三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

予想上手の馬券下手~ジャパンカップ結果

2006年11月26日 | 競馬
「予想上手の馬券下手」とは井崎脩五郎さんの名言ですが、私の場合もずばり当てはまりまして、今回のジャパンカップなどその最たるものとなってしまいました。
 予想は、コスモバルクが逃げてスローペース、直線のヨーイドン、レースの上がり34秒代前半、勝ち馬の上がりは34秒を切る、というところまではほぼ完璧な予想で、勝ちタイムが予想より2秒も遅かったこと、ドリームパスポートの方がディープインパクトよりも前で競馬をしたことの2点が違っていました。
 直線あと100メートルというところでディープインパクトが先頭に立ち、そこへドリームパスポートが襲い掛かるという展開と予想していましたが、実際はその逆でした。スケベ根性を出して「うまくするとドリームパスポート1着、ディープが2着なんてことになるかもしれません」なんて思ってしまったために、折角2頭に絞ったのに馬連の1点買いではなくて、馬単の往復を勝ってしまいました。
 直線のヨーイドンのレースになるなら、瞬発力でディープインパクトにかなう馬はいないわけですから、ディープからの馬単1点買いか、せめて馬連の1点買いでなければなりません。詰めが甘いと言いますか、パチンコで言うなら、大当たりを出しても慣れている人といない人では出玉の数が違うようなもので、競馬の場合はパチンコの場合の差どころではなく、倍近い差となってしまいました。ドシロウトと非難されても仕方のない買い方でした。

買うべきだった馬券
   6→7の馬単1点6万円 ⇒ 払い戻し 516,000円
 又は6-7の馬連1点6万円 ⇒ 払い戻し 450,000円

実際に買った馬券
   6→7の馬単  3万円 ⇒ 払い戻し 258,000円
   7→6の馬単  3万円 ⇒ ハズレ

 となってしまいまして、20万円ほど損した気分です。本当に悔しい。特に私の場合は、滅多に馬券が当たらないので、当ったときにどれだけプラスにできるかがポイントなのに、この体たらくではどうしようもありません。
 どうしようもないと言いつつも、気分はすでに来週の競馬に飛んでいまして、ステイヤーズステークスはメルボルンカップでデルタブルースと少差のポップロックと過去いい勝負をしているアイポッパーでほぼ間違いないだろう、などと考えています。ジャパンカップのあとは有馬記念と思っていますが、この調子だと来週も馬券を買わずにいられないんでしょうね。
 何故馬券を買うか?「そこに競馬があるからだ」とうまいことを仰る人もいました。ではまた来週。


ジャパンカップ馬券

2006年11月25日 | 競馬
 今年もまたジャパンカップの季節となりました。このレースが終わると忙しい年末商戦に突入、忙しい中で有馬記念の馬券だけはしっかりと買い、終わりよければすべてよしなどと言いながらお正月の準備をするというまことに慌しい時期のはじまりです。

 今年のジャパンカップは珍しく少頭数で、ジャパンカップにありがちなテンからガンガン飛ばして、最後は消耗戦になるようなレースにはなりそうもなく、案外スローペースで直線のヨーイドンになるような気がします。天気予報は夜になってから雨が降ると言っていまして、馬場の悪化はどうやらなさそうなので、このレースは瞬発力レースになると踏みました。価値タイムは2分23秒台で、上がり3ハロンは34秒代前半。勝ち馬は34秒を切るくらいの上がりでしょう。
 それを踏まえたうえで、例によって消去法で消していきます。

ユキノサンロイヤルとトーセンシャナオーは前走で負けすぎの感あり。巻き返しは厳しそう。
スウィフトカレントは夏から4戦していて、天皇賞が目一杯でこれ以上の上がり目はなさそう。
フサイチパンドラは秋3戦してこれが4戦目の3歳牝馬でやっぱり見劣り。
コスモバルクはちょっと距離が長そうな気がします。
フリードニアは成績を見る限り少し格下。
ハーツクライは去年の天皇賞もそうだけど、間が空きすぎているのがゴール前で影響しそう。
メイショウサムソンは切れ味に欠けるし、対ドリームパスポートで2連敗。
ウィジャボードは去年来てまして、それ以上は?

 ということで、なんとほとんどの馬が消えてしまって、残るはディープインパクトとドリームパスポートのただ2頭のみ。
 従って馬券はこの2頭の馬単往復の2点買いということになります。果たしてそれでいいのでしょうか。
 展開的にはおそらくコスモバルクが逃げて、ハーツクライ、メイショウサムソンが2番手3番手を追いかける形、ディープインパクトはおそらく7、8番手くらい、ドリームパスポートは後方または最後方からレースを進めることになるでしょう。キングジョージのレースを見る限り、ハーツクライがやや早めに仕掛けそうで、それにメイショウも続いて、その他の馬もムチを入れる中、外からディープインパクトとドリームパスポートが突っ込んできそうです。粘るハーツクライ、メイショウサムソンを直線あと100メートルというところでかわしてディープインパクトが先頭に立ち、そこへドリームパスポートが襲い掛かるという展開。うまくするとドリームパスポート1着、ディープが2着なんてことになるかもしれません。別の展開は2頭の差しが不発で、ハーツクライとメイショウサムソンでそのまま決まってしまう展開。いやあ、武豊だもの、それはないでしょう。少なくとも1度はディープを先頭に立たせるに違いありません。というわけで馬単を3万円ずつ買います。


いじめる側に回らないで

2006年11月25日 | 政治・社会・会社

 長い間自分が対人恐怖症であるなどとは考えもしなかったのですが、このところフツーじゃない神経の持ち主を相手に仕事をしていまして、それがたまたまワンマン社長で誰も逆らわないものですからどんな理不尽でもまかり通っていて本人もそれが当たり前になって、思い通りにならないと怒り狂います。その怒りのはけ口に社員を殴るので、もちろん私も例外ではなくそのおかげで対人恐怖症みたいに他人を恐れるようなところが出てきました。精神科に行って相談してみようかと本気で悩んでいます。アメリカでは精神科医のカウンセリングを受けるのはわりと一般的のようで、30年以上前のエリカジョングの小説『飛ぶのが怖い』にもそんな感じで紹介されていました。しかし日本ではまだそれほど普及していない気がします。「精神病院」という言葉の響きそのものがなんとなく悪いもののように感じる響きを持っていて、現代人は多かれ少なかれ精神的な欠陥を抱えているから精神科を受診するのはおかしなことではないと、いくら先入観を捨てたつもりでも、やはり自分が精神科にかかるとなるとどうしても他人の目が気になって「頭がおかしくなったらしい」とか「やっぱりビョーキだったんだ、そうじゃないかと思ってた」とか、そんなふうに思われるんじゃないかと考えてしまいます。被害妄想でしょうか。

 しかしこれからはそんなことも言っていられない時代が来るような気がします。いじめ自殺が毎日のように報道されていますし、安倍政権でこれからもっと不況になるでしょうから、行き場のない不安と不満を抱えた人がどんどん増えていって、そういう人はいじめに走るでしょう。構造的な問題なんです。
 同時に人間の特性の問題でもあります。このブログで何度も書きましたが、人間は他者との係りの中でしか、生の充実を得られない不幸な生き物なので、取るに足りないごく僅かな優越感や自尊心にすがりついて生きています。その中で想像力がなく他者への思いやりの心を持たない人間は、優越感の対象に対して自らの優越を確認せずにいられなくなります。それがすなわちいじめでありパワーハラスメントです。ホッブズではありませんが、万人が万人に対していじめを行なう可能性を持っています。意識的であると無意識であるとを問わなければ、さらに可能性は増大するでしょう。従っていじめやパワーハラスメントをなくす手段は、ないといっていい。

 ただ、小泉~安倍政権によって格差がよりいっそう鮮明化したことが原因で、いじめが過激な先鋭的なものとなり、その激しさのあまり受けた側が自殺にまで至ってしまうことが現代のいじめ問題の焦点のようです。いじめは人間の本来的行動であり、格差は歴史的に必ず存在するものである以上、いじめという行動をなくすことは出来ないが、犯罪に相当するような激しいいじめ、あるいは長期にわたる執拗ないじめは、社会の構造を変化させること、つまり政治によって減少させることができるのではないかというのがいまの議論です。
 そしてご承知のように、現実は議論とはまったく離れて、教育基本法の強行採決へと進んでおり、しかもこのことといじめ問題の解決のつながりについて、何の説明もなされておりません。安倍ちゃんがこのまま突っ走ると、

   教育勅語の復活

   徴兵制の復活
  
   自衛隊の呼称変更で陸軍、海軍、空軍の復活

   特殊部隊、情報局、諜報機関の存在の表面化

   憲法改正による治安維持法の復活、

   核兵器の開発、保持

   軍事政権の誕生

   戦争の頻発

   召集令状

   家族友人の死

   東京大空襲

   南京大虐殺

   欲しがりません勝つまでは

 という具合になりそうだと、たいていの国民は思っていて、いまの中学生、高校生達も情報処理には堪能ですから、同じように危惧しているでしょう。嫌な世の中になりそうだな、と。そこで現実に生きているいまを振り返って、それが楽しい場所ならもう少し生きていてもいいかもしれないと思いますが、楽しくない場所で、未来も間違いなく楽しくないなら、何が嬉しくて毎日いじめられることに耐え続けるでしょうか? もちろん誰もが自殺しますよね。いじめ自殺が増加しているのは案外単純な理由なんです。日本に明日がないからなのです。

 ところで、いじめに関して中学生が作文を書きました、という設定で7月6日付のブログに作文を載せました。いじめられる人といじめられない人の違いについて書いてみました。簡単に言うと、性格の問題です。大学で習った簡単な心理学では、人の性格を九つに分類します。

   気質として、分裂質、躁鬱質、癲癇質

   気性として、強気、弱気、中気

 この組み合わせで9通りの性格に分類できることになります。気質は遺伝によって決まる先天的なもので、気性は生後数年で決まる後天的なものです。この中でいじめられるのは、弱気な気性の人です。実は文明が発達すればするほど弱気な人が増加していきまして、人間の知性の発達と弱気な人の割合が比例するように増えているんですね。つまり弱気な人というのは知性的な人ということです。

   強気(超強気含む)=動物的、感情的、好戦的

   弱気(超弱気含む)=知性的、理性的、平和的

 という図式になっております。当然のことながら、弱気は強気に勝てません。だから私は超強気のワンマン社長の言いなりになって働かざるを得ない現状なんですね。ホント、死にたいって、ときどき思います。だから精神科医のカウンセリングでも受けたくなるんですね。近頃は「ウツは医師に相談しましょう」なんてテレビコマーシャルが流れていますし、以前に比べれば抵抗なく受診できる時代かもしれません。しかしいざ受診しても、実際のところはたいしたカウンセリングなど出来ないで、ただ抗鬱剤を処方するだけなんじゃないかなと思っています。それが、どうしても二の足を踏んでしまう理由ですね。

 いじめに負けない方法はただひとつ、いじめられる側がいじめられていると思わないこと。それはどういうことかというと、前にも書きましたが、恐怖心を取り除くことです。いじめられるのが怖いからいじめられるわけで、いじめられるのが怖くない人はいじめられません。いじめることは相手の恐怖心を刺激することですから、恐怖心のない人をいじめることは出来ないのです。であるならば、人間から恐怖心を取り除けばいじめがなくなるということになります。しかし人間から恐怖心を取り除くことはとりもなおさず強気または超強気の人間ばかりになるということでして、誰もが動物的、感情的、好戦的である世の中になります。至るところで争いが絶えない世の中になるでしょう。実はそれは人類が一度経験したことなのです。

 原始時代。かつての人類は皆が強気で動物的で感情むき出しで好戦的でした。文字通りホッブズの言う「万人の万人に対する戦い」の時代だったのです。それから知性が発達して、文明が発達して、弱気な人が増えて、そして少しは平和になったんですね。弱気な人は強気な人に勝てませんから、世の中を支配するのは強気な人、動物的で感情的で好戦的な人です。そういう人が人の上に立つ。そしていじめる。いじめられる人がいじめられなくなるには性格を改造して超強気の性格になることですが、そうなるとこれまでいじめられていたその人が今度はいじめる側に回ってしまいます。どこまでも救いようのない図式になっているんですね、これが。

 私の場合は、いじめる人、つまり人に恐怖をもたらして喜ぶ人というのは、100%、人間のクズだと思っています。人を怒鳴りつけたり脅したり殴ったり嫌がらせをしたりする人たちですね。だから絶対にそちらの側に回りたくありません。恐怖心は知性と平和の証として人間が持つべき感情だと思っています。仏教では恐怖心を取り除けば平安がもたらされ、悟りに至ることができると教えますが、それは同時にあらゆる煩悩を取り除くことが条件となっています。恐怖心と共に欲望も取り除く。そうすれば人をいじめることもいじめられることもなく、澄んで晴れ渡った清々しい人生を送ることが出来るでしょうけれども、それが出来るのは百億人に一人くらいの割合だと思います。キリスト教では、自分を貶め怒鳴りつけ脅し殴り迫害する者のために祈れ、と教えます。それが出来るのは一千億人にひとりくらいでしょう。

 死んではいけない、自殺してはいけないと、何の論拠も示すことなくお題目のように唱えるバカどもは放っておいて、いまいじめられている子供たちや大人たち、自殺するのもいいでしょう。生きつづけるのもいい。ただ、自分は決していじめる側には回らないんだと、少なくともその覚悟はしておいた方がいいでしょう。人を殴るのは殴られて育った子供です。いじめられた人が別の人をいじめる可能性は大いにあります。現に私自身、そのような場面があってハッとしたことがあります。
 最近ホームレスが連続で殺される事件があって、もしかしたらと危惧しているわけです。


キンシャサノキセキ

2006年11月19日 | 競馬
前に日本人が富士山を好きなことについて書きましたが、ひとつ別の見方があったので紹介します。日本人が富士山を好きなのは、富士山がひとつしかないからです。あっちこっちに同じように形の整った活火山があったら、珍しくもなんともなく、美しいとさえ思わないでしょう。この心理は、千利休の朝顔の逸話にも通じるものがあります。利休が秀吉に使いを出して朝顔がきれいだからそれを愛でながらの茶会に招待しましたが、当日に秀吉が訪ねたときは朝顔はすべて抜き取られていて、不審に思いつつ入った茶室に一輪だけの朝顔が飾られていたという話です。あくまで「通じるものがある」程度でして、一面に咲いた朝顔はそれなりに美しいと思いますが、富士山があちこちにあっても、ちょっと困っちゃいますね。朝顔みたいに抜くわけにもいかないし。

 今日はマイルチャンピオンシップですが、京都のお天気を見ると雨が降っているようで、しかし馬場発表は良馬場。かなり微妙なんですが、重馬場を苦にしそうなのは中山記念で大敗したハットトリックぐらいなので、ここは普通に予想。

そのハットトリックは休み明け3戦目でマイル7勝3敗の実力からしてやはり要注意。
外国場のコートマスターピースはかなり本気の参戦らしい。
ロジックはまだ調子が戻りきっていない様子。
テレグノシスは長いことご苦労様でした。
ダンスインザムードも休み明け3戦目で活躍する天皇賞組みだからやはり要注意。
同じく休み明け3戦目のスーパーホーネットは前走で上がり33秒。注意。
モハメッドアリは強かった。キンシャサノキセキも強いのか?
デアリングハートはラインクラフトとの比較と先週のサンレイジャスパーとの比較で微妙。
マルカシェンクは線が細い感じがするのと、3000m後がどうか?
休み明けでスワンステークスを勝ったプリサイスマシーンはここも有力かも。
え? ダイワメジャーですか? どうしようか悩んでいます。

 ということで、どうもマイルチャンピオンシップよりも東京国際女子マラソンの高橋尚子が気になって仕方がないので、馬券はもう決めてしまって後はビールでも飲みながらマラソンを見ることにします。
 まず、馬券的に相性の悪いダイワメジャーは今回も思い切って外します。馬券は1,2,3,7,14の三連単ボックス。ハットトリックは天皇賞がちょっと負けすぎなので外します。


死の恐怖=生への執著

2006年11月17日 | 政治・社会・会社

 最近思うようになったことがありまして、不幸というものは、おもに恐怖から生じるのではないでしょうか。まあ一口に恐怖といいましても沢山の種類がありそうでして、死の恐怖、病気の恐怖、対人恐怖、高所恐怖、赤面恐怖、その他のナントカ恐怖と、いろいろあります。

 ドストエフスキーは『悪霊』の中のキリーロフの台詞として次のように言わせています。「生は不安です。生は恐怖です。いま人間が生を愛するのは不安と恐怖を愛するからです」

 仏教の般若心経の中には「心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃」と書かれていまして、意味としては、こだわりを捨てることができれば恐怖から解放されて、涅槃に到ることができるということです。つまり真の悟りの境地は恐怖によって妨げられているということになります。

 同じく仏教の本で『スッタニパータ』という本の中には、名前について述べられていまして、名前をつけることで執著が生まれ、執著が生まれることで恐怖が生まれ、そして人は悟りから遠ざかってしまうと書かれています。

 ドイツの哲学者ショーペンハウエルが『自殺について』の中で述べていることは、死の恐怖はすなわち生への執著に他ならないということです。

 よくドラマの中で病院に入院した患者についてその家族に向かって医者が言う言葉に「あとは本人がどれだけ生きたいと思うか、です」というものがありますが、「生きたいと思う」ことが正しいこと、前向きであることのように表現されていて、いつも違和感を感じてしまいます。
 死の恐怖=生への執著であるなら、「生きたいと思う」ことが恐怖のはじまりであり人間の不幸のはじまりであるわけですから、「生きたいと思わない」ことが幸福につながる姿勢なのではないでしょうか? 
 と言っても、納得される方はほとんどいないと思います。「生きたいと思う」こと、「生きる」ことは「生きていたくない」「死にたい」と思うこと、「死ぬ」ことに比べるとずっと前向きで正しいことのように感じてしまうものですからね。

 死の恐怖=生への執著であると考えると、人間が自殺する心理構造がよくわかります。自分の生をより充実したものにしていきたいとか、またはより充実した生を生きたいと思うことが生への執著であり、そのように思わなくなること、自分の生はこれ以上よくならない、いまよりましな人生を歩むことはできないのだと実感することは、すなわち生への執著をなくすことであり、それがすなわち死の恐怖をなくしてしまうことになる、ということです。驚いたことに、自殺する人は、せいへの執着を喪失したことで、同時に死の恐怖も喪失しているわけです。だから簡単に死ぬことができる。怖くないんですね。
 「死ぬほどの勇気があれば何でもできたじゃないか」という死者への批判は的外れで、自殺するのに勇気は必要ないのです。

 いじめを苦にした自殺が全国的に多発しているように感じます。実は昔から沢山あって、水面下に隠れていたのが最近になって多く報道されるようになったのか、それとも実際に増加してきたのかさだかではありませんが、「自分の生がこれ以上充実したものになることはない」と感じている人は沢山いるのではないでしょうか。そういう人はすべて、自殺予備軍です。
 自殺しない理由はほんの些細なことでして、たとえば私でしたら、ジャパンカップと有馬記念で馬券を買うからそのあとにしようかな、とか思うわけです。小さな女の子でしたら、買ってもらったばかりでまだ着ていない洋服があるから、週末にそれを着て出かけたあとにしようとか、そういうふうに思うわけです。そういった小さなことが「生への執著」そのものであって、それはすなわち「ささやかな幸せ」と呼ぶべきものです。自殺する人にはそういった「ささやかな幸せ」さえもありません。ということは「生への執著」もなく「死の恐怖」もありません。だから何のためらいもなく死ぬのです。

 大阪の中1の女の子が飛び降り自殺した事件がありました。最後の言葉は「ネックレスはあげるね」というものでした。これは何を意味しているのでしょうか。

 この子は学校でいじめられていました。通せんぼをされたり「ちびデブ」と罵られたりバレーボールのときにみんなからボールをぶつけられたりで、毎日のことですからとても中1の女の子が耐えられるようなことではありません。この子が耐えていたのは、他人に対する自分の恐怖心です。もしこの子に恐怖という感情が存在しなかったら、いじめられることはありえません。いじめというのは人間の恐怖心をあおることでその子を不幸にし、「他人の不幸は蜜の味」という言葉の通り、人を不幸にすることを楽しむことなのです。恐怖心のない人をいじめることはできません。

 もちろん人間ですから恐怖心のない人はいないと思いますが、多い人と少ない人がいます。たいていの場合恐怖心の多い人が知的で想像力に優れていますが、恐怖心の少ない人は他人を思いやる能力に欠け、人をいじめることにためらいがありません。

 この女の子が自分の恐怖心に勝つことができたら、そして周囲がそれを手助けすることができたら、この子は「生への執著」と失うことなく、生きつづけたでしょう。この子は恐怖心の強い子で、それゆえに他人の恐怖心も理解することができ、人の気持ちを思いやることのできる優しい子であったと思います。だから最後の言葉が「お姉ちゃんにネックレスあげるね」だったのです。
 しかし学校では夢も希望もなくひたすら耐え忍ぶ毎日、家庭に帰っても学校のマイナスをプラスに変えるほどの「小さな幸せ」はなく、とうとう恐怖心を克服することができないまま、「生への執著」を失った彼女は同時に「死の恐怖」も失って、躊躇なく死を選びました。

 いま分かることがひとつだけあります。人を支配するのは、恐怖心の少ない人たちです。それはいじめる側の人たちです。いじめる側の人たちが日本を政治的経済的に支配しているのですから、いじめというものは日本の構造的な問題であるわけです。だから決してなくなりません。いまいじめ自殺が猖獗を極めているのは、「自分の生がこれ以上充実したものになることはない」という社会のありように根本的な原因があります。私たちは「小さな幸せ」をことごとく奪い去られようとしているのです。それが小泉政治安倍政治の特筆すべき成果であり、去年の9月11日に小泉政権に投票した有権者全員の意思であるわけです。

 言ってみれば国中で寄ってたかって小さな子供をいじめ自殺に追い込んでいるのです。与党に投票した有権者たちは、どのように落とし前をつけることができるのでしょうか。
 教師がひどいとか校長のせいだとか教育委員会がとかマスコミの報道の仕方が悪いとか言っている場合じゃありません。子供を自殺に追い込んだのはとりもなおさず阿呆に政治をやらせている有権者自身なのです。この国に未来はありません。


想像力欠乏症

2006年11月11日 | 政治・社会・会社

私の利用している東急電車では、朝のラッシュ時に次のようなアナウンスが流れます。

「ヘッドホンステレオからの音洩れは、周りの人の迷惑になりますのでおやめ下さい」

朝の満員電車で坐骨神経痛を抱えたままひどくつらい思いをして立っているところに、ヘッドホンステレオの音洩れは確かに嫌なものです。できればやめて欲しい。しかし、音漏れがうるさいくらいなら聞いている本人の耳には大音量で聞こえているはずで、そこに電車のアナウンスが届くはずもありません。なんとも無力感で一杯になりながらため息をついたら、同じように感じたのか、何人かが一緒にため息をついていたことがあります。

ヘッドホンステレオで音楽を聴いている本人には、自分の出している音洩れは聞こえませんから、ちっとも不快ではないでしょうし、目の前の人が顔をしかめていても、〈どこか具合でも悪いのかなあ〉くらいにしか思わないんじゃないでしょうか。悪気があるわけではない。悪気はないけれども、周囲に迷惑をかけている。そして本人はそのことに気づいていない。好意的に解釈するとそうなります。無論、周りの迷惑になることは百も承知でやっているのかもしれませんし、あるいは生まれてこのかた他人の迷惑など考えたこともないのかもしれません。想像力の欠如です。

想像力が欠如した人間にとって他人の存在は自分に都合よく動いてくれるはずの将棋の駒のようなものになります。だから自分の思うとおりにならないと、怒り狂います。いますよね、そういう人。職場でも学校でも近所でも、そういう傾向のある人や傾向どころではなく典型的な人、さらにはもっとすすんで狂人の一歩手前じゃないかと思うくらい自分勝手な人。こういう人が恐ろしいのは、自分の思い通りにならないと怒り狂うだけでなく、思い通りにならないことを受入れられないから、周囲を巻き込んでも思い通りになるようにしようとする執念を持っているからです。その執念たるや、言うことを聞かない人間を罵倒したり殴りつけたり果ては殺してしまったりしますし、激情型でない場合はいつまでもネチネチといじめたり脅したり悪い噂をばら撒いたりあることないこと告げ口したりして、なんとか社会的に葬ろうとしたりします。

そしてこういう想像力の欠如した人間の本当の恐ろしさは、譲歩や妥協を知らないその執念で、社会的に高い地位に到達することが非常に多いということです。逆の言い方をすれば、社会的に高い地位についている人たちは、他人が自分の思い通りにならないと怒り狂うような自己中心のわがまま勝手な人間で、その辞書には妥協も譲歩も思いやりもない、ということになります。

身近な社長さんから社会のトップにいる人たちまで、思いを馳せてみればなんと想像力欠乏症患者の多いことでしょうか。患者という言葉を使いましたが、まさに病気としか思えない人が私の周りにもいます。自分の利益しか考えない社長さん。この人も想像力欠乏症患者でして、社員は奴隷だと思っている。殴る蹴るは当たり前、ミスをした社員とその上司とさらにもうひとつ上の上司をまとめて坊主頭にさせることもしばしば。この会社では社長ひとりが王様で、あとはみな奴隷です。待遇が違うのはお気に入りの奴隷とそうでない奴隷の差くらい。馬鹿馬鹿しくて辞めていく人もたくさんいますが、よその会社に行ってもまた同じような想像力欠乏症患者が社長や上司になると悟って、ストイックに仕事をしている人もたくさんいます。こういう人たちのお陰で会社が成り立っていることに、病気の社長は気づいていません。

病気の社長と言えば、経団連の新会長さんもキャノンでさんざん偽装請負をやって荒稼ぎをしていました。この人のためにどれだけの人が労働力を買い叩かれ、挙げ句に身体を壊して人生を台無しにしたか知れませんが、労働者を葬り去ることで資産と地位を気づいてきたことなど、まったく気づいていないでしょうし、万が一偽装請負で訴えられるようなことがあってもご自分の手を汚す真似はしていないはずで、奴隷の一人、適当な地位の社員がいけにえにされるんでしょうね。やくざと同じです。そういえば手は汚すがよく洗っていますよという名前でしたね。

想欠症の辞書には譲歩も妥協もない上に、誠実も謙遜も慈悲もありません。いってみれば化け物ですね。想欠症=化け物。政治や経済の上部に君臨する人たちにもっとも必要なものが誠実、謙遜、慈悲、譲歩、妥協であるにもかかわらず、現実にはそれらの特質を一切持たない想欠症患者たち、ビョーキの化け物たちが政治と経済の中心にいるわけで、北朝鮮問題も教育問題もクソもありません。無差別殺人鬼と同じ精神構造を持った想欠症の化け物たちがいる限りは。

ということで、最近の教育問題は日本という国の構造的な問題であると、そういう絶望的な結論になってしまいました。従って対策はありません。
明日のエリザベス女王杯でも検討した方がよっぽど建設的かもしれませんね。


競馬と政治と好き嫌い

2006年11月05日 | 政治・社会・会社

 天皇賞ですが、実は外してしまいました。予想の段階まではよかったのですが、最後に馬券を買うときに、勝ったダイワメジャーを蹴っ飛ばしてしまったのですから、それは当りません。好みの問題といいますか、競走馬の走りっぷりとか見かけとか血統とか厩舎とか騎手とかの好みがありまして、最後の最後にはそれで決めてしまうところがあります。要するに好きな馬を勝ってしまうんですね。それは今回のように裏目に出ることのほうが多いのですが、ときにはいい目と出ることもありまして、大もうけさせてもらったことがあります。人間というものは自分に都合のいいことは憶えていて、都合の悪いことは忘れてしまうという長所があるので大もうけした記憶だけが強くてついつい同じ買い方になってしまうんですね。嫌いだけれども強い馬は買わなきゃいけないと思いつつ、ちょっと足りないけれども好きな馬を勝ってしまうんですね。しかも馬を好きになるきっかけというのもたいていつまらない偶然とかで、ほとんど意味がないのが事実です。にもかかわらず、ここで好きな馬を買わないともし来ちゃったらいやだななどと、ほぼ非論理的な理由で買ってしまうんですね。そういうこだわりがない人が多分、馬券のうまい人なんでしょう。私はなれそうにありません。

 今日のアルゼンチン共和国杯では好きな馬2頭が出ていて、その2頭だけを買おうと思いましたが、つい三連単を買いたくなってしまい、その2頭が1、2着したのにもかかわらず、3着の馬を買わなかったおかげでまたしても外してしまいました。こういうのを欲の皮を突っ張らせた、といいます。もし三連単を買っていて当っていたとしても、全額を2頭の馬連1点に投入したほうが払い戻しは多かったのです。簡単に言うと、馬鹿な買い方をしてしまいました。

 自分の馬券下手を棚に上げて言うのもなんですが、政治家や官僚、役人がこういう私の馬券の買い方のような仕事をしていては、国民住民は困ってしまいます。それを煽る評論家の発言も、困ってしまいますね。

 〝元祖孝太郎〟で知られる俵孝太郎さんが某夕刊紙のコラムに

昔の小学生は歴代天皇を神武から今上まで言えた。

旧制中学受験のときは、教育勅語を全文書けて当然だった。

 と何のために出してきたのか意味不明の例ですが、ひとつだけわかるのは、俵孝太郎さんは昔の軍国主義が好きなんだということです。校庭に生徒をきれいに整列させて前へ倣え、右向け右と、号令をかけてそのとおりになるのを眺めることに美意識を満足させることができるのでしょうか。よくわかりません。よくわかりませんが、政治家や官僚、役人といった共同体の行政を行なう立場の人たちに対して、俵孝太郎さんはご自分の好き嫌いや美意識を押し付けたいのですね。お気持ちは十分わかりますが、実際に教育勅語を復活させたり歴代の天皇の名前を暗誦させたりすれば、ついに日本がおかしくなっちゃったと全世界が認めてくれるでしょう。

 しかし俵さんの思惑とは別に、政治家や官僚、役人たちは大昔から自分たちの好き嫌いや美意識で政治を執り行っています。そんなことはみんな知っていることで、奈良県や岐阜県だけの問題ではないのですが、奈良県はこのところ目立ちすぎていますね。ずっと休んでいる人が給料をちゃんともらっていたり、そのほかに百何十人もズル休みをしているのがばれたりしたのも奈良県でした。そういえば、目の前に勤務先の役所がある人は交通費がもらえないからといって靴代を交通費に準じて支給しているのも奈良県です。妊婦さんが病気を併発したときに県内の病院をたらいまわしにされた挙句に処置が遅れて亡くなったのも奈良県でした。奈良県に住んでいなくてよかった。それほど奈良県の役人は人間の屑ばかりだということです。

 もっと言えば、人間はたいてい屑で、屑でないように生きるほうが難しい。だから政治家や役人が政治を好き嫌いで行なうのも当たり前だし評論家が自分勝手な美意識を主張するのも当たり前の話です。世の中がよくなることは決してありませんが、怒りや驕りや恐れを超越して、自分だけは屑仲間から脱却することはできるかもしれません。人からは乞食に見えるようになってしまうかもしれませんけど。人から乞食に見られたくない人には無理な話です。つまり大方の人には無理な話です。世の中は屑が屑を支配しているのです。奈良県だけでなく、どこにも未来はありません。


頑張って死のう

2006年11月04日 | 政治・社会・会社
 
 
 
 
 いじめ自殺なんてものは昔からたくさんあったしこれからもなくならないし、なくすこともできないであろうことは大方の人がうすうす感じているところだと思います。最近は各地で相次ぐいじめ自殺の問題をマスコミが取り上げて騒いでいますが、その取り上げ方がどうも的を外れているような気がしています。
 
 いじめ自殺について新聞テレビの人たちが言うことをランダムに並べてみると、
 
 
  • 教師の資質が低下している。教育能力も人間的にもひどいレベルだ。
  • 校長から教育委員会までが隠蔽体質で、問題は解決しない。
  • 隠蔽体質ではなく、事件にかかわった子供や教師を守る意味があった。
  • ゆとり教育の弊害である。勉強に終われていたらいじめるヒマもない。
  • 偏差値教育に問題がある。落ちこぼれの生徒がいじめる側に回る。
  • 歪んだ教育をつくってきた政治に問題がある。
  • 親が学校に教育を丸投げしているのが一番の原因。
  • いじめられる生徒の逃げ場が用意されていないことが問題。
  • とにかく今は子供たちに死ぬなと伝えることが大事。
 
 
 責任転嫁から一方的な決めつけまでたくさんの意見が出されましたが、いずれにも共通する前提は、いじめ自殺はあってはならないもの、繰り返してはいけないものであるということです。もちろん過去も現在もいじめ自殺はありますし、今後もなくなりそうにないということを分かっていての前提ですが、それでもあえてこの前提に意を唱えたいと思います。
 
 
 
 
自殺について
 自殺の善悪を問うことは無意味です。人間は自殺することのできる珍しい動物であり、死を認識している数少ない生き物のひとつです。同時に社会的な生き物であり、生の充足は他者とのかかわりの中でしか生まれないという非常に不幸な生き物なのです。自分の生を充実したものにしたいということが人間の基本的な欲求であり、性欲や食欲、自尊心や虚栄心といったものは、他者との係りの中で自分の生を充実したものと感じるひとつの要素に過ぎません。
 もしこれからの人生で自分の生が充実することがないと確信できたら、人間は必ず自殺します。そしてこれから自分が幸せ(生の充実)を味わうことはないと感じている人がたくさんいるのが人間社会であり、人類の歴史に埋もれていった真実なのです。小さな幸せという言葉で表現されるようなほんの僅かな生の充実さえもなく死んでいったたくさんの人々。人類の歴史にほとんど関与することもなく死んでいった彼らの生は、誰の記憶にも思い出にもなりません。無意味そのものなのです。
 学校の生徒にとってそれはどういうことでしょうか? 経済的に自立していない(法的にも無理)ことから、学校の生徒というのはきわめて狭い世界で生活しています。ほぼ、学校と家庭。学校でいじめられている生徒に生の充実はありません。ほんの僅かな幸せさえもありません。家庭ではどうでしょうか。家庭には自分を褒めていたわってくれるやさしい母親がいるかもしれません。声をかけてくれるたくましい父親もいるかもしれません。あるいは元気に出迎えてくれる犬や、メール友達がいるかもしれません。それらの他者との関係で少しでも生の充実があるなら、その子は学校でいじめられていても自殺はしないかもしれません。家庭内でのそんな僅かな幸せが学校でのいじめの記憶を少しも軽減できないときは、やっぱり自殺するでしょう。
 ドロップアウトした生徒たちには、学校や家庭とは別の世界の生活もあります。クスリや暴力、犯罪や暴力団との係りの世界かもしれませんが、そういう子たちは自殺しません。
 自殺するのは大概がドロップアウトもできず不登校にもなれず、気持ちの整理のつかないままひたすら我慢している子供たちです。親にも学校にもいじめている張本人の生徒に対しても、迷惑をかけたくないと、そのように考えているまじめな子供たちです。
 このような子供たちに向かって、死ぬな!とは、どのような根拠があっていえる言葉でしょうか。今の世の中にいいことがありますか? 生きていればそのうちいいことがあるなんて、誰にも根拠を示すことのできないいい加減な言葉です。はっきり言って、今の世の中はこれ以上よくならないし、逆に悪くなる一方です。人類は恐竜が絶滅したのと同じように絶滅するでしょう。地球の環境は年々悪くなります。人間性もどんどん失われて、最後はひとりひとりが核兵器を持つ時代になるでしょう。
 自殺するならいまのうちです。早いほうがいい。思い立ったが吉日というじゃありませんか。いじめられている子供たちだけでなく、病気をして動けない働けない状態で何が幸せなのか思い当たらない方々も、ここは思い切って自殺しましょう。たくさんの人が自殺するのは、ねずみが大地震を予知して逃げ出すのと同じで、まもなく日本が滅びるからに違いありません。どこへ逃げても同じです。世界中が腐りかけている。溶けはじめた泥の舟と同じです。逃げる方法は自殺しかありません。明日も明後日も、希望なんてありませんよ。人生に希望はないのです。
 子供たち、早く死のうね。頑張って、死のうね。