情になるはずだ。一方、父親とあまり関わらなかった弟は久しぶりに遭っても、こういう人なんだという感想はあっても涙は出ないだろう。登場人物はよく泣くが、観ているこちらはまったく泣けない。そういう映画の典型だった気がする。役者陣はとてもよかったのだが、製作者の思い入れが先行して、観ているこちらは置いてきぼりにされた感のある作品だった。


映画「天気の子」

2019年07月20日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「天気の子」を観た。
 https://tenkinoko.com/

 新海誠監督は「君の名は。」の評判がよすぎて、次作のプレッシャーは並大抵ではなかったと思うが、本作品でも思春期の恋愛模様を上手に描いている。子どもたちのドラマに大人を絡ませるのが得意な監督で「君の名は。」でもアルバイト先の先輩だったり、飛騨の民宿の店主だったりと、「わかってくれる大人」がいい働きをしていたが、本作では小栗旬が声優を務めた須賀圭介がその役割を果たす。
 兎に角映像がいい。海のような空は青が引き立っているし、雨のグレーな世界は気分をどこまでも沈ませる。公園や神社のグリーンは砂漠のオアシスのようだ。このあたりの映像は職人芸である。観客を引き付けて飽きさせることがない。
 映画のプロットには地球の温暖化、ネグレクトの問題、銃汚染、養育問題、嫌煙問題、警察権力の横暴など、現代日本と世界が抱える問題をリンクさせていて、アニメのファンタジーにしてはとてもリアリティがあると思う。こんな世の中が来ないとも限らない。
 終始16歳の男の子らしい元気と思い込みの強い一途さと悲壮感が一緒くたになった思春期の精神状態で物語が進むが、どの登場人物にも悪意がないから平穏に観ていられる。ストーリー展開は早くて意外にスリリングでもある。ディズニー映画ならワクワクするようなファンタジックなシーンも、本作品では何故かヒリヒリする。そこがいい。敵か味方か善か悪かみたいな単純でノーテンキなディズニー映画とは一線を画す。
 主役二人の声優は初めて聞く名前だが、物語の雰囲気によく似合う声だったし、落ち着いたいい演技だった。倍賞千恵子は素晴らしい。この人の声を聴くとホッとするし、懐かしさも覚える。
 深刻な問題を内包するファンタジーではあるが、新海監督らしくプラトニックでシャイな思春期の恋愛模様を清々しく描いた作品でもある。それは「君の名は。」にも通じるところで、新海映画の真骨頂だ。雨のシーンばかりの映画だが、観終わると不思議に気持ちが晴れ晴れとする。いい作品だと思う。


映画「Girl」

2019年07月19日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Girl」を観た。
 http://girl-movie.com/

 LGBTは思春期の少年少女にとってはさぞかし辛いだろうとは想像できる。そうでなくても容姿について悩む年頃だ。おまけに同年代の子供たちは他人の容姿を悪く言うことにかけては容赦がない。逆に言えば、思春期とは同世代同士の自尊心の傷つけ合いの時期であり、同時に友人を取捨選択する時期でもある。何を重視して何を軽視するか、価値観を形成していく機会なのだ。そのときに大事なことは、周囲の価値観に流されないことである。そのためには友達付き合いそのものには重点を置かないようにすることだ。つまり「空気を読まない」ことが重要なのである。
 日本は聖徳太子以来「和をもって尊しとなす」お国柄だから、和を乱す人間が嫌われる。しかし考えてみれば聖徳太子は大変な権力者である。当然ながら彼の言う「和」は権力者にとって都合のいい「和」に違いない。そんな「和」に従えば、個人の人権が蹂躙される一方である。人格が確立されている欧米の先進国では「空気を読む」ことは主体性の欠如とみなされる。
 友達を大切にすることと、友達付き合いを大切にすることはまったく別のことだ。関係性の維持のために自分の人格を投げ出すことは、自ら進んでいじめの被害者になるようなものである。白を黒と言わなければ仲間はずれにすると脅されるようなことは子供たちの間ではおそらく日常茶飯事だ。そういうときは喜んで仲間はずれになるのがよい。そして勇気を出して言い放つのだ「お前らは人間のクズだ」と。
 同調圧力の強い日本の社会では、忽ち孤立するだろう。しかし孤立を恐れるあまり安易に妥協してクズの仲間になるほうがよほど不幸である。小学校から高校までの友達で大人になっても付き合いのある人間は殆どいない。友人などいなくても大丈夫なのだ。友人との付き合いはただ戯れあって時間を無駄にしているに過ぎない。ひとりで本を読んだり考えたり勉強したりする時間のほうがよほど重要である。

 さて本作品の主人公は15歳にしてはとても主体性のある生き方をしている。そのように育てられたのだろう。父親は相当な人格者である。息子が生れたときからその人格を認め、トランスジェンダーであることを受け入れ、望みを叶えてあげようとする。これほどの父親は滅多にいないと思う。主人公ララは幸運である。しかしトランスジェンダーであるために生じる社会との軋轢は、その幸運を上回っているようだ。
 バレリーナになりたい夢は、現実のレッスンの過酷さにも屈しない強さだが、如何せん身体がついていかない。性転換は非常にゆっくりと慎重にしなければならないが、バレエのスキルは急速な成長を求められる。希望はしばしば絶望に変わり、ララを追い込んでいく。ドラスティックな行動にでてしまうのもやむを得なかったのかもしれない。

 もし日本が舞台だったら陰湿ないじめのシーンが連発されていただろう。しかしそのようなシーンはほとんどなく、他人の悪口は登場人物の台詞になかった。医師も教師も前向きな発言が殆どで、ララを勇気づけようとする。社会としてのレベル自体が日本よりも数段上なのだ。周囲に阿ることのない主体的な子供が育つ土壌がある。ララ自身も決して他人の悪口を言わなかった。翻れば日本のLGBTの子どもたちは本当に辛い思いをしているに違いない。国会議員からしてLGBTを生産性がないと否定する人間がいるし、一部の連中はその発言を支持する。

 髪を切って街を闊歩するシーンは、個としての主体性が確立された自由を感じさせる。日本語で吹っ切れたという言い方をするが、いろいろなことから解放された精神が世界を力強く肯定するような、そんなシーンに見えた。
 観ていて苦しい場面が多い作品だが、舞台となった社会は閉塞的ではなく、多様性を受け入れる懐の広さがある。そこが未だに封建主義的な考え方が幅を利かしている日本とは大きく異なるところだ。主人公には自由な未来が待っていると思う。


映画「Ce sentiment de l'ete」(邦題「サマーフィーリング」)

2019年07月16日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Ce sentiment de l'ete」(邦題「サマーフィーリング」)を観た。
 https://summerfeeling.net-broadway.com/

 前日に観た「アマンダと僕」がとてもいい出来栄えだったので、同じ監督の本作品はかなり期待して観た。同じような喪失と再生の物語だが、こちらは小さな子供を背負い込むこともなく、時事問題を絡ませることもない。
 突然の病死で恋人を失った男が主人公だが、死んだ恋人の描き方が薄くて、主人公の恋人に対する精神的あるいは経済的な依存度がどれほどだったのかがよく解らず、観客は主人公の喪失感を共有できない。そこが残念な点である。
 恋人の家族はみんないい人で、他人である主人公に気を遣う。それがまたつらい。事後の処理はすべてやってくれるから、主人公の出番はなく、気を紛らすこともできない。結局何も変わらないまま住んでいる場所だけが変わり、次の夏を迎える。その夏も無為に過ぎて、更に次の夏を迎える。その間に少しずつ変わっていく気持ちを描いた作品である。
 原題の「Ce sentiment de l'ete」は作品にふさわしい日本語にするのが難しいから英訳の「サマーフィーリング」を邦題にしてしまったのだろうが、映画を見る限りフランス語の「Sentiment」は「フィーリング」よりも「感傷」に近い気がする。
 雰囲気だけの映画だが、同じ監督が同じテーマで制作した「アマンダと僕」が傑作だったので、本作品は所謂習作のような位置づけでいいと思う。感動は薄かったが、それなりの才能を感じる作品ではあった。


映画「Amanda」(邦題「アマンダと僕」)

2019年07月15日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Amanda」(邦題「アマンダと僕」)を観た。
 http://www.bitters.co.jp/amanda/

 フランス映画は文学的である。哲学的と言ってもいい。生と死と愛を実存的なテーマとして、人間のありようが繰り返し描かれる。加えてその時代の社会問題も反映される。最近では移民問題やEUの行き詰まりだ。詳しくは描かれないが、姉サンドリーヌの悲劇にはそのあたりの問題が関係していると思う。
 さて近くに住んで互いに助け合って暮している姉弟の弟ダヴィッドが主人公である。姉弟の母親は家族を捨ててイギリスに住んでいて、父親は他界している。姉には娘がひとりいるが、娘の父親はすでに赤の他人となっている。孤独な境涯の姉と弟だが、真面目に仕事をしてなんとか普通に暮らしている。贅沢は望まない。
 しかし不条理にもこの慎ましい姉と弟に突然の不幸が訪れる。姉を亡くした弟は母を亡くした姪の世話をしながら途方に暮れる。親族や社会福祉の職員が助けになってくれるが、どこかで決断しなければならない。
 日常生活は殆ど正常性バイアスに支配されていると言っていい。家族の突然の死はそれを打ち壊すもので、平静でいられる人は少ない。特に家計を担っている家族の死は深刻な打撃を齎す。アマンダみたいな可愛い姪でも、引き取って育てるとなると大変だ。

 ヴァンサン・ラコストは真面目で誠実なダヴィッドの人柄を上手に演じていた。はじめて見る俳優だが、日本の昭和の俳優みたいでなかなかいい。アマンダ役のイゾール・ミュルトリエは更にいい。特にラストシーンの表情が素晴らしい。ずっと受け入れることが出来なかった母の死を、漸く受け入れることが出来た。心に溜まったわだかまりの澱(おり)を涙で流したような晴れ晴れとした表情に、観ているこちらも癒やされる。プレスリーが劇場からいなくなったように、もう母親はこの世界からいなくなったのだ。涙を拭いたアマンダの視界の中で生き生きとプレーする選手の躍動が彼女を勇気づける。不条理な人生だが、生命は輝いている。頑張れアマンダ、世界は君のものだ。


映画「 Seed: The Untold Story」(邦題「シード 生命の糧」)

2019年07月14日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「 Seed: The Untold Story」(邦題「シード 生命の糧」)を観た。
 http://unitedpeople.jp/seed/

 去年2018年にアメリカのモンサントがドイツの製薬会社バイエルに買収されたニュースを見て仰天した記憶がある。メルケル首相のドイツの会社がトランプのアメリカの会社、よりによって悪名高きモンサント社を買収する意味がわからなかったからだ。
 モンサントはかなり以前から食の安全の面で世界的に批判されている会社で、害虫駆除用の殺虫剤と、除草剤(ラウンドアップ)、遺伝子組み換え作物(GMO)を生産している。
 害虫に困っている農家は殺虫剤を使うし、雑草を除去したい農家は除草剤を使う。しかし除草剤を使うと作物自体も枯れてしまう恐れがある。そこでモンサントは除草剤に耐性のあるGMOを売りつける。どっちに転んでも損をしない商売である。こんな商売が可能になるためには、食の安全や品質を管理する法律を都合よく捻じ曲げる必要がある。モンサントの巨額の利益の裏側には政治家の暗躍が必須なのだ。
 今年2019年の5月には、モンサントは個人情報を違法に入手していたとフランス当局から疑われており、当局は予備捜査を開始した。ビデオゲームのバイオハザードに出てくる「アンブレラ社」並みの悪徳企業である。そしてアメリカの企業の大半は、こういった悪徳企業であり、政治家を動かして法律を変え、規制を変更させる。その影響力は諸外国にも及んでいる。言うまでもなくトランプはその手先である。ハンバーガーが好物というだけで食の安全など眼中にないことがわかる。
 一方でアメリカの保健衛生局は世界に例を見ないほど厳しい。飲食店の衛生点検を実施し、結果によってABCのランク付けをしてシールを貼っていく。もしCのシールが貼られたら大変だ。その飲食店は不衛生と見做されて客が寄り付かなくなる。しかし衛生の基準に遺伝子組換えに関する決めごとはない。また残留農薬についての決めごともない。
 要するにアメリカの行政はモンサント社に有利なようにしか動いていないのだ。どうしてなのかはみなが知るところで、いわゆるロビー活動であり、寄付金のためなのだ。今だけ、自分だけ、金だけという価値観が社会に蔓延すれば、庶民の健康被害など対岸の火事になる。

 日本はどうかというと、アメリカの事情とあまり違わない。ある製パン会社は中国でさえ食品への使用を禁止している臭素酸カリウムを平気で使用し、製品には残留しないという不確かな理由を盾に材料にも表記しない。これに協力したのは国民の健康を守るのが役割のはずの厚生労働省である。
 ある物質が存在するかどうかについての確からしさは検出装置のスペックに依存する。臭素酸カリウムが製品に残留しているかどうかは、検出限界までしか解らない。そこで厚労省は検出限界に近い値を基準に定め、それ以下をゼロと見做す決まりを作った。製パン会社が臭素酸カリウムは残留していないと主張する根拠となったのだ。食の安全など一顧だにしないやり口である。
 その製パン会社のライバル会社であるPascoの敷島パンは以前、ホームページのトップに臭素酸カリウム不使用を謳っていた。食品メーカーとして誠実な態度だと思う。しかしいまではその表記はトップページからは削除され、「こだわり」の中の「安全・安心の基本」の一項目として臭素酸カリウムの不使用を表示しているだけだ。どこからか何らかの圧力があった可能性は否定できない。
 利益のために政府官僚財界が結託して国民の税金を無駄遣いしたり人権を蹂躙したり健康を蔑ろにしたりする。もはや日常茶飯事である。そしてこの現象は日本とアメリカだけの話ではない。

 さて本作品は種の話である。種は植物の生命の源であると同時に食料でもある。米は稲の種子であり、芽を出して稲になる。ピーナツもコーヒーも全部種だ。分子生物学の福岡伸行さんによると生命とは自己複製のシステムである。種は生命そのものである。なにせそこから同じ種がたくさん実る。一粒の籾から千粒の米ができるとされている。種はそれほどのエネルギーを持っているのだ。そしてそれを食べた生物のエネルギーになる。
 その種が癌や白血病の原因になるとしたら、それは人類の生存の危機である。インドでたくさんの農家が自殺していることは知らなかった。日本で種子法が廃止されたのは昨年の4月のことだ。アメリカの農業大資本が日本の稲作に足を踏み込んでくるのは間違いない。誰がGMOの米を食べたいと思うか。
 核兵器を弄ぶ一方で、農家から種を奪い、人類の生命と健康を弄ぶ。そんな政治家を誕生させて政権を担わせているのは我々有権者である。選挙が機能しなければ民主主義は機能しない。この映画を見て暗澹たる気持ちになったのは当方だけではあるまい。


芝居「美しく青く」

2019年07月13日 | 映画・舞台・コンサート

 シアターコクーンで芝居「美しく青く」を観た。
 3月29日にチケットを申し込んだとき、事前に仕入れたあらすじの情報は以下の通りである。これを見て購入を決めた。

【あらすじ】
※現時点でのストーリー及び役名となるため、変更の可能性あり
原発の町。
震災で両親と弟を失った立花哲也(向井)は、盛んになってきている原発再稼働反対運動をわき目に、悲しみを押し殺し、日々生活のために原発で働いていた。浅い知識でサッカーを語ったり、大しておもしろくもないテレビドラマを心待ちにしながら、元ヤクザだという同僚の西健二郎(大東)と、何とはない日常を過ごしている。
ある日、哲也はなけなしの金で行った風俗の風俗嬢の杉田美咲(田中)と出会い、恋に落ちる。美咲は哲也の暮らす仮設住宅に転がり込み、風俗を辞め工場で地道に働くようになった。町にごまんといるような凡庸な二人は、それでも懸命に、生活し、懸命に愛し合う。
二人の家の隣には無職の若林春樹(赤堀)とその妻・若林聖子(秋山)が暮らしている。聖子からは、ことあるごとに難癖をつけられ、その度に哲也は平身低頭で謝り続ける。役人の土井秀樹(大倉)が仲裁に入るが、関係はさらにこじれていくのであった。向かいに住む鈴木博(平田)という老人は、煮物の余りをおすそ分けしてくれるなど、何かと哲也と美咲に優しく接してくれていたが、都会に住んでいる息子からの同居の誘いには、頑なに拒否を続けていた。都会からボランティアへやって来た若者、山田隆(森)と田辺真紀(横山)は自治会長の望月行雄(福田)の指示のもと必死に活動し、仮設住宅の住人ともコミュニケーションを取ろうとするが、行動や理念は立派だがどこかチープさが透けて見えている。
やがて哲也は美咲との結婚を望むが、彼女は拒み続ける。哲也は強引に美咲の母・杉田正美(銀粉蝶)に会いに行くが、美咲は幼い頃から母を嫌っており、さらには、美咲の兄・杉田治(駒木根)は原発反対の運動に参加しているため、原発で働く哲也を認める訳にはいかないのであった。
しかし、鈴木老人の提案で半ば強行ではあるが、哲也と美咲の結婚式を仮設住宅の広場で挙げることになり・・・。
https://enterstage.jp/news/2019/03/011482.html

 ところが実際の上演では、震災の被災地ではあるが原発の問題は出てこず、街の問題は森に餌がなくなって人里に出没するようになった猿となっている。自警団の団長の役が向井理である。
 上演が始まった瞬間から、原発の話はどこにいったのかという疑問だけが燻り続け、最後まで答えは与えられなかった。
 参院選の直前であるから、現政権に忖度したのかもしれないが、芸術が政治に負けた気がして、どうにも納得ができない。こんな風にテーマを小さくしてしまうなら、芝居自体をやめてしまったほうがよかった。S席10,000円。金返せと言いたい。