三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「人数の町」

2020年09月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「人数の町」を観た。
 本作品の設定について、ふたつの見方があると思う。ひとつは実際にこういう人数の町みたいな事態が国家によって作り出されている可能性があるということ。もうひとつは現在の日本の縮図として人数の町を表現したということ。
 映画としてはあまりいい出来ではない。全体にオブラートに包まれたみたいなモヤッとしたシーンが多い。もっと踏み込んだ過激なシーンがあれば退屈しなかったのだが、どこか世間に遠慮したような部分が感じられた。カメラワークも平凡。
 しかしテーマと設定は面白い。ネット時代らしく褒める書き込みと貶す書き込みの両方を集めて何かに利用しようとする場面があるのもいい。ただその書き込みの行く先も描けばより解りやすかった。たとえば首相のツイッターには褒めるコメントが殺到し、反政府の活動家のツイッターには罵詈讒謗が並ぶなどである。我々は民主主義の国にいながら、実は飼い馴らされて状況の変化を望まないようになってしまったのではないかという恐れは、それとなく感じられる。
 間接民主制では国民が政治に参加できるのは主に選挙によるが、その選挙を乗っ取ってしまえばいつまでも権力者でいられる。選挙は無記名投票だ。他人の選挙通知書を持っていても誰も気がつかない。そういえば投票所で身分証明書を出したことは一度もない。名前を聞かれて頷くだけだ。ただ同じ人が同じ投票所で何度も投票すればすぐに気づかれてしまう。他人の通知書で投票するには通知書の数だけ人数が必要になる。なるほどそれで人数の町かと納得はした。
 石橋静河は好演。普通の人が普通にこういう状況に陥ったらそうなるだろうなというリアリティのある演技だった。普通の人というのは、社会のパラダイムに精神的に蹂躙され、あるいは依存している人のことで、そういう人は家族だからこうしなければならなかったとか、親だから子供を案じなければならないとかいったステレオタイプの考え方しかできない。そんな人でも人数の町には違和感を持つ。そういうトーンで全体を作れば、もう少しましな映画になった気がする。
 中村倫也はいまひとつ。表情に乏しくて主人公の葛藤や苦悩が感じられない。だから行動も依存的で突発的に感じられる。倫理観にも整合性がなく、この主人公の人格を信用できなくなる。だから最後の台詞に厚みがない。
 日本国憲法第13条には「すべて国民は、個人として尊重される」と書かれているが、現在の政治は国民をグロスで捉えて画一的に「処理」しようとしている。「自助」が第一という政治理念は、要するに政治は何もしてやらないということだ。しかし選挙は勝たなければならない。そのためにアメを撒く。携帯電話料金の値下げやGotoキャンペーンなどは国民に対するアメである。アメをもらって飼い主に投票する犬扱いされていることに、国民の多くは気づかない。
 本作品は権力が如何に国民を操るかを描いた意欲的な作品ではあるが、アメをもらえるからガースーに投票しようとしている脳天気な有権者に響くには、少しインパクトに欠けるのが憾みであった。

映画「Le chant du loup」(邦題「ウルフズ・コール」)

2020年09月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Le chant du loup」(邦題「ウルフズ・コール」)を観た。
 現代を上手く捉えた緊迫感たっぷりの潜水艦ものである。冒頭からラストまでリアリティのある場面が続き、息をつく暇もない。安易な結末にしないところは流石にフランス映画だ。タイトルは英語にせず、フランス語の直訳の「狼の歌」でよかった。狼が主人公と誤解される恐れがあるなら「狼の歌がきこえる」あたりでいい。
 山本周五郎の時代小説を読んだことのある人ならお分かりと思うが、真剣での果し合いはテレビドラマの時代劇みたいにスマートにはいかない。どれほど力の差があっても、掠り傷ひとつ負わないということはあり得ない。肉を斬らせて骨を断つという言葉があるように、互いに真剣を持っている状況では、タイミングによっては弱い武士が強い武士を倒すこともありうる。だから戦場では甲冑を着て備えたのだ。
 兵器による戦闘も同じである。一方的に勝つことはありえないのだ。その意味では本作品の戦闘シーンは現実味がある。そして兵士の死にも容赦がない。日本の安いドラマでは死に際に最後の台詞を言ったりするが、死はとてつもない痛みが伴うから言葉を発することはほとんど不可能である。本作品の兵士たちはポイとゴミを捨てるみたいに死んでいく。冷たい訳ではない。それが現実なのだ。
 世界の核保有国は五大国の他にもいくつかあるから、推定では10カ国くらいだと思われる。英米仏露中の五大国は核拡散防止条約で核兵器の保有を国際的に認められている。第二次大戦で日本に核兵器が使われた時は航空機による爆弾の投下という形だったが、現在ではICBM(大陸間弾道ミサイル)とSLBM(潜水艦発射式のミサイル)に核弾頭を搭載するのが主流だ。ICBMは発射基地を設けるか、発射台付きの巨大な運搬車で発射させるかだが、いずれも衛星による監視で発見されてしまう可能性がある。対してSLBMは潜水艦に搭載され、潜水艦は極めて発見が難しいので、戦略としてはSLBMが勝っている。
 本作品はSLBMの多元的な危険性を表現するとともに、軍事命令の不可逆的な面の危険性についても思い知らせてくれる。軍隊は戦争をするシステムであり、他国の国民を殺すことが目的である。そして一度引いた引鉄は戻せない。最高司令官たる大統領はその仕組みを熟知していなければならないが、統治が人治である限り、ミスは起こるし、悪意が実現されることもある。軍隊や核兵器の存在そのものが人類に対する脅威なのだ。
 フランスは大統領制だが、政策の実行部隊は首相以下の閣僚である。ちなみに現在の軍事大臣はフロレンス・パルリという57歳の女性だ。大統領から軍事大臣を経て元帥、大将から二等兵までのヒエラルキーとなっている。基本的に上意下達でその逆はありえないが、意見を言う自由はあり、上官に反する意見を言っても罰せられるという軍規はない。役割分担がしっかりなされており、専門家としての意見は上官も耳を傾ける。
 フランソワ・シビルが演じたソナー員は潜水艦における専門家である。将来はAIが取って代わる役割かもしれないが、動植物や海底からも様々な音が発生している海の中では、情報処理としての音の聞き分けににおいて、聴覚と記憶力の優れたソナー員のレベルにAIが達するのは用意ではないと思われる。そのあたりは他の乗組員も承知していて、だから優れたソナー員はその意見が尊重される。この辺の関係性は人権の国らしい合理性がある。命令系統と平等な人権という、場合によっては相反するかもしれない人間関係が立体的に描かれ、作品に奥行きを与えている。
 俳優陣はいずれも見事な演技だった。フランソワ・シビルが演じた主人公の「靴下」は優れたソナー員としての自負があり、仕事に一生懸命で追求するべき音はどこまでも追求する粘り強さを持つが、書店員の女から口移しにマリファナを吸わされても恨まない度量も持ち合わせている。ラストシーンの戸惑い、迷い、後悔、絶望などが合わさった複雑な表情が素晴らしい。
 オマール・シーはフランス映画に欠かせない俳優である。今年はハリウッド映画の「野性の呼び声」にも出演し、味のある演技を見せていた。本作品ではユマニスム代表みたいな役柄で作品の立体的な構造の一角を好演。
 映画「スペシャルズ!」で無認可の福祉団体を率いるユマニストを演じたレダ・カティブは本作品では核弾頭搭載の原子力潜水艦の館長だ。命令系統の遵守か核戦争の回避かという究極の選択を迫られる。苦悩に満ちたその表情は役者としての面目躍如である。
 ハリウッドのB級大作「TENET」も世界を救うという設定の話だったが、もしかしたら世界が滅びるかもしれないと想定される事態を回避するというややこしい話だったのでいまひとつピンとこなかった。対して本作品は実際に飛んでくるSLBMに対して核弾頭搭載のSLBMを撃ち返すという話だから、非常に現実味がある。世界を救うために僚船と戦うという設定はよく出来ていて、映像も音響も各シーンにぴったりだった。かなりの傑作だと思う。

映画「甘いお酒でうがい」

2020年09月28日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「甘いお酒でうがい」を観た。
 松雪泰子は4年前に映画「古都」で見て以来だ。少し歳を取った感じもするが、相変わらずの美しさである。「古都」では名家の女将の近寄り難い雰囲気を漂わせていたが、本作品の主人公川嶋佳子は四十代の普通のOLで身近で親しみやすい感じがする。
 この人の魅力はほっそりとした体型と身のこなしの軽やかさと、もちろん豊かな表情で縦横無尽に演じる演技力だが、一番強調したいのはその声である。しっとりと落ち着いたいい声なのだ。
 本作品ではその声で主人公の日記を語る。トーンといい間の取り方といい、申し分ない。聞いていてとても心地よいモノローグである。それが川嶋佳子の雰囲気によく合っている。キャスティングはど真ん中の大的中だ。
 坦々と過ぎていく静かな日常を描いた作品だが、自転車のエピソードや椅子のエピソードが物を大切にする佳子さんらしいキュートさに満ちている。時々は将来の不安とか、母親の思い出とかが心のどこかに顔を出すが、日常に紛らせて暮らしていく。
 若林ちゃんを演じた黒木華の多彩な顔芸はケッサクで、清水尋也との「大丈夫」の言葉遊びみたいな掛け合いも楽しい。新人の男性社員にセクハラまがいの質問をする若林ちゃんは若い女の子の姿をしたおっさんみたいだ。佳子さんはそのあたりを全部ひっくるめて受け入れる。
 大事件は起きないけれども、観ていて飽きることがない。ずっと聞いていたい松雪泰子のいい声と、物語に通底する優しさが、心の琴線をそっと撫でてくれる。
 上映後にオンライン舞台挨拶があった。通信が途切れ途切れだったが、それなりに楽しい挨拶であった。ひとつだけオブジェクションがあるのは、タイトルの「甘いお酒」を当方は多分カルヴァドスかガリアーノだと思っていたが、舞台挨拶で紹介されたのはグラッパ。うーん。グラッパは何度か飲んだが、甘いグラッパを飲んだ記憶がない。ま、このあたりも本作品を楽しむひとつの要素かもしれない。

映画「Escape from Pretoria」(邦題「プリズン・エスケープ」)

2020年09月25日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Escape from Pretoria」(邦題「プリズン・エスケープ」)を観た。
 人はひとつの作業を繰り返しているうちに自然と熟練していく。特に物造りの作業では沢山の工程をこなすほど上達も早い。ましてやその作業に命がかかっているとなれば、熟練の速度も段違いになる。木で作る鍵も熟練すれば丈夫に精密になるだろう。
 本作品で伝わってくるのは、理不尽なアパルトヘイトが社会に蔓延して小役人がそのパラダイムを後ろ盾に横暴な権力を振るって人権を蹂躙していることに対する怒り、そして脱走の準備をする主人公たちの緊張感である。
 同じ日常の繰り返しが続くが、高圧的で横暴な看守たちの姿の向こうに、主人公たちは差別され続ける黒人たちを見る。逢えない家族の姿を見る。看守に歯向かう者もいれば従順を装う者もいる。囚人たちの姿勢は様々で一枚岩にはなりえない。しかしひとつだけ共通しているのは看守たちに仲間を売る者がひとりもいないということだ。自分たちは犯罪者ではなく政治的に拘束されている人間であるという認識は一致している。
 映画としては同じようなシーンの連続だが、少しずつの変化を読み取れれば退屈することはない。徐々に近づいていく結構の日に向けて、緊張感は静かに高まっていく。
 ダニエル・ラドクリフをはじめとして俳優陣はみな好演だった。憎まれ役の看守たちも好演。あまりお金をかけていない作品だと思うが、緊迫した場面や間一髪の瞬間もあり、割と面白かった。実話をもとにした映画とのことで、その後の南アフリカの政治的な展開を考えれば、彼らの脱獄の意義は大きかったと思う。

映画「友達やめた。」

2020年09月25日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「友達やめた。」を観た。
 東進ハイスクールの林修さんも言っていたが、友達なんてそもそもいらないと思う。友達がいることの是非を考えてみればすぐに分かることだ。どういう関係性を友達と呼ぶかについても議論が分かれそうだが、一般的に親交のある人を友達と呼ぶとすれば、次に親交があるとはどういうことかとなる。親交とは気を許して付き合うことである。人はどうして他人と関わるのかといえば、ひとつは孤独を紛らすためで、ひとつは承認欲求を満たすためである。場合によっては優越感を満たすためである。
 さらに言えば、複数の人間でいることは独りでいるよりも安心感がある。自分の知らないことを友達が知っていることで助かる場面もあるだろう。暴漢みたいな人間が出現してもこちらが複数なら撃退できるかもしれない。しかしそんな場合は滅多にない訳で、普通に友達と付き合うのはやっぱり淋しいからだろう。
 しかし最近は一人カラオケや一人焼肉なども市民権を得ていて、独りは淋しいという感覚はなくなりつつある。独りは淋しいという感情は人間が本来持っている感情ではなく、社会によって作られた感情に違いない。淋しいと思わされているだけで、人間はもともと独りでも淋しくないのだ。
 これまで生きてきた中で有意義な啓発を数知れず受けたが、その殆どは書籍からによるものだ。その他は映画や芝居、コンサート、講演会などである。友達から啓発されたことはひとつもない。しかし友達でない人から啓発されたことは何度もある。互いに友達であるという自覚のある関係になると、友達であることそのものが目的になってしまっては関係性は硬直するし、ダイナミズムも失われる。関係を維持するために互いに真実を語らないからである。忖度なしに忌憚のない意見を言うのは友達という関係性では難しい。友達でない人のほうが遠慮なく真実を言ってくれる。
 ただつるんでいるだけの友達は何のメリットもなく、寧ろデメリットばかりだ。時間を束縛されるし場合によっては金銭の要求もある。「俺たち友達だろ?」とか「私たち友達よね?」などと言ってくる人間にろくなやつはいない。「友だちになった覚えはない」とキッパリ断ると、時間と金を無駄にしなくて済む。しかしそれが判るのは大人になってからだ。中学生くらいまでは孤独に耐性がないから友達の存在に依存してしまう。LINEで無視されたくらいで自殺するのはその年代か、せいぜい高校生までだ。価値観も依存してしまっているからである。自分なりの世界観、人生観があれば、他人の言葉によって死ぬことはない。
 本作品のふたりは互いに相手を助ける面もあり、つるんでいるだけの部分もある。障害者同士の話だから特別かというとそうではないと思う。すべての人間は多かれ少なかれ障害者なのだという考え方もある。弱いところを理解して助けてほしいというのが友達に求める欲求だろう。しかしそれは友達だけに求めるものだろうか。自分の弱いところは友達だけでなく世間のみんなに知ってもらって助けてほしい。代わりに他人の弱いところをできる限り助ける。
 人間関係の不満は損得勘定によるところが多い。自分だけが負担した、自分だけが頑張った、これだけやってあげているのに何もしてくれないなど、一方的に自分が損をしているのではないかと思うところに不満がある。友達という関係でなければその不満を相手にぶつけることができる。いっそのことビジネスにしてしまったほうがスッキリする。仕事を助けてもらったら代金を支払うのだ。その代わり、相手が困っているからといっても自主的には手を貸さない。困っているから助けてくれと言われてはじめて助ける。だったら友達である必要がない。川で溺れている人がいたら、友達であるないに関わらず誰でも助けるだろう。相手を理解して助け合う社会には友達はいらないのだ。
 中村元訳の「ブッダのことばスッタニパータ」には次の一節がある。
交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
(第一、蛇の章 三、犀の角より)
 新約聖書には次のように書かれている。
『隣人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、私はあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
(マタイによる福音書第5章)
 友達の関係は言ってみれば小さな全体主義の関係である。個人の人権よりも友達という関係性が優先される。人数が多くなると指導者と従属者が生まれ、指導者がいじめをすれば従属者も必然的にいじめに加担しなければならなくなる。それが不良集団であれば他の不良集団との争いに発展する。ヤクザの抗争や、ひいては国家間の争いと同じ図式である。友達は戦争の源なのだ。
 本作品の世界観は結局のところ中途半端で、誰もが孤独に向き合わなければならないというところにまでは達していない。しかし、なあなあで済ますのが友達関係なのだという問題提起はしたと思う。

映画「マーティン・エデン」

2020年09月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「マーティン・エデン」を観た。
 本作品の基となった自伝的小説「マーティン・イーデン」を書いたジャック・ロンドンが27歳のときに出版されたのが彼の著作で最も有名な「野性の呼び声」である。子供の頃に読んだ気がするが、内容は忘れてしまっていた。今年の春に何度目かの映画化作品が公開されたので鑑賞した。CG技術が長足の進化を遂げて本物の犬に見えたのと、ハリソン・フォードとオマール・シーの演技がとてもよくて感動した。
 ジャック・ロンドンの物語を紡ぐ才能は流石に文豪である。「野性の呼び声」は4歳くらいまで人間に飼われて衣食住に恵まれた生活をしていた大柄の犬を主人公に、さらわれて働かされ、やがて森の狼と交流し、野生の本能が呼び覚まされていくという設定である。実にエネルギーに富んだ設定であり、作家が後ろから押されるように小説を書いた様子が想像できる。生み出された物語は力強さに満ちている。
 そういう作品がどのようにして生み出されたのかを描いたのが本作品である。主人公マルティン・エデンはあまり教育はないが、素直で頭の回転が速くて洞察力に満ちている青年だ。知り合った金持ちの娘エレナからもらった本を読んだことがきっかけで文学にのめり込む。そして独自の解釈、独自の世界観、独自の文体を身に着けていく。エレナのすすめに従って学校教育を受けてしまっていたら、ステレオタイプの文体や世界観しか身に着かず、マルティンは作家になることはなかったかもしれない。作家の想像力の源はアカデミックな知識ではなく、自分の目で見て耳で聞いて嗅いで食べて触った体験なのだ。
 そして文体や語彙は、貪るようにして読んだ本から得られた。映画はマルティンの行動をシーンとして繋げるが、外に出ていないときのマルティンは殆どの時間を本を読み、詩や小説を書くことに費やしていたに違いない。話すたびに前のシーンよりも語彙が増えて言葉が正確になっている。物語の進行よりも遥かに速いスピードでマルティンが進歩していることがこの作品のポイントである。誰もマルティンについて行けなかった。そこにマルティンの孤独がある。
 時代というものはその時の人々の習慣や思考回路によって、一定の方向に収斂されていく。ある時代にもてはやされたものも次の時代には廃れてしまうことがある。大衆は自分の考えを持たず、たったひとつの新聞記事で他人を両断して排除する。予断と偏見に満ちているのが時代というやつだ。マルティンは時代に乗って有名になり金を得るが、それがうたかたのように消え去るものであることを知っていたのだろう。無名で雑誌の掲載を夢見ていた頃のほうがずっと幸せだった。もうあの頃には戻れない。
 ジャック・ロンドンは1916年に40歳で自殺している。第一次大戦が始まったのはその2年前の1914年(大正3年)だ。「マーティン・イーデン」を発表したのはおそらく1909年頃だから「野性の呼び声」で有名になってから6年後ということになる。既に時代に絶望していたのだろうか。

映画「おかえり ただいま」

2020年09月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「おかえり ただいま」を観た。
 死刑の議論は難しい。
 日本の死刑は絞首刑だけだが、外国では電気椅子や銃殺、ギロチンなどがある。先進国では残虐刑が禁止されている国が多く日本もそのひとつだが、イスラム圏の国ではたとえば石打ちの刑などが現在でも行なわれている。下半身を土に埋めて、こぶし大の石を投げつけるという刑だ。死ぬまで投げつけるので、残酷さは相当だと思う。
 仮に日本で石打ちの刑があるとして、被害者の家族は石を投げつけられるだろうか。娘を理不尽に殺された母親でも、他人を傷つけることには禁忌の心理が働くから、相手が死ぬまで石を投げつけるのは難しいだろう。では絞首刑の床を抜くスイッチを押せるだろうか。これも普通の人には難しい。
 死刑は人を殺すことだ。他人の死刑を望むが人殺しはしたくないというのは、沢山の人の本音だろうが、ある意味では虫のいい話である。日本では死刑囚は刑務官が殺す訳だから、人殺しを他人任せにしている訳だ。。これは死刑を望む被害者家族だけでなく裁判官にも検事にも言えることで、人を死刑にするなら自分で執行するくらいの覚悟があって然るべきなのかもしれない。
 本作品は簡単に言えば、清く正しく生きてきた女性が見ず知らずの三人組の強盗に殺される話である。母娘ふたりで生きてきた母親は、ひとりを除いて死刑にならなかった判決を不服として死刑を求める署名活動を行ない、30万人近くの署名を集めている。しかし死刑の嘆願に署名した人は自分の手で死刑囚を殺す覚悟があるのだろうか。
 母親が死刑を求めるのは無残に殺された娘の復讐のためだけではなく、無慈悲で残虐そのものの犯人たちを再び世に出したくない気持ちもあるだろう。その意味では死刑囚に自ら手を下してその死を確認すれば、二度と外の世界に戻ってくることがないという安心があるかもしれない。能動的に殺すのは誰も気が進まないから、水だけを与えて餓死するのを待つという手もある。人権団体から死刑囚にも人権はあると批判されるかもしれないが、一方的に生命を奪われた被害者の人権にはどのように落とし前をつければいいのだろうか。
 被害者である利恵さんの死は理不尽すぎるし、母親である富美子さんがこの事件を風化させたくないという気持ちも判る。戦争の歴史を風化させてはいけないのと同じだ。再び戦争が起きないために努力するのと同じように、利恵さんのような被害者を二度と出さないように努力しなければならない。富美子さんの講演はそれに役立っているのだろうか。
 映画の中で少しだけ触れられているが、加害者は社会から追い込まれて加害者となったのである。生れた時は赤ん坊だった訳で、その頃から犯罪者だったのではない。ボーヴォワールの言い方を真似れば、人は犯罪者に生まれるのではなく犯罪者になるのだ。犯罪者が育たない社会を作らなければ、第二、第三の利恵さんが殺されるだろう。
 人間に優劣をつけ、優れた者が劣った者の人権を蹂躙するのが今の社会だ。優劣の基準はその時その時の社会のパラダイムである。日本の新しい総理大臣は自助、共助、公助などと言って、自己責任論を徹底しようとしているから、自助が出来ない人間は今後も追い詰められ続けるだろう。犯罪者の誕生である。そして第二、第三の利恵さんが殺される下地となる。そうしないためには他人との優劣を争うことが生き甲斐というこの社会の人間のありようそのものを変える必要がある。オリンピックで金メダルを目指す強者を讃えて応援する反対側には、差別されて人権を蹂躙される弱者がいるのだ。
 沢山のテーマが錯綜した複雑で難解な作品である。考えるべきことは山ほどある。あのとき救えなかった子供が大人になって強盗殺人をしたと考えれば、我々の身の回りにも今すぐ助けないといけない子供がいるかもしれない。そこで手を差し伸べるかどうかが、第二、第三の寿恵さんが殺されるのを防ぐことにつながる気がする。

映画「テネット」

2020年09月20日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「テネット」を観た。
 
「インセプション」もそうだったがクリストファー・ノーラン監督はどうも時空間を移動させる物語が大好きなようで、本作品でも時間を行ったり来たりする。時間を相対化しているのだ。ならば善悪についても相対的に設定してもよさそうだが、そうなると観客は主人公の側に立って安心して観ていることが出来なくなり、物語自体が意味不明になってしまう。流石にそこまではできなかったようだ。
 しかし時間と時間のベクトルを相対化することにのみ注力した結果、世界観は浅くて陳腐なものになってしまった。これでは水戸黄門と同じ単なる勧善懲悪の物語である。好きな人は大勢いるだろうが、感銘を受けるジャンルではない。
「インセプション」と同じように、世界観や善悪は考えないで時空間を行ったり来たりのアクションを楽しむのがいいということになるが、既に「インセプション」を観ている者には、似たような物語を設定を変えて見せられているだけに思えてくる。
 アクションも荒唐無稽だった「インセプション」に劣るし、飽きはしないがさほど見処のある作品でもなかった。ハリウッドのB級大作の典型みたいな映画である。

映画「カウントダウン」

2020年09月18日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「カウントダウン」を観た。
 筒井康隆の小説で真っ昼間の会社に金棒を持った鬼が突然やってくるという作品がある。一度しか読んでいないが、強烈な印象がずっと残っている。鬼はとにかく理不尽で、何の説明もなく社員たちを次々に殺していく。筒井康隆らしく死を前にして醜態をさらけ出す人間たちを笑う作品だが、殺され方はリアルで残虐で、やはり理不尽である。ホラーは小説でも映画でも、理不尽さが大切なのだ。
 本作品も中盤までは理不尽な展開であり、怖いことは怖い。スマホのアプリをタイトルにしたのもいい。しかし途中から「専門家」である神父が指摘したとおり、これは「呪い」であるということになる。つまり理不尽でなくなるのだ。
「13日の金曜日」や「リング」は最後の最後まで理不尽な状況が続く作品で、続編が製作された。ジェイソンも貞子も鬼と同じように無尽蔵の強さを持っている。映画が完結しなければ物語が現実まで追いかけてくる。だから怖いのだ。本当に恐ろしいホラー映画は、観終わったあとも、ふとしたときに恐怖が蘇ってくるものである。
 役者陣は意外によかったと思う。主人公のクインよりも、最初に殺される少女が最も印象に残っている。もしかしたらこの作品のピークはその場面だったのかもしれない。

映画「Hors normes」(邦題「スペシャルズ!政府が潰そうとした自閉症ケア施設を守った男たちの実話」)

2020年09月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Hors normes」(邦題「スペシャルズ!政府が潰そうとした自閉症ケア施設を守った男たちの実話」)を観た。
 ヴァンサン・カッセルを初めて見たのはナタリー・ポートマン主演の映画「ブラックスワン」の演出家役で、主人公ニナを狂わせる独特の世界観の持ち主だった。次は「たかが世界の終わり」で、少しでも自分のことに踏みこんで来られると、怒りの感情を爆発させてあることないこと怒鳴り散らす難物を演じていた。私生活ではイタリアの宝石と呼ばれる女優モニカ・ベルッチと結婚。母国語フランス語の他に英語の台詞も流暢である。
 本作品では、公式の施設で受け入れてもらえない重症の自閉症患者を無条件に受け入れる無認可のケア施設の経営者ブリュノを好演。自閉症患者たちが病気を克服して社会に出て自力で生きていくようにするのが彼の大目標だ。そのためにはひとりひとり全く異なる患者たちに個別の対策を講じなければならない。
 公式の施設は予算と規則で縛られており、自閉症が重症であるほど入所を拒まれる。熱心な職員はブリュノに受け入れを依頼することになる。管轄官庁の役人たちは現場を知らず、無認可のブリュノのケア施設が無認可というだけで排除しようとする。しかしブリュノは自分たちを排除することは重症の自閉症患者を排除することであることを知っている。
 物語の主要な部分はブリュノたちのケアの現場である。自閉症は知的障害を伴うから、言葉による意思の伝達は難しい。最終的には言葉でのコミュニケーションが出来て仕事が出来て自立が出来るのが理想だが、それまでは言葉に頼らず、言葉以外の手段で情報をやり取りする。自閉症は脳の異常であり、脳は体からしか情報を得られない。見せる、聞かせる、臭わせる、触らせる、食べさせる、体を動かさせるといった、身体への働きかけによって、脳は次第に情報の処理ができるようになる。ブリュノたちのやり方は理に適っているのだ。
 慣れたケア担当者は患者の暴力に怯まない。いちいち反応すると暴力によって何らかの影響を及ぼすことが出来るという体験になってしまう。幼児を見ているとすぐに分かるが、押したら音が出るものなどがやたらに好きである。非常ベルを押したらけたたましい音と一緒に人々が騒ぎ出す。だから非常ベルを押す。人を殴ったら痛いと大声を出したり泣き出したりする。だから殴る。言葉を発せられないから言葉の代わりに殴るのである。何度も殴らせないためには反応しないことだ。
 ブリュノたちの施設に集まる人もまた問題を抱えている。多くの人が見向きもしない自閉症患者の施設に来て働こうというのは、それなりの覚悟をしてきた人たちだ。患者に殴られても平気な顔をし、労働時間が長くても給料が遅れても、患者のために努力する。彼らをまとめるブリュノは休みなしだ。おかげで結婚もままならない。それでも患者とその家族が笑顔を取り戻すために寝食を忘れて働く。しかしブリュノたちの施設は無認可のままである。
 社会が自閉症患者を見捨てようとし、実際に排除されてしまった重症患者をブリュノたちみたいな人間が多大な犠牲を払って面倒を見る。そんな社会はやっぱりおかしい。重症の自閉症患者を抱える家族には健康で文化的な最低限度の生活が保障されないのだ。税金はまずそういうところに投入されるべきだろう。弱者を公助で救う。金持ちや成功者はそれこそ自助で生きていけばいい。
 日本では自助、共助、公助の順を政策として掲げる冷酷な政治家がトップになろうとしている。真っ先にに見捨てられるのが弱い人々であることは目に見えている。国民を個人として尊重するのではなく、グロスで処理しようとすると、最も恩恵を受けるのは富裕層であることは自明の理だ。消費税の逆進性と同じことである。弱者を切り捨てる残虐な政治家が首相になる日本では、ブリュノたちと同じように弱者のケアに頑張っている人々の努力も、いずれは切り捨てられるだろう。仕方がない。日本の有権者がそれを望んだのだ。
 最後にタイトルについて。原題の「Hors normes」は解釈が難しいが、当方としてはブリュノの施設が無認可であることから「無認可施設の日々」とでもつけたい。邦題の「スペシャルズ! 政府が潰そうとした自閉症ケア施設を守った男たちの実話」は原題からかけ離れすぎている上に「男たちの」という限定もおかしい。ブリュノとマリクの施設には女性も働いていた。それに物語の主眼はブリュノたちがどんな思いで日々努力しているかであって、政府から施設を守ったことではない。配給会社のギャガの人がつけた邦題かもしれないが、早急に改めるのが懸命だと思う。