三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

秋川雅史「聴いてよく分かるクラシック」

2016年08月20日 | 映画・舞台・コンサート
足立区の「西新井文化ホール」に秋川雅史さんのコンサートを聴きに行った。
または

西新井文化ホールは子供の体験コーナーとコンサートホールの2棟になっていて、子供の体験コーナーには安全ワイヤー装置付きのボルタリング壁もある。コンサートホールは客席の傾斜が急で、前の客がどんなに座高が高くても気にならない造りになっている。二つの棟の間は屋根のある通路になっていて、今日みたいな土砂降りの日には助かる。土曜日なのでキッズコーナーは大盛況だったが、コンサートホールはところどころに空席があった。客のほとんどは年配の人で、客席の急な階段を上ったり下ったりするのに四苦八苦していた。

さて、コンサートは秋川さんとピアノの小島さやかさんの二人。秋川さんが兎に角喋って歌う。
前半ではクラシック音楽の成立と歴史が述べられ、古典派からロマン派の歌が歌われた。歌いっぷりはテノール歌手としては普通だが、声の大きさはさすがだった。
後半では音階についての説明があり、音階にはさまざまな種類があること、日本のヨナ抜き音階(4番目の音fと7番目の音hを使わない)や琉球音階(cとa抜き)が紹介された。ヨナ抜き音階はもともと中国音階だそうで、日本の歌謡曲でいえば谷村新司の「昴」がヨナ抜きとのこと。だから「昴」は中国で大人気だそうだ。
後半でのもう一つは音楽の3要素(メロディ、ハーモニー、リズム)についての話だ。メロディは人でいえば顔、曲を区別するのに使われる。ハーモニーについては、違う曲でも同じハーモニーがあるそうで、例として「昴」と「川の流れのように」のハーモニーが曲の始まりから途中まで同じだそうだ。「昴」のカラオケで「川の流れのように」が歌えるとのこと。なかなか面白い。

最後に有名な「千の風になって」を歌い、アンコールでカンツォーネを熱唱してコンサート終了。
とても有意義なコンサートだった。

テトラクロマット「風は垂てに吹く~愛してると言うかわりに空を飛んだ」

2016年08月20日 | 映画・舞台・コンサート
吉祥寺シアターで芝居「風は垂てに吹く~愛してると言うかわりに空を飛んだ」を観た。

吉祥寺シアターはこじんまりした劇場だが、先日行った椎名町の風姿花伝よりは大きい。風姿花伝は舞台の両側にも客席があるという変わった造りだったが、吉祥寺シアターも結構変わった造りの舞台だ。客席こそ舞台の横にないものの、梯子のようなものがあり、上に上がると回廊のようになっている。奈落もあるし、なかなか設備的には整った劇場だと思う。

劇のテーマは分かりやすいもので、TLS(Totally locked-in syndrome=閉じ込め症候群)に夫が陥って、夫からの一切の意思表示が絶たれてしまった妻の精神性のありようを、空の事故で行方不明になった者たちの運命と重ね合わせて描こうとするものだ。ロープや長いゴム紐、ギターの生演奏や生歌があり、道具を使ったパフォーマンスや踊りもあって、結構楽しい舞台だった。席は一番前の席の真ん中で、その席から見ると主演の北川弘美が非常に美人に見えた。

TLSはALS(Amyotrophic lateral sclerosis=筋萎縮性側索硬化症)を原因としていて、有名なStephen Hawking博士も罹患者として知られている。Hawking博士は並外れた頭の良さと特殊な車椅子で罹患後も数十年に亘って物理学の研究をすることができており、また2回結婚して2人の子供にも恵まれている。しかしこれは例外だ。一般の人々はALSに罹患してしまったら進行する病気と何とか折り合いをつけて、普通に生活できる期間をなるべく長くする努力ができるだけだ。否応なしに進行する症状に絶望を感じるに違いない。すべての随意筋が動かなくなった状態がTLSである。

しかし芝居はTLSの精神状態を詳しく表現することはなく、ただ極限状況であることだけを伝えるに留めている。主眼は妻の気持ちのほうだからだ。他の登場人物も、意思疎通がまったくできないことから生じる深い考察を話すのではなく、それぞれの個人的事情を説明し、思いを述べるだけだ。そして妻は意思疎通ができなくても夫と精神的に繋がっていると思うことで絶望から脱しようとするところで芝居は終わる。夫のTLSは何も解決されないし、テーマも掘り下げられないままなので、若干の物足りなさは残るが、エンディングが歌と踊りで盛り上がるので、それなりに感動する。隣の女性は泣いていた。

役者の演技は完成度がいまひとつだったが、演出が楽しいので芝居としてはおすすめである。特にタマルという女性が音楽監督を兼ねて出演していて、この人の歌がとても素晴らしい。芝居の後にアフタートークとミニライブがあるとのことので、聴きたいと思ったが、隣の女性の仲間が集まって来たので、席を空けたほうがいいと思って退散した。タマルさんの歌は別の機会に。

風姿花伝「いま、ここにある武器」

2016年08月17日 | 映画・舞台・コンサート
「いま、ここにある武器」という芝居を観た。
http://www.fuusikaden.com/weapon/
 
シアター「風姿花伝」は西武池袋線の椎名町駅が最寄り駅だが、乗り換えが面倒だ。そこで副都心線の池袋駅から歩くことにした。立教大学の横を通り、山手通りを下って目白通りに入ったらすぐに劇場が見える。このルートは歩道が広くてとても歩きやすい。池袋駅C4出口から大体20分ほどかかるが、快適なウォーキングだ。

到着したシアターはこじんまりしたマンションの2階で、やや心配になった。このところ大劇場にばかり行っていて、小さくても世田谷パブリックセンターのシアタートラムくらいだから、「風姿花伝の」の狭さはかつて渋谷の公園通りにあった小劇場「ジァンジァン」を思い出させる。学生だった頃によく通っていて、イヨネスコ作、中村伸郎主演の「授業」は何度も何度も観たものだ。

さて、今日の芝居「いま、ここにある武器」は、ドローンに代表される無人テクノロジーを使用した武器が話の中心となる。舞台はロンドンだ。
芝居の前半はテクノロジー開発の中心であるエンジニアとその兄、開発に関わる大企業と政府の関係性について会話劇で十分な説明が行われる。テーマは弟のエンジニアに対して兄が投げかける次の質問だ。
「お前は自分の仕事を子供たちに話せるか」
兄は戦争の犠牲者を目の当たりにしたことがあり、軍需産業に対してヒューマニズムの観点を述べる。もちろん話は平行線に終わる。

後半は、兄の言葉に心を動かされて開発から離れようとしたエンジニアと、それでも執拗に追いかけ追い詰める大企業およびCIAエージェントの対決が、やはり会話だけでテンポよく描かれる。
テーマは多岐にわたり、政治と倫理、ビジネス、文明の発展と人類の被害、世界観と善悪の基準、自己実現と承認欲求、そして不安と恐怖、などなど。

芝居では軍需産業とCIAが勝ち、ヒューマニズムは蹂躙されるが、命までは奪われない。生き残って細々と生きていくのだが、その生活の糧の一部は軍需産業に搾取され、子供を殺す武器へと変貌していくのだ。そのような絶望感に満ちた、とてもアイロニカルな芝居だったが、観劇の後味は悪くない。それは、このような絶望的で悲観的なテーマを真剣に考えている人間がいるという、ある種の安堵感であるような気がする。

参加することに意義はないのか

2016年08月13日 | 政治・社会・会社

やっぱりオリンピックはメダルを取らないと、まったく意味がない」
ピンポンの3位決定戦で北朝鮮のカットマンに負けた福原愛の言葉だ。

福原愛を嫌いな日本人はそんなに多くはないだろう。私はそれほど好きではないが、少なくとも嫌いではない。性格も頭もよさそうだし、顔もそれなりに可愛い。それなのに、人生をオリンピックのメダルに賭けている価値観がなんとも哀れだ。勝つことだけに意味があるとする価値観は、敗れた者、弱い者に対して容赦がない。

テレビや新聞の報道もメダルと勝ち負けの話ばかりだ。近代オリンピックを始めたPierre de Coubertinが紹介した、神職者の次の言葉は顧みられることがない。
「L'important, c'est de participer」(「重要なのは参加することだ」)
日本では「オリンピックは参加することに意義がある」と原語よりも積極的な意味合いで紹介されている。にもかかわらず、重要なのは勝ち負けだけという価値観に蹂躙され、忘れ去られてしまった。

「参加することに意義がある」という価値観は、オリンピックのアマチュアリズムに通底し、同じ地球上に生きている様々な人種や民族が一堂に会して、利益を追求することなく楽しく競技することで、人類の親和を図るものである。人類に求められているのは相手を打ち負かすことではなく、相手の立場を慮り、互いに尊重しあって共存していくことだ。

それを再認識するのにオリンピックは重要な役割を果たして然るべきなのだが、残念ながら現在のオリンピックは商業主義に侵されて結果至上主義になり果ててしまっている。2020年の東京オリンピックなど、利権と金儲けと権力欲の三つ巴で生まれた前代未聞の醜いイベントだ。政治家の出世と、土建屋の金儲け、官僚の権限拡大、そしてアスリートの将来設計の、それぞれの思惑が一致して、マスコミも一緒になってオリンピックを礼賛する。ヒエラルキーの下方では、体罰や人格否定が横行する厳しい指導で主体性を失ってしまう子供たちがいる。虐げられた魂はいくつになっても恨みを忘れず、弱い者いじめに向かう。
勝つことだけに意味があるというオリンピックの価値観が、実は世の中の格差を作り出す価値観の現れであることを理解するのは、それほど難しいことだろうか。

今回のオリンピックでは、体操競技で競技を終えた選手が他国の選手にも握手で迎えられる場面だけが唯一の救いだった。


映画「Les Heritier」(邦題「奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ」)

2016年08月12日 | 映画・舞台・コンサート

フランス映画「Les Heritier」(邦題「奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ」)を観た。
http://kisekinokyoshitsu.jp/

フランスの高校の落ちこぼれクラスがコンクールに出る話だ。日本のドラマでも似たようなものを放送している。寺尾聰主演の「仰げば尊し」だ。ドラマは吹奏楽コンクールだが、この映画は歴史コンクールというなんともアカデミックなコンクールである。ちなみに吹奏楽部は日本各地でブラック部活として問題になっているようだ。

映画では、自己中心的だが成績が悪くていじけていて反抗的な生徒たちでバラバラの教室を、熱血おばさん教師がコンクール参加の指導のなかで次第にまとめ上げ、生徒たちに自分たちでものを考える力をつけさせる。ステレオタイプのストーリーだが、実話に基づいているそうだ。そういえばドラマ「仰げば尊し」も実話を基にしているとのことだった。
映画の教室は白人と黒人と東洋人、クリスチャンとムスリムといった人種と宗教の入り混じった生徒たちで、中東のIS騒ぎ以来の難民問題の影も微妙に感じさせる面もあり、日本のドラマよりもはるかに複雑でデリケートな状況だ。

結末は大方想像がついていたが、それでも感動する。それはおばさん教師が一人の等身大の人間として、権威に頼らず、強制せず、頭ごなしの否定もせず、正面から生徒たちに向き合った結果だからだ。

フランス映画は議論の場面が多く、映画そのものが哲学的だ。予算だけ豊富なハリウッドのB級映画との違いは、考察の深さが違う。
そういえば代表的なシャンソン「Sous le ciel de Paris」に次の歌詞がある。
Sous le pont de Bercy
Un philosophe assis
Deux musiciens quelques badauds
Puis les gens par milliers
「ベルシ川の橋の下に哲学者が座り、そして二人の音楽家がいて、それから数千人の人々」みたいな感じの意味だ。多分。
国旗のモチーフが自由平等友愛のフランスでは、哲学は日常生活のなかに普通に存在するようだ。その分だけ、フランスに暮らす人々は精神的に自由である。権威と体罰が大好きな日本とは、自由の質も度合いも違うのだ。