三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ブレッドウィナー」

2019年12月31日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ブレッドウィナー」を観た。
 https://child-film.com/breadwinner/

 子供が苦しむ映画を見るたびに、子供を作らなければいいと思ってしまう。それは間違った考えだろうか。
 地球の人口は増え続けている。マルサスの人口論はひとつの極論として有名で、つまり人口は等比級数的に増加するのに対して、食料は等差級数的にしか増加しない。だから必ず食糧危機が訪れる。そこで少子化を進めるために晩婚を奨励するというのが主張のひとつであった。
 第二次世界大戦後の急激な人口増加は人口爆発と呼ばれ、多くの問題を引き起こした。富める国と貧しい国、富める人と貧しい人。富める国の富める人と貧しい国の貧しい人を比べると、その格差は月とスッポンどころではない。かつて日本でもベビーブームがあり、経済成長と相俟って一億総中流などと言われた時代もあったが、小泉改革で日本がぶっ壊れて格差が増大した。
 そして日本では、マルサスの主張を実行するかのように子供を作らない世の中になって、ベビーブーマーが高齢者となったタイミングとピッタリ合って、歴史的に類を見ない超高齢化社会となった。
 やはり共同体のバランスとしては、年齢のグラフが逆ピラミッドではなくピラミッド型のほうが生活レベルを維持しやすいのは確かだ。結婚に対する考え方の変化や、介護の苦難の情報が行き渡ったことで、日本人は子供を作らない傾向になった。共同体にとってはひとつの危機だが、個人にとっては悪いことではない。先進国からそういった傾向にあり、途上国はまだまだ人口爆発の状態である。
 生活必需品やインフラが整っている共同体で子供が減り、インフラも食料さえも不足している共同体で子供が増えているのが世界の不幸な状況だ。

 本作品の舞台アフガニスタンは、まさに不幸の極北のような場所であり、生きることは耐えることに等しい。絶望と虚無主義に陥らないためには、宗教にすがりつく以外にない。しかしそんな苦しい状況でも、自由な心を持つことはできる。タリバンのパラダイムが支配する社会でも、人間の優しさを失わない人たちがいるのだ。本作品はそういう人たちが何を大切にして、どのように希望を持って生きているのかを描く。
 映画の進行に並行して登場人物が語る物語が、千夜一夜物語のようにウィットに富んでいて、底辺に独特のヒューマニズムがあって、この苦しい作品を観ている観客にとっては砂漠のオアシスのように感じられる。そしてその二重構造が作品に奥行きをもたらしている。それは登場人物たちの精神の奥行きでもある。貧しくても心は豊かなのだ。
 アフガニスタンといえば、ペシャワール会の現地代表でもあった中村哲さんが亡くなった国である。多くのアフガニスタン人がその死を悼んだことが報道されている。大統領は棺を担ぎさえした。
 タリバンの宗教警察の弾圧、その組織に威を借りた少年の暴力、そしてその少年も実は死が怖くてたまらないこと、主人公の少女の勇気、母の嘆きと勇気など、数々のテーマが盛り沢山に詰め込まれていて、人類はどこから来てどこに行くのかという壮大な質問さえ心に浮かぶ。
 アフガニスタンはたくさんの不幸に見舞われているにも関わらず人口が増え続けていて、タリバンが支配した1996年には1840万人だったのに現在では3000万人を超えている。貧しい人ほど子沢山の傾向がある。原因は日本の逆だろう。アフガニスタンの子供たちは悲惨な状況に苦しんでいる。日本の子供も苦しんでいる子はいるだろうが、苦しみの質とレベルが違う。下手をすると餓死をしたり地雷で吹き飛ばされたりする日常なのだ。
 何故そんな状況で子供を作るのか。考えてもわからない。それが人類というものだと言えばそれまでかもしれない。しかし坂は登りだけではない。日本が現在進行形で辿っている人口減少の道が世界的な傾向となっていくだろう。そしていつか人類は絶滅する。
 映画はアフガニスタンの一地方都市を舞台にしているが、少女が見上げる空を何機も飛んでいく戦闘機が、人類を蔽う暗雲を示している。想像力は現在過去未来の三世の時空間にどこまでも広がる、美しくも壮大な作品である。


映画「L'homme fidele」(邦題「パリの恋人たち」)

2019年12月30日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「L'homme fidele」(邦題「パリの恋人たち」)を観た。
 http://senlis.co.jp/parikoi/

 浮気に関する感じ方は、日本人とフランス人とで大きく異なるようだ。倫理観の違いである。倫理観は、人間はどうあるべきかを考えるものであるより前に、人間とはどういうものかを考えるものである。
 フランスの倫理観には、人間はこういうものだという世界観があるが、日本の倫理観にはそれが欠けているように思える。人間はこうあるべきだという一方的な考え方が支配的で、ドラマなどでよく耳にする「浮気するほうが悪いんでしょ」という台詞に代表されるように、浮気がすなわち悪であると考えられている。
 日本の法律には浮気に対する刑事罰はない。歴史的に権力者は多くの愛人、妾、側室などを囲っていて、法律で罰則を設けてしまうといの一番に権力者を罰することになる。そういう経緯から、刑法に浮気に関する条文を入れるのは難しいと判断されたのだと思う。しかし世界の国の中には浮気に対する刑事罰を定めているところもある。イスラム圏などはとくにそうだ。逆に売春が合法の国となると欧米の殆どがそうかもしれない。
 人間の本能は他の動物とあまり変わらず、オスはなるべく沢山のメスに種付けしたいし、メスは優秀なオスの遺伝子を欲しがる。生命が自己複製のシステムである限り、生殖についての生物の振る舞いは変わらないだろう。

 さて本作品は、同居している恋人マリアンヌからの衝撃的な告白でスタートする。しかし哲学の国フランスらしく、主人公アベルは告白を客観的に冷静に受け止める。このあたりの淡々としたところがフランス映画らしくてとてもいい。アベルは弱気で人の言うことをすぐに信じて、願いを聞いてしまう。だから原題は「L'homme fidele(忠実な男)」だ。名前しか登場しないポールも同じような人間だったと推測できる。
 一方で女性は逞しい。マリアンヌもポールの妹エヴも仕事をしていてちゃんと収入があり、誰とでも対等に接することができる。その辺りも、アベルが翻弄される一因になっているのだろう。
 本作品の第二の主人公とも言うべきジョゼフはマリアンヌの息子で、母に似て人との駆け引きに長けていて、主人公とエヴを振り回す。ジョゼフは物語のトリックスターであり、話を前にすすめる狂言回しでもある。子供にその役をやらせたところが非常に面白い。そしてジョゼフもまた、ポールとアベルの間で揺れ動いていたことが最後に知れる。
 監督主演のルイ・ガレルの演技もよかったが、マリアンヌを演じたレティシア・カスタの演技は特によかった。パリで生きる女のしたたかさが出ていると同時に大人の女の妖艶さも存分に表現していた。ジョニーデップの娘はそれなりだったが、ジョゼフを演じたジョゼフ・エンゲルが素晴らしい。子供は情報の吸収がとても速くて、大人が気づかないうちに成長している。
 日本のドラマでは決してありえない展開が続き、いろいろなことが不明のまま、あれよあれよという間にエンディングだが、ラブコメディとしては秀逸だと思う。登場人物は精神的に自由で、パラダイムに縛られている日本人よりもずっと幸せそうに見えた。


映画「この世界のさらにいくつもの片隅に」

2019年12月23日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「この世界のさらにいくつもの片隅に」を観た。
 https://ikutsumono-katasumini.jp/

 2016年の「この世界の片隅に」を観てから、もう3年になるのかという感慨がある。2018年にTBSのテレビドラマが松本穂香主演で放送され、そちらも全部見た。そのドラマのインタビューで北條周作の母を演じる伊藤蘭が「すずさんという大役を」という言い方をしていたのが印象に残っている。この作品に対する伊藤蘭の尊敬の念が感じられて、大変に好感を持った。彼女の言う通り、北條すずは大役なのだ。
 3年の月日が経っても、最初の子供時代のシーンからラストシーンまで、3年前と同じように食い入るように観続けることが出来た。名作は何度観ても名作だ。飽きることがない。ひとつひとつの場面が繊細で意味深く作られていて、3年前とは違う感慨がある。次に観たらまた違う感慨があるのだろう。そしてまた観たいと思う。
 
本作品は反戦の映画である。従って戦争をしたい現政権に対しては、反体制の映画ということになる。前作品も同様だ。あれから3年。この3年に日本は戦争をしない国になっただろうか。残念ながらそうなっていない。むしろ戦争ができる国にしようという勢力が勢いを増したように思う。安倍政権はこの3年間に何をしたのか。

 森友学園の問題が起きたが、安倍晋三は何も説明しないままいつの間にか誰も話題にしなくなった。そして自民党総裁の3選が可能になり、辺野古の工事が開始された。加計学園問題が発覚したが、森友学園と同じく安倍晋三は何も説明しないまま、いつの間にか誰も話題にしなくなった。共謀罪法が成立した。伊藤詩織さんが、強姦事件で逮捕状が出された山口敬之が逮捕されなかったことを明らかにした。国連で核兵器禁止条約が採択されたが、安倍政権は参加しなかった。そしてイージス・アショア2機の購入を決定した。また「重要なベースロード電源」という意味不明な言葉で原発の再稼働を決定した。杉田水脈衆院議員が「LGBTは生産性がない」と発言した。翁長県知事が亡くなり、同じく辺野古反対の玉城デニーが知事に当選した。その後辺野古埋め立てに関する県民投票が行われ、埋め立て反対が72%を占めたが、安倍政権による埋め立てはいま(2019年12月)も続いている。慰安婦像を展示したあいちトリエンナーレの「表現の不自由展」が中止され、補助金が不交付となった。その後再開されると、名古屋の河村市長が再会反対の座り込みの講義を行なった。桜を見る会の疑惑が浮上したが、安倍政権はすべての証拠を既に廃棄したとして提出を拒否、予算委員会の開会も拒否した。予算委員会は一問一答で野党からの追求が厳しい。本会議なら一方的に述べるだけだから、安倍晋三は本会議で桜を見る会の私物化を否定した。首里城が火災で消失した。

 社会はますます不寛容になり、あおり運転が多発していて、京アニには火が着けらた。国民全体が不満を持ち、怒りの矛先を探しているようだ。一方でラグビーの日本チームの活躍にナショナリズムが高揚し、日本中が沸き立った。この状況はもはや戦争の一歩手前であることに気づいている人は少ない。ガンバレニッポンは他国の不幸を祈るのと同義なのだ。
 寛容は不寛容に弱い。寛容は平和主義だが、不寛容は暴力主義、そして戦争主義だ。不寛容の暴力に対抗するために寛容が取りうる手段は非暴力、不服従しかない。それはガンジーの専売特許ではない。聖書に「悪人に手向かうな。もし誰かがあなたの右の頬を打つなら、他の頰をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい」(マタイによる福音書)と書かれている。
 しかし人類には寛容を継続する覚悟がない。つまりは、戦争をしない覚悟がないということだ。これからも無垢の子供が殺されるだろうし、あおり運転が殺人に発展する事件も多発するだろう。他人の不幸を祈るのが人間だとすれば、それはあまりにも悲しい事実だ。悲しくて悲しくてとてもやりきれないと歌いたいのはコトリンゴだけではない。我々はそういう時代に生きているのだ。いや、歴史的にずっとそういう時代だった。
 国家が自国だけの存続と繁栄を望めば必ず戦争になる。そして人間は共同体のための消耗品に過ぎなくなってしまう。その中で人を憎まず正気を保って生きたのが北條すずである。寛容であり続ける覚悟を持っていた女性だ。確かに大役である。
 この作品を観て、戦時下の庶民はこんな風に生きていたのだということを知ってほしい。そして苦労して生きていたのは日本人だけではなく、戦争をしたすべての国家の庶民も同じように苦しんでいたことを想像してほしい。戦争で苦しむのは必ず弱者なのだ。
 最近は世相を反映して、反戦の映画が多く上映されている。マスコミが権力に忖度して特定秘密保護法や安保法制、集団的自衛権の行使容認がどれほど危険なことであるかを全く報じないため、映画人が映画によって表現するしかなくなったのだ。危機感を感じているに違いない。それらの作品を観た人々が戦争をしないためには寛容でなければならないことに気づくようになれば、表現の自由がはじめて力を持ったことになる。しかし果たしてそんな日が来るだろうか。


映画「再会の夏」

2019年12月22日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「再会の夏」を観た。
 http://saikai-natsu.com/

 最初に犬が登場する。かなり大きな犬である。噛まれたら相当なダメージを食らいそうだ。それが最初の印象だったが、実はこの印象がそのまま物語の重要な鍵になる。
 第一次大戦はヨーロッパが主戦場で、ドイツの東西に東部戦線と西部戦線があり、「西部戦線異状なし」は、小説も、それを原作とする映画もあまりにも有名だ。第二次大戦と比較して武器はまだどちらかといえば原始的で、銃剣による肉弾戦が主体だった。自分の手で敵を刺し殺すのは生々しい実感がある筈だ。
 第一次大戦の当時は、フランス革命から130年ほど経っていても、まだ自由と平等と友愛の世の中は訪れておらず、個人の人権よりも共同体を優先させるのが世の中のパラダイムであった。戦争であまりにもたくさんの犠牲者を出したことから、合衆国大統領ウィルソンが提唱した国際連盟が設立され、第二次大戦後には国際連合となったが、加盟が国家単位である以上、共同体を優先させるパラダイムの範疇から出ることはなく、つまり個人の人権よりも共同体の利益と存続が優先されるのは変わらなかった。国際連盟も国際連合も共同体同士の約束である以上、戦争を防ぐことは出来なかったし、これからも出来ない。

 本作品に登場する戦争の英雄ジャック・モルラックが愛国心という言葉を否定するのは、それが共同体のパラダイムであり、戦争の根源になっていることをわかっているからだ。非常に論理的であるが、世の人々には愛国心が戦争を後押ししていることがわからない。愛国心は平和の敵なのだ。
 主人公ランティエ少佐は寛容の人である。人が個人として尊重されなければならないことを知っている。モルラックは戦争の英雄とは残酷な人殺しに過ぎないことを暗に主張し、少佐はそれを理解する。兵士は犬だ。勲章は人間よりも犬に相応しい。
 愛国心が共同体のパラダイムである限りは、戦争はなくならない。ガンバレニッポンという気持ちは、戦争に直結する危険な情緒なのだ。日本人が日本を応援して何が悪い、と思う人は、応援しない人を非国民として弾圧する人に等しい。
 いつしか寛容が共同体のパラダイムになる日が来るかもしれない。そのためには人はコンプレックスや虚栄心や自尊心を捨て去らなければならない。そのことは2500年前にゴータマ・ブッダが説いているが、未だに実現していない。おそらく人類が平和な世の中を実現することは不可能なのだろう。
 しかし人類は人類、個人は個人だ。モルラックが共同体への絶望と怒りを一旦横において、個人としての優しさを獲得することができると、ランティエ少佐にはわかっていたようだ。哲学的な作品だが、淡々とした優しさに満ちた傑作である。


映画「ハルカの陶」

2019年12月22日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ハルカの陶」を観た。
 http://harukano-sue.com/

 ナレーションの奈緒の声がいい。落ち着いて柔らかく響く声だ。いつまでも聞いていられる。こういう声の持ち主は時々いて、女優の朝倉あきもそうだ。聞き心地がいいというのだろうか、内容がすっと入ってくる。逆に聞き心地の悪い声の人もいて、気の毒になるくらい内容が伝わってこない。声は天性だからどうしようもないところもあるが、ものまね芸人のいろいろな声を聞くと、もしかしたらある程度はコントロールできるのかもしれない。そういう風に考えると、奈緒のナレーションは上手に制御されていた気がする。女優さんとしての大きな可能性を感じた。

 焼物についてはひと通りの勉強をしたことがある。青山の骨董通りには随分通った。焼物の焼き方には酸化焼成と還元焼成があり、酸素を送り込んで焼くのが酸化焼成、還元焼成は蓋を閉じて不完全燃焼の状態で焼く。温度が上がりやすいのは還元焼成で、固く焼き締める磁気は必ず還元焼成で焼く。陶器はたいてい酸化焼成だが、作品中の焼成過程を見ると、備前焼はどうやら還元焼成で焼くようだ。
 還元焼成は高温で焼き締めるから、出来上がった製品は液体を通さない。備前焼は日常的に使うための陶器で、粘土に混ざっている金属によっては遠赤外線効果があったり、ビールを美味しくしたりするらしい。用の器としての面目躍如である。

 奈緒が演じた主人公はるかが備前焼に魅せられたのは、それが人の生活を豊かにするからだ。仕事は人から感謝されるから頑張れる。感謝は直接でなくてもいい。その器を使った人が気分がよかったり満足してくれれば、それが感謝だ。作り手は使う人の気持ちを思いながら土を練り、形を整え、焼成する。
 焼物の難しさは半端ではなく、素人が簡単にできるものではない。人が喜んでくれるものを作るには相当の苦労を覚悟しなければならない。その覚悟が試されるはるかだが、覚悟はいっときの気負いではなく、持続する志だ。やめないこと、継続すること、諦めないこと。それを覚悟という。
 はるかの覚悟と感謝の気持ち、生活の豊かさとは何かという素朴な問いかけが作品全体を包む雰囲気となっていて、そこに奈緒の優しい声が重なり、温かい気持ちで鑑賞できる。余計なシーンは一切ない。言葉を削ぎ落とした俳句のような趣のある作品である。とても癒やされた。


映画「私のちいさなお葬式」

2019年12月22日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「私のちいさなお葬式」を観た。
 https://osoushiki.espace-sarou.com/

 ロシアのインテリおばあちゃんの終活物語である。ソ連からロシアに変わって、商売が自由になって儲ける人たちも出てきたが、社会保障はかなり後退したと聞く。ソ連時代はリタイアした年寄は年金だけでも悠々自適だったのが、ロシアになって生活がギリギリになってしまったらしい。ロシアになって生まれた格差は着実に大きくなっており、若者は不満を抱え、年寄は不安に苛まれる。そして社会の裏側では新興のマフィアが政権に貢いでいる。
 本作品のおばあちゃんは年金で裕福に暮らしているように見えるが、ロシア映画だけに検閲を受けている可能性は捨てきれない。実際はもっとずっと貧しい筈だ。心臓の不調でいつ死んでもおかしくないと医者から宣告された設定だが、本当は生活苦で自殺したいのがおばあちゃんの本音かもしれない。本作品からは、描きたいことがあるのに描けないもどかしさのようなものを感じる。
 ロシアの現状はさておき、死がテーマの筈の映画なのに、死に直面したり死を深く論じたりする場面は殆どなく、死は鯉に任せて、人間は専ら金の計算である。ロシア人は金の計算が殊の外好きなようで、ドストエフスキーの「白痴」にも将来の生活費を計算する場面が出てくる。
 本作品のおばあちゃんは自分の葬式と後始末の費用を計算し、息子の世話にならなくて済むようにあちこち奔走する。その姿はどこか物悲しい。息子は息子で、人生の真実よりも金儲けが大事だという演説をする。かつての彼女は浮浪者になって道端で金の無心だ。
 現在のロシア人が抱えている不安と恐怖が凝縮されたような作品で、生活の温かみを喪失してしまったような雰囲気が映画全体を包んでいる。冷戦構造の崩壊、ベルリンの壁の崩壊は歴史的には価値のある出来事であったが、ソ連を始めとする東側諸国の人々にとってはそれほどいい出来事ではなかったようだ。プーチンの牛耳る政治の末端には顫えながら死んでいく人がたくさんいるのだろう。


映画「カツベン!」

2019年12月17日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「カツベン!」を観た。
 https://www.katsuben.jp/

 収穫がふたつある。成田凌が結構声の出る俳優だと分かったのがひとつ。もうひとつは、活動弁士が語る映画はサイレントでもなくトーキーでもない独自のジャンルとして確立されていたということだ。
 周防監督の凝り方は相当なもので、弁士が語るサイレントの映像もちゃんとオリジナルで作っている。当然と言えば当然かもしれないが、草刈民代や上白石萌音を使ったサイレント映像は贅沢だし、それに気づいたときはとても得をした気分になった。
 本作品は日本における映画の草創期はこのようであったに違いないと思わせるシーンから始まる。活動写真と呼ばれていたその頃には、庶民の娯楽として定着していたと想像され、人気の活動弁士は子供たちの憧れの対象でもあった。

 西條八十作詞の「東京行進曲」に次の一節がある。

シネマ見ましょかお茶飲みましょか
いっそ小田急で逃げましょか
変わる新宿あの武蔵野の
月もデパートの屋根に出る

 1929年(昭和4年)の歌である。当時の東京の庶民が喫茶店でコーヒーを飲むのと同じくらいの気軽さで映画を観ていたことがよくわかる。
 活動写真がトーキーとなり、映画と呼ばれ、シネマと親しまれるのはこの頃からだ。残念ながら活動弁士の活躍の場は減少し、転職を余儀なくされるが、その話芸は講談などに受け継がれることになる。
 本作品を観ると、活動弁士のパフォーマンスが優れた話芸として非常に面白いものであることがわかる。単純な映像でも彼らの話芸によって傑作になり、悲劇にもなり喜劇にもなるところが秀逸で、周防監督の思い入れが伝わって来るようだ。ストーリーはドタバタだが、観ていてとても楽しかった。

 
 

映画「Life itself」

2019年12月15日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Life itself」を観た。
 https://life-itself.jp/

 人生は条件と偶然によって成り立つ。本作品は偶然が紡ぎ出す運命を、ふたつの家族のシーンによって上手に描いてみせた。

 人は時に思い切った行動に出る。そして大抵の場合、後悔する。或いは行動しなかったことに後悔する。人生は選択の連続であり、タラレバを考えることは時間の無駄だとわかっていても、人は違った選択をしていた場合を考え、後悔する。
 人と人とは決して分かり合えることはない。他人に理解してもらえると思うのは甘えだ。そして他人を理解できると考えるのは思い上がりである。たとえ精神科医であっても、鬱病患者を理解できる訳ではない。彼らにできることは薬を処方することだけだ。そもそも人体について医学が解っていることは1パーセントにも満たないというのは、他ならぬ医学界の常識である。ましてや他人の頭の中だ。理解できないのが当然だ。
 規則を押し付けようとするセラピスト。自分の居心地の悪さと傷つけられたプライドを家族のためという大義名分で覆い隠す夫。夫の真意を理解できない妻。親の喪失を消化できずに自棄的な行動に走ってしまう娘。自身の不幸な生い立ちを克服して慈悲と寛容さを得た経営者。 
 本作品の登場人物は典型的な人格ばかりである。物語はわかりやすく、無関係だった筈のそれぞれの人生がいつしか絡み合い、新しい人生を生み出す。人間ドラマとしてとてもよく出来ている。
 見ていて苦しいシーンが多いが、それぞれの苦しさがひとつにまとまるラストシーンでは、そこはかとない感動が押し寄せる。人生は語ることが出来ない。語ることができるのは人生そのものだけなのだという哲学は必ずしも肯定できるものではないが、作品としての世界観はすばらしい。人はかくも悲しく生きるものなのだという幸福な感慨があった。


映画「読まれなかった小説」

2019年12月15日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「読まれなかった小説」を観た。
 http://www.bitters.co.jp/shousetsu/

 大学を卒業したばかりの主人公シナンは、まだ若くて一貫性がない。若者らしく既存の価値観を否定するのはいいのだが、その一方で父親を非難する拠り所は既存の価値観だ。
 人間は元々整合性に欠ける存在である。理想を言えば言うほど、そしてその理想が高ければ高いほど、整合性は損なわれる。理想と現実が一致することは決してあり得ず、ふたつの乖離はひとりの人間の存在に現れる。
 主人公はそこのところが理解できておらず、父親を非難し、母親を傷つける。職業作家のスレイマンが主人公の矛盾を鋭く指摘すると、今度は相手の人格攻撃をはじめる。更にそれを指摘されると、そんなつもりではないと誤魔化す。
 実に感情移入しにくい主人公であり、観客として戸惑うところである。シナンが議論を吹きかける相手は世代的に上の人間たちだ。大学を出ても恵まれない自分の身の上から、社会に対して敵愾心を持つのである。中島みゆきの「世情」という歌を思い出した。歌詞に次の一節がある。

シュプレヒコールの波通り過ぎてゆく
変わらない夢を流れに求めて
時の流れを止めて変わらない夢を
見たがる者たちと闘うため

 中島みゆきらしく不思議にわかりにくい歌詞だが、保守と革新のせめぎ合いの中に人間の哀れな本質を嘆いている歌詞だと思う。つまり世の中の支配層は自分たちの支配が続いて不自由のない生活が続くことを願い、被支配層は世の中が変わって貧しい生活から脱却出来ることを願う。そのために支配層である権力者と闘うのだ。生活の維持向上を願っている点はどちらも同じである。
 富の公平な分配は凡そ実現困難で、たとえ共産主義の国になろうとも、分配を司る者と分配を受ける者たちとの間で否応なしに格差が生まれる。それはロシアを見ても中国を見ても明らかだ。そして権力者による公平な分配は安定と画一を生み、社会を停滞させる。格差はダイナミズムであり、社会や文明が発展する力になる。人間は本質的に格差が好きなのだ。中国経済は富の分配を縮小した途端に飛躍的に成長した。
 格差は否応なしに存在する。スポーツに熱狂する人は格差を愛する人である。スポーツに限らず、優劣を決めるのは格の違いを決めることだ。勝負の世界に平等はない。
 格差をなくして自由平等な世界を作ろうとするシュプレヒコールの波は、必ず壁に突き当たって挫折する。格差を認めて自分だけ上の方に這い上がろうとするのが人間の悲しい性であるからだ。格差を乗り越えて巨万の富を得る者が出現することがあり、アメリカン・ドリームと呼ばれる。日本語で言えば単なる成金だ。

 本作品はトルコ経済の厳しい現状の中で、人々が何を悩み、何を求めているのかを切実に描き出す。就職の狭き門、無為で無益な兵役、朝食の小遣いにも不自由する年配者、ギャンブルにしか楽しみを見いだせない文化度の低い社会、そしてイスラム教。
 政治にも宗教にも救われない苦しい生活の中で、それでも人々は日々の生活に小さな喜びを見出しながら生きていく。井戸を掘って水が出れば農家が楽になるという父の夢は、冷めた息子にどのように映っていたのか。

 延々と会話の続く作品だが、登場人物それぞれに知識や考え方が偏っている上に学者のようなニュートラルな議論ができないから、会話に未来はない。でこぼこ道に水たまりが残るような、そんな会話ばかりだ。それは主人公の自省の欠如に由来する。その傲岸不遜な性格はさておき、主人公の言葉の端々には家族に対する思いやりや優しさ、感謝の気持ちが微かに感じられる。特にラストシーンだ。そのあたりが本作品の救いだと思う。


どうして中村哲が殺されなければならなかったのか

2019年12月04日 | 映画・舞台・コンサート
 国境なき医師団の中村哲が撃たれて死んだ。
 国内で有名なボランティアの尾畠さんと同じように、善意しかない人だった。もし尾畠さんが撃たれて死んだら、我々はどのように感じるだろうか。世の中にそんなひどいことをする人がいるのかと愕然とするだろう。
 中村哲が撃たれて死ななければならない理由など、この世に存在しない。にもかかわらず、彼は撃たれて死んだ。世界が彼を殺したのだ。この世の善意を我々が支えきれていないから、彼は撃たれてしまった。
 中村哲が撃たれて死ぬ世の中は、優しさに欠ける不寛容な世の中だ。愛くるしい子猫が惨たらしく殺されるのを黙ってみている世の中だ。生れたばかりの子供が爆弾で殺される世の中だ。ねじれた脚と乾いた涙だけが残る世の中だ。谷川俊太郎でなくても、中村哲が殺される世の中がどれほど酷い世の中であるかは解る。
 我々は我々自身に問わなければならない。どうして中村哲が殺されなければならなかったのか。