三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「アイリッシュマン」

2019年11月25日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「アイリッシュマン」を観た。
 https://www.netflix.com/jp/title/80175798

 三時間半の長丁場だが、映画を観て長尺の必然性を納得した。どのシーンも全部必要なシーンで、無駄なシーンなどひとつもない。しかし物語は波乱万丈だ。削りに削った結果の三時間半だと思う。
 大局的に言えば男たちの権力闘争であり、互いの肚の探り合いである。ロバート・デ・ニーロ演じる主人公フランク・シーランには、相手の言葉の端々に垣間見える本音を感じ取る鋭い感性がある。加えて「ペンキ屋」としての類稀な知識と行動力。これらを武器にフランクは、権力闘争をする男たちの間を乗り切っていく。それは一瞬でも気を抜いたら奈落に落ちてしまう厳粛な綱渡りでもある。
 女たちは男たちの権力闘争を理解し安っぽい倫理観など捨て去って、清濁併せ呑みつつ男たちの稼ぐ金で贅沢をし、子供を育てる。思えば人類の歴史は戦争の歴史である。人殺しの大義名分の裏には私利私欲がある。そんなことは百も承知で男たちを受け入れ、したたかに生きてきた女たちの存在が人類を存続させてきた。
 それがいいことなのかどうなのか、そんなことはどうでもいい。人間は欲まみれで泥臭く生きていくものだ。スコセッシがそう主張しているかのようである。そしてそれが本作品の世界観そのものだ。利己主義と保身と自己正当化が人間の本質なのだと冷徹に言い放っているかのようである。
 出演者は大御所が揃っていて凡庸な演技は皆無である。スクリーンには常に緊張感が漂い、一瞬も目を離すことが出来ない。中でもアル・パチーノが特によかった。演じたジミー・ホッファは、常に裏の意味を持たせる会話をする登場人物たちの中にあって、ひとりだけ天真爛漫、子供がそのまま大人になったような人物である。表裏がないから絶大な人気を得ている。フランクもこの人物が大好きだ。
 しかし自由奔放な精神は権力者にとって邪魔でしかない。フランクにはとても苦しい選択が待ち受けている。その時のデ・ニーロの淡々とした表情が凄い。苦しくて悲しくてやりきれない筈なのに、ただ黙々と運命を受け入れる。
 タイトルは「アイリッシュマン」であり「アイリッシュパーソン」ではない。男は破壊と創造を求めるのに対し、女は融和と存続を求める。本作品は男の物語でなければならなかったのだ。


映画「オーバー・エベレスト」

2019年11月25日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「オーバー・エベレスト」を観た。
 http://over-everest.asmik-ace.co.jp/

 字幕で観たかったが近くの映画館でやっていなかったので、吹替で鑑賞した。役所広司の声を役所広司が吹き替えしているのが少し面白い。
 演出はやや冗長だ。CGは本物に見えてこそ価値があるが、明らかにCGとわかる場面がいくつかあった。CGというよりも合成と言ったほうが適切かもしれない。その辺にチープ感が出てしまっている。
 しかしヒロインの張静初(チャン・チンチュー)のとても綺麗な顔に映画全体が救われている。東アジア人らしい透明感のある美貌は、長く見ていても飽きない。演出もそれをかなり意識していると見えて、この人のアップを長く長く映していた。流石に少し長すぎる気もしたが。20代の女性にしか見えないこの女優さんが1980年生まれの39歳と知って驚いた。世の中には本物の美魔女がいるものだ。
 さて作品自体はハリウッドのB級映画レベルで、お決まりのクライマックスシーンはあるものの、全体として凡庸な作品になってしまった。張静初の美しい顔が見たい人とよっぽどヒマな人向けである。


映画「Angel has fallen」(邦題「エンド・オブ・ステイツ」)

2019年11月25日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Angel has fallen」(邦題「エンド・オブ・ステイツ」)を観た。
 http://end-of-states.com/

 シリーズらしくそこかしこに前の作品を思い起こさせるシーンがあったが、過去の作品の知識がなくても十分に楽しめる。当方も過去作品は観ていない。
 作品紹介にあるように、モーガン・フリーマン演じるトランブル大統領が大量のドローンによって襲われるのだが、その部分を何気なく読み飛ばしていた。映画を観てはじめて、実際のドローン攻撃がどれほど恐ろしいかを理解した。

 コナミのビデオゲームに「メタルギアソリッド」のシリーズがあって、ゲームの中にPMCと呼ばれる民間の軍事会社が登場する。武器と傭兵を販売、レンタルする会社で、巨大な戦闘ロボットが主人公スネークの行く手を阻む。
 このゲームよりもずっと以前、多分100年くらい前から、SF作家や漫画家をはじめ、いろいろな人たちがロボット兵士の登場を予言していた。鉄腕アトムだってそのたぐいのひとつだ。
 ロボットというと、つい人型ロボットを想像してしまうが、自動車などの製造ラインで活躍しているのはユンボーを小さくしたみたいなアームだけのもので、目的に対して最適な形のロボットになっている。そしてその究極の形のひとつがドローンである。
 科学技術の発達は常に軍事開発が先導してきた。ドイツのフォン・ブラウン博士が開発したV2ロケットがその後の宇宙ロケットに繋がったことは誰もが知る有名な話だ。軍事用のドローンはとっくの昔に作られている。最新の軍事技術は極秘情報として開示されないだけだ。ちなみに民間軍事会社PMCも実在している。

 さて本作品は予告編の森の爆破シーンが最も痛快な場面ではあったが、それ以外にも見所が多くあり、退屈することなく鑑賞できる。特にモーガン・フリーマンの場面では、その演技だけですべてを納得させるようなところがあり、思わず唸ってしまった。
 ジェラルド・バトラーは「ハンター・キラー」の決断力のある艦長の役もよかったが、アクションがある本作品の演技は、中年男の悲哀と責任感が滲み出ていて、味があった。
 総じてテンポのいいストーリーで、気持ちよく鑑賞できる作品だが、ドローンの恐ろしさだけはいつまでも残っている。既に軍事供用されていると思うと、空恐ろしい。反体制のデモは警官隊が対応するのではなく、ドローンが対応する時代が来ないとも限らないのだ。


映画「i新聞記者ドキュメント」

2019年11月18日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「i新聞記者ドキュメント」を観た。
 https://i-shimbunkisha.jp/

 望月衣塑子のフラットな精神性が凄い。凹まないし、投げ出さないし、諦めない。それに人を恨まない。社内で衝突しても引きずることなく普通に接するし、ボツにされても腐らない。主観的な感情を排除して、あくまで事実のみを追い求める。ジャーナリストはこれくらいのタフな精神力の持ち主でなければいけないとすると、ジャーナリストになろうとする人にはそれなりの覚悟が求められるだろう。尤も、覚悟なしにジャーナリストを名乗る族もいるようだ。
 事実とは何か。菅官房長官の言い分が面白い。事実誤認に基づく質問には答えられないという言い分だ。望月記者が質問したのは、辺野古の埋め立てに使われている土が赤土に見えるがどうなのかというものだった。赤土だと断言している訳ではない。しかし質問を聞いた人が赤土と誤認するからダメなのだという論理だ。権力が事実誤認と決めつければ、何も質問できなくなる。野党議員が「事実がわからないから聞くんでしょう」と当然のことを言っていたが、菅義偉は理解できない振りをする。
 もともと安倍政権は、安倍晋三の頭の悪さに周囲が合わせているから、知的レベルは最低である。官房長官も同じようにレベルを下げて、非論理的な言い分を堂々と主張するようになってしまった。本当はもう少しまともな人だと思う。
 嘘も百回言えば本当になる、というのはナチスのプロパガンダ手法らしい。麻生太郎が「ナチスのやり方に学べ」と発言して問題になったことがある。安倍晋三はモリカケ問題について「説明責任を果たす」と言い続け、結局何も説明しないまま、最後は「説明責任を果たした」と言い張った。国民は皆健忘症だとでも思っているに違いない。そして残念なことにそれは結構当たっている。麻生太郎の発言も、ドイツの政治家が発言したら大変な事件になったはずなのに、日本ではまたアホウタロウが何か言っているよ、と苦笑いで終了だ。
 映像に出てくるおばさんが「どうせ選挙になったらまた自民党が勝つんでしょ」と言っていた。実際にそうなっている。「国難突破解散」だとか言って北朝鮮の脅威を訴えた総選挙は、モリカケ問題の説明責任を果たさないまま突入したが、結果は自民党が公示前議席を維持する形となった。安倍は「国民の信を得た」と得意満面だった。
 日本国中の良識ある人々が無力感に押し潰されそうになったが、ジャーナリストは結果をニュートラルに受け止める。何が事実なのかということと選挙の結果は別でなければならない。ジャーナリズムが権力に押し潰されて表現の自由を放棄するようでは民主主義は終わりだ。しかし日本のマスコミは、かつて大本営発表を垂れ流していた頃に戻りつつある。それは退化と言っていい。「新聞記者」のレビューにも書いたが、いまや言論の自由を守るのはジャーナリストではなく映画人だ。
 本作品は数少ない勇気のあるジャーナリストを言論の自由を守る映画人が撮影した貴重なドキュメントである。沖縄の基地問題、森友学園問題、加計学園問題、伊藤詩織さんの強姦事件、それに望月記者の質問妨害事件などのシーンがテンポよく進む。小気味のいいドキュメントで、まったく退屈しない。それは望月記者と森達也監督の覚悟と勇気がひしひしと伝わってくるからだ。観ているこちらまで、少しばかり勇気が湧いてくる。この作品が上映されなくなるようでは、日本の将来は暗澹たるものになるだろう。


映画「Brightburn」(邦題「ブライトバーン 恐怖の拡散者」)

2019年11月18日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Brightburn」(邦題「ブライトバーン 恐怖の拡散者」)を観た。
 https://www.rakuten-movie.co.jp/brightburn/

 宇宙からの侵略者の話である。空から落ちてきた赤ん坊を、田舎の夫婦が、コウノトリが運んでくれたみたいに勘違いして育て、すくすくと育った子供は、十二歳の誕生日に自分の本当の使命を知る。予告編の通りにストーリーが展開するが、その先が想像とは違っていた。ホラー映画だからハリウッドの定番である正義の味方が登場しないのは当然として、非力な登場人物が都合のいい偶然に助けられることもない。ハリウッド映画なのに予定調和のラストでない作品に少し驚いたのである。
 人は創造することが好きだが、同時に壊すことも好きである。しかし器物を損壊すると罪に問われる場合がある。それにまだ使えるものを壊すのは勿体ない。他人の命や身体を壊せば文句なく刑事罰が待っている。人間関係を壊したら窮屈になる。何かを壊したいのに何も壊せないからストレスが溜まる。
 その点、本作品のブランドン・ブレイヤーはやりたい放題だ。気持ちがいいくらいどんどん壊し、どんどん殺していく。ホラー映画は普通、モンスターやゴーストやサイコの被害に遭いそうになる普通の人が主人公になって、その主人公と一緒に恐怖を味わうのだが、本作品はブランドンの両親には感情移入できず、宇宙から来た破壊者であるブランドンに感情移入してしまう。だから壊していくシーンに快感を覚えるのだ。微妙に共感できない母親のキャラクターをエリザベス・バンクスが上手に演じる。ブランドンと共有している口笛の合図の回収のシーンもうまく出来ている。
 本作品の主人公はブランドンであって、ブランドンが赤ん坊の状態で発見されたのは、送り出した存在の深謀遠慮かもしれない。その惑星の支配生物の赤ん坊の姿であれば警戒されにくいし、攻撃もされない。うまく育てばその惑星の社会構造などがわかり、破壊者として必要な知識は自然に身につく。そうして時期が熟したら破壊をはじめればいい。
 Bというアルファベットにこだわった作品で、主人公の名前はBrandon Breyerだし、土地の名前はBright Burnだ。明るく燃える土地柄なのである。この地名は制作者の洒落だろう。

 ブランドンの破壊はまだまだ続きそうで、本作品の続編があるのは間違いないだろう。反抗期の少年らしく、社会的な地位や権威のあるものから壊していくことになるかもしれない。ブランドンが徹底的に破壊して人類が殆どいなくなったとき、残った人間たちがどのように振る舞うか、あるいは人類が消滅したあとの地球はどうなるのか。それが続編のテーマになるのであれば、ぜひ観たいと思う。


映画「ひとよ」

2019年11月17日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ひとよ」を観た。
 https://hitoyo-movie.jp/

 親と子は別々の人格である。それぞれに基本的人権がある。だから平等で公平な関係でなければならない。主従関係でもなく、支配と隷従の関係でもないのだ。民主主義が進んでいるヨーロッパでは、親と子が人間同士として対等の関係であるという意識がある程度浸透していて、言うことを聞かないからといって子供に暴力を振るう話はあまり聞かない。
 日本は封建主義の精神性がいまだに残っていて、目上の人間という言い方がある。目上の人間を想定するということは目下の人間というものが大義的な存在として想定されているわけで、明らかに差別的な精神性である。差別は形式や作法、礼儀などといった考え方にも通じていて、例えば上座という考え方があり、床の間に限らず、エレベータの立ち位置や飲食店の席でも上座が存在する。おまけにそれを教えることを商売にしている人間さえもいる。差別を商売にしていることが当然のように受け入れられている日本社会は、社会全体が差別構造になっているのだ。
 子供の口の利き方や表情について「親に向かって何だ」という非難をする親がいる。「親に向かって」という言葉自体が差別だ。「誰に物を言うとるんじゃ」というヤクザの言葉と同じである。自分が上で相手が下という差別だ。「親に向かって」という言葉を使う親は、差別を子供に植え付ける。「親に向かって」という言葉で暴力を受けた子供は、大人になって子供が出来たら、同じように「親に向かって」という言葉で子供を差別し、人権を無視して暴力を振るう。差別の世襲である。

 親が子供に愛情を覚えるのは、飼っている動物を可愛いと思うのと同じである。犬にも猫にも子供にも名前を付ける。名前を付けるとそれに対する愛着が生まれ、愛着している対象との関係性が幸福感を齎す。ものを収集する人の精神構造も同じだ。ゴータマ・ブッダは愛着を、解脱を阻害する煩悩として否定した。

 田中裕子は不思議な女優さんだ。どこまでも人を受け入れる母性のような独特の雰囲気がある。母性というのは無条件の愛情だ。封建的で高圧的で暴力的な父性とは対極にある。父性というのは組織の論理のひとつで、子供が共同体に受け入れられるように従順性を植え付ける。それは同時に個性を殺すことでもある。思春期で主体性が芽生えると父性に反発するようになる。そのときに母親が父親から子供を守らないと、子供は歪んだ性格のまま、父性を継承して封建的な人間になる。
 本作品は田中裕子演じる母親が父性の暴力に対して行動を起こすシーンからはじまる。それに対して差別社会である日本社会がどのような働きをしたかが描かれる。そしてそういう中での兄妹の振る舞いが物語の中心である。母親の行動は是だったのか非だったのか。
 三兄妹はそれぞれにいい演技だったが、特に長男を演じた鈴木亮平がいい。吃音の演技も自然で、父親への憎しみ、家族に抱く愛情、長い間押さえ付けてきたコンプレックスなどがじわっと伝わってくる。生きてくるのが大変だっただろうなと思う。

 本作品のテーマは多岐に亘っていると思う。そのひとつが親と子の関係性についてであり、田中裕子が母親の家族、佐々木蔵之介が父親の家族、それに筒井真理子が娘の家族の3つの家族を描くことで、共同体と家族の関係性と家族間の関係性の対比を描く。
 佐々木蔵之介は少し無理のある設定ではあったが、力業で役にしてしまった。凄い演技力だ。流石である。筒井真理子もベテランらしく、娘と母親の一夜を演じた。
 三者三様の一夜(ひとよ)を描くこと、そして共同体の中の家族を描くことで、日本社会の構造を縮尺してみせた白石監督の名作である。


映画「Terminator Dark Fate」

2019年11月17日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Terminator Dark Fate」を観た。
 http://www.foxmovies-jp.com/terminator/sp/

 ターミネーターが時空を飛び越えていきなり素っ裸で登場する衝撃的なシーンからはや35年。あれほどのインパクトのあるSF映画はその後お目にかかっていない。そしてその後のターミネーター2(T2)は、インパクトとしては第一作に及ばないものの、究極のフレキシビリティをもつ液体金属性のアンドロイドが登場する。このアイデアにも驚いた。1991年だ。
 本作品は28年前のT2以来のジェームズ・キャメロンによる続編である。T2を観ていなくても楽しめるが、観ていたほうがより理解が簡単である。サラ・コナーがグレースに自分のことを説明しようとして笑みを浮かべながらベッドに座るシーンは、説明がとてつもなく長くなる可能性に苦笑いしたということだと思うが、その辺の雰囲気はT2を観ていない人には解りにくいかもしれない。シュワルツェネッガー演じるT-800の有名な台詞「I'll be back」は今回はサラ・コナーが呟き、T-800は「I won't be back」と言う。

 題名には少し違和感がある。英語のままのタイトルにするなら「ダーク・フェイト」でよかったのではないか。Fateは「When you wish upon a star」(「星に願いを」)という有名な歌の歌詞に出て来たのが印象的な単語である。次のような歌詞だ。

Fate is kind
She brings to those who love
The sweet fulfillment of
Their secret longing
運命は優しい
愛し合うふたりの
密めたあこがれを
彼女は成就してくれる

 運命の女神という言葉があるように、欧米では運命は女神が司るとされている。だから歌詞の中でもSheとなる。Dark Fateなら悪い意図を持った腹黒そうな女神のイメージだが、New Fateだとまだ若い女神のイメージである。

 本作品は女性たちが活躍する映画で、今回初登場のダニーやグレースを想定して「ニュー・フェイト」というタイトルにした気もするが、キャメロンはどうやらさらなる続編も考えているようで、だから人類の未来に暗雲が漂っているような「ダーク・フェイト」というタイトルにしたのだと思う。
 第一作とT2と本作品を観ればもうお腹いっぱいだが、数年後に「ダーク・フェイト2」が公開されれば、やっぱり観てしまうんだろうなとも思う。「ターミネーター」はSF映画史の金字塔なのだ。


クラシックコンサート「名曲の花束 ソフィア・ゾリステン&リヤ・ペトロヴァ」

2019年11月13日 | 映画・舞台・コンサート
 Bunkamuraオーチャードホールでクラシックコンサート「名曲の花束 ソフィア・ゾリステン&リヤ・ペトロヴァ」に行ってきた。
 https://www.ints.co.jp/meikyoku2019-11/index.htm
 演奏曲は以下の通り。誰もが知っているか、一度は聞いたことのある馴染みの曲ばかりである。
(前半)
1.J.S.バッハ G線上のアリア
2.ドヴォルザーク ユーモレスク
3.シューベルト 楽興の時~第3番
4.パッへルベル カノン
5.ボッケリーニ メヌエット
6.チャイコフスキー アンダンテ・カンタービレ
7.エルガー 愛のあいさつ(※)
8.マスネ タイスの瞑想曲(※)
9.サラサーテ カルメン幻想曲(※)
(後半)
10.モーツァルト アイネ・クライネ・ナハトムジーク~第1楽章
11.チャイコフスキー 弦楽セレナード~第2楽章「ワルツ」
12.ハイドン セレナード
13.J.S.バッハ 主よ、人の望みの喜びよ
14.J.S.バッハ 幻想曲 BWV.542
15.パガニーニ ラ・カンパネラ(※)
16.シューベルト アヴェ・マリア(※)
17.サラサーテ ツィゴイネルワイゼン(※)
(※)リヤ・ペトロヴァ
(アンコール)
18.赤とんぼ
19.ゴレミノフ 収穫と踊りより「ダンス」
20.ブリテン イタリア風アリア
21.ヤン・ヴァン・デル・ロースト リクディム

リア・ペトロヴァという女性バイオリニストは今回はじめて知った。済んだ音を出す人で、特に高音の技術が素晴らしい。ツィゴイネルワイゼンは流石に圧巻だった。

映画「It Chapter Two」(邦題「イット ジ・エンド それが見えたら終わり」)

2019年11月13日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「It Chapter Two」(邦題「イット ジ・エンド それが見えたら終わり」)を観た。
 http://wwws.warnerbros.co.jp/itthemovie/

 音響と映像で怖がらせるだけの作品で、大人が見るとあまり怖くない。大音響と画面の切り替えだけでは最早怖がらせることはできないと知るべきだ。
 第一作は思春期のいじめられっ子たちがペニーワイズが繰り出す様々な恐怖に打ち勝つ話で、青春群像としてそれなりに見られたが、本作品はその27年後という設定で、つまり主人公たちは略40歳くらいになっている訳だから多少なりとも胆が据わっている筈だし、鈍感にもなっている筈だ。それが子供の頃と同じように怖がるのは無理がある。怖がるのは登場人物たちだけで観客はちっとも怖くない。

 さて子供たちが自分たちをルーザーズ(負け犬たち)と呼んでいたのは自嘲の意味合いも込めたアイロニーだと思う。いじめっ子がいるからいじめられっ子がいる。いじめはコンプレックスと虚栄心の成せるわざであり、いじめがなくならないのは、人間がコンプレックスと虚栄心から自由になれないからだ。
 そんなことは大人になれば大方理解していて、つまらないことで人をいじめたりしなくなる筈だ。ところが本作品の主人公たちは、大人になっても昔のような罵り合いを繰り広げる。ホラーにするためには怖がらない大人だとうまくいかないから、人格的に子供から成長していない設定にしたのかもしれないが、リアリティに欠ける。
 続編だからといって同じホラーのジャンルにしなければならない訳ではない。ペニーワイズが子供にしか見えない設定のままでよかったのではないか。次々と殺される子供たち。集まった主人公たちにはペニーワイズが見えない。さて何ができるか。いいアイデアと上手いプロットがあれば本作品よりもいい作品が出来たと思う。本作品は大人の姿になったが中身は子供のままの主人公たちが第一作と同じように活躍しただけの作品だ。
 せめて冒頭のシーンの暴漢の台詞「これがデリーだ」という同調圧力に満ちた右翼的な言葉の意味くらいは回収してほしかった。


映画「ボーダー 二つの世界」

2019年11月13日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ボーダー 二つの世界」を観た。
 http://border-movie.jp/

 本作品の「ボーダー」という言葉には複数の意味合いがあると思う。ひとつは文字通りの国境という意味で、主人公は税関職員の仕事をしている。もうひとつは隠された意味合いで、主人公は実は二つの世界の狭間に存在している。
 人間にとって言語を理解し使うことは、人間としての尊厳を確立するための最重要な条件である。他人の言葉を理解せず、言葉による表現もできない人間は、場合によっては人間扱いされない。逆に見た目が完全に犬であっても、言葉を話し理解すればその人格が認められる場合がある。携帯電話の某キャリアのCMがいい例だ。
 本作品の主人公ティーナは怪異な見た目ではあるが特別な能力があることで税官吏になれた訳だが、少なくとも言語を理解するから人間扱いされているのであって、もし言葉ができなかったら警察犬並みの扱いであっただろうと考えられる。

 何も説明せずストーリーの上で徐々に真相を明らかにしていく手法は見事で、ミステリーとしては上出来の作品だと思う。ジョン・カーペンター監督の「ゼイリブ」という映画を思い出した。日常的で当たり前に見える光景も、ひとたび仮面を剥がせばその下には異形の存在が隠されているかもしれない。
 映画を観ている間はそれほどに感じなかったが、終わっていろいろ思い返すと、この作品には底しれぬ怖さを感じる。大音響と映像で驚かせるハリウッドのホラー映画とはまったく違った、本物の怖さというか、現実にあってもおかしくない怖さである。結末も真相もすべて観たにもかかわらず、思い出すと怖くなる作品は滅多にない。もしかしたら大変な傑作ではないかという気がする。