三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Blanka」(邦題「ブランカとギター弾き」)

2017年08月28日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Blanka」(邦題「ブランカとギター弾き」)を観た。
 http://www.transformer.co.jp/m/blanka/

 子供が主人公の映画はそれだけで共感を得やすい。しかしスラム街の子供は、観光客からお金を奪ったり、麻薬を売ったり買ったりと、負のイメージがあって、必ずしも共感を得られるとは限らない。
 本作はそんなことは百も承知で、所謂ストリートチルドレンの居場所について問題を提起した。何故彼らは生まれてきたのか、生まれてこなければならなかったのか。
 避妊技術の発達で、先進国では子供を生むか生まないかの選択が生まれた。いまは死語かもしれないが、以前はコンドームやピルなどはバスコン(Birth control)と呼ばれていた。略語が生まれるのはその言葉が人口に膾炙している証拠だ。
 日本ではバスコンが一般化しすぎたのか、少子高齢化に向かって驀進中だ。子供が生まれないから不幸が増えないとも言えるし、逆に幸福も生まれないとも言える。子供がいる将来に安心感がない社会だから、必然的に少子化になる。どれほど子供手当を増やそうが、社会に希望が生まれない限り、少子化対策にはならない。

 先進国以外では子供は植物のように繁殖する。避妊することや子供を産まない選択があることが周知されていないからだ。無秩序に生み出された子供たちは、生き延びるために共同体の秩序に反する行動を取る。その場合、子供たちは社会の財産ではなく、小さな破壊者である。
 しかしやがて共同体の生産が向上するにつれ、子供たちは生産システムの中に飲み込まれて社会の歯車と化していく。個性よりも能力が求められる。そして生産社会への貢献度によって格差が生まれる。そんな格差を諦めて受け入れ、社会の傘の下でパンのために自由を投げ出すことで生活の安定が生まれる。もはやストリートチルドレンではない。

 本作は過渡期にある共同体(国家)に放置された孤児のアイデンティティについて、どこにも拠りどころのない彼らの刹那的で不安に満ちた心情をよく表現している。主演の少女は演技も歌も実にうまい。彼女の台詞は真実を衝いていて、観客の心をえぐる。
 大人は子供を買えるのに、どうして子供は大人を買えないの?という質問に、誰がきちんと答えられるだろうか。

 決してハッピーエンドとは言えないラストだが、それでも人との繋がりに喜びを見出すことができるようになったのは、彼女のひとつの成長である。待っている人がいるところが家なのだ。経済的な見通しは真っ暗だが、心には自由がある。


映画「Orbiter9」(邦題「スターシップ9」)

2017年08月27日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Orbiter9」(邦題「スターシップ9」)を観た。
 http://starship9.jp/

 いまやIDという言葉を知らない人はあまりいないだろう。パスワードと合わせてネット利用に必須である。日本語に訳すと自己証明あるいは個人認証といったところだろうか。
 人間は自分の存在証明を求める。時間的に求めるときは祖先など、自分のルーツを探る旅に出る。社会的に求めるときは、個体としての自分の存在価値を得るために様々にもがく。他者との差別化を図ろうとするのだ。
 しかし人類が滅亡の危機に瀕したとき、人間の個体差よりも人類としての存続が優先されるかもしれない。その場合、人間の生きる意味というものが果たしてあるのか?

 科学者の孤独な頭脳の中には、人類との大いなる共生感が存在するかもしれないが、そこには現実に生きている個々の人間は存在しない。幻想としての人類を生き延びさせるための計画が、実存としての人間の個体差を否定し、生きる意味も否定する。
 この映画は、個体差が生み出す顕著な事例である恋愛を補足的なテーマとして、人類存続について問いかける壮大な作品である。権力は人類の存続を模索するにあたり、権力の存続とセットにしてしか考えることができない。その状況下で、個人はどのように状況を受け止めてどのように行動するのか、その思考実験がそのままストーリーとなり、作品の世界観となっている。なかなかの傑作である。


映画「Everything Everything」

2017年08月27日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Everything Everything」を観た。
 https://warnerbros.co.jp/movies/detail.php?title_id=53716

 人間は環境との有機的なつながりで生存している。呼吸し飲んで食べて排泄する。一見恒常的に見える個体だが、細胞は絶えず死滅し、そして再生している。環境には人間にとって有益なものから無益なもの、有害なものまで幅広い存在している。人間が細胞レベルで常に変化しつづけているように、環境も常に変化しつづけている。時として変化を担うのがウイルスやバクテリアのことがある。呼吸し飲んで食べることは、即ちウイルスやバクテリアを体内に取り込むことでもある。
 人間の体内には、細胞の数をはるかに超える数のバクテリアが存在している。乳酸菌などのいわゆる善玉菌から大腸菌などのいわゆる悪玉菌、それにどっちつかずの日和見菌というものまであるらしい。
 免疫は細菌を体内に取り込む過程で徐々に獲得していくものであることは、我々がすでに知るところである。

 そういった観点で言えば、この作品にはおかしなところがたくさんある。しかし作品のテーマは免疫学でもアレルギーでもない。免疫不全という設定の箱入り娘の初恋の物語である。
 初めての恋にときめく娘、どこまでも娘を心配する母親、優しい看護婦、理不尽な父親からの自立を模索する良識ある若者。悪人が登場しないほのぼの映画である。白人と黒人の恋愛映画でもある。こういう作品が求められるところに、逆にアメリカの鬱屈した世相が見てとれる。


映画「A quiet passion」(邦題「静かなる情熱 エミリ・ディキンスン」)

2017年08月17日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「A quiet passion」(邦題「静かなる情熱 エミリ・ディキンスン」)を観た。
 http://dickinson-film.jp/

 19世紀のアメリカは、まだまだ英国文化が色濃く残っており、話す言葉もアメリカンスラングではなく、クイーンズイングリッシュに近かったと考えられる。言葉は思想や情緒、風俗に大きな影響を及ぼす。従って当時のアメリカ人の価値観は英国式の古臭い道徳の範疇から逸脱することはなかっただろう。
 本作品は、そんな窮屈な倫理観に凝り固まった社会にあって、断固として精神の自由を貫こうとした孤高の詩人の物語である。キリスト教の価値観から1ミリも抜け出すことのない周囲の人間たちとは、当然いさかいを起こすことになる。

 金持ちの家に生まれたから働かないで一生詩を書いて暮らせたのか、それとも当時は女性が働くことはなかったのか、そのあたりは不明だが、経済的環境は恵まれていたようだ。しかし金持ちは現状の社会体制が継続するのを望むはずで、同時代の価値観を疑わない傾向にある。にもかかわらずエミリが時にはキリスト教の価値観さえも相対化してしまう自由な精神を維持しえたのは、おそらく幼いころに獲得したであろう自信と勇気の賜物である。
 映画の冒頭から、シスターによって同調圧力に従うかどうかを試されるシーンがある。あたかも踏み絵のようだ。エミリは自分の真実の声に従って対応する。この行動のシーンにより、観客は主人公が若いころから勇気ある女性であったことがわかる。そしてその勇気が、詩人を一生支え続けることになる。

 イギリスの詩人、W.H.オーデンは「小説家」という詩の中で、詩人について、次のように書いている。
『彼等は雷電のようにわれらを驚愕し、または夭折し、または長い孤独に生きのびる。(深瀬基寛 訳)』

 若いころに女学校のシスターを驚愕せしめたエミリ・ディキンスンもまた、長い孤独に生きのびた詩人であった。


映画「東京喰種 トーキョーグール」

2017年08月06日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「東京喰種 トーキョーグール」を観た。
 http://tokyoghoul.jp/

 捕食するものとされるものとでは、捕食する側のほうが断然強い。逃げ隠れするのは捕食される側である。アフリカの草原では、ライオンは悠然とリラックスし、有蹄類の動物がライオンの動向にびくびくしながら暮らしている。立場の逆転はない。ライオンと有蹄類とでは見た目も戦闘能力も歴然とした差があるからだ。
 もし捕食する側とされる側の見た目が同じだったらどうだろう。捕食される側が圧倒的多数である場合、少数派の個々の戦闘能力が強くても、多数派に敵わないかもしれない。ましてや人間は武器を使用できる。素手での個々の戦闘能力の比較は意味を成さなくなる。人間がイノシシやクマに時々殺される程度の話になるだろう。しかしもし捕食する側が人間の持つ武器が一切通用しない強烈な相手だった場合はどうか。その場合の捕食者は、天敵と呼ばれるだろう。

 人間には天敵がいない。昔、毎日新聞に連載されていた「私説博物誌」で筒井康隆が天敵についての文章を書いていた。具体的な文章は忘れてしまったが、確かこんな感じだ。人間に天敵がいたら朝のニュースでは天気予報に続いて天敵予報が流されるだろう。「本日の天敵。本日は○○地方で大暴れしており、すでに5人が食べられました。今後は○○方面に向かうと考えられ、十分な警戒が必要です」という感じ。
 本作品では、捕食する側の話がほとんどで、食べられる側の論理が何も描かれていない。人間は生物を殺して食べているが、食べられることはない。生きたまま食べられることが日常的になった場合に、社会がどのような動きをするのか、あるいは人間が正気を保つためにする行動はどのようであるのか、そういったテーマは置き去りにされている。

 出演者はいずれも十分な演技である。主演の窪田正孝は脱いだら凄い体の持ち主で、どんなアクションにも対応できる感じだが、それよりも性格俳優の印象が強い。今作でも精神的に弱い人間が何とか生きていこうとする役を存分に演じていた。
 蒼井優はどんなに明るい役を演じてもどこか翳があり、好きな女優のひとりである。女心の闇の中から絞り出されるような台詞を言う。しかしこの作品では、ちょっといつもと勝手が違っていた。清楚な美人が似合う彼女にしては、怪演といえるだろう。

 作品としては未完成の印象が強い。俳優陣の熱演が空振りに終わってしまった格好だ。世界観が個人の怨念や憎悪に帰趨してしまっては、映画としてのスケールがなくなる。原作は読んでいないが、映画としてはもう少し大きなスケールで、食べる側と食べられる側の絶対に相容れない論理の葛藤を描いてほしかった。


映画「ザ・マミー 呪われた砂漠の王女」

2017年08月06日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ザ・マミー 呪われた砂漠の王女」を観た。
 http://themummy.jp/

 予告編にあった通り、古代の墓を暴いたらそこに閉じ込められていた王女が暴れだしたという話である。何度か予告編を見るうちに次第に想像力が膨らんで、作品に対する期待値が高くなってしまった。つまり、古代の墓に対して考古学的なアプローチを試みる側の人間ドラマがあり、一方で不用意に暴いてしまって王女が暴れだしたアクション劇があり、圧倒的な力を発揮する王女を止めるには古代の出来事の真実に到達しなければならないというデッドラインのドラマだ。数千年前に何が起きたのか、王女はなぜ閉じ込められたのか。トム・クルーズが学究の徒を演じるとすれば非常に興味深い。そんな風に想像が膨らんでいた。もはや妄想である。

 ところが実際の作品は私の妄想とは全く違っていて、結局予告編の映像が一番面白かったという羽目になってしまった。トム・クルーズはいつもの能天気なアクションヒーローで、感情移入は不可能である。ヒロインは強気で行動的な美人というトム・クルーズ映画では定番のタイプ。設定は違っても、ミッションインポッシブルのシリーズを見せられているようだった。なんの新しさも感動もない。
 ストーリーは一本調子で厚みがない。それは登場人物の性格が薄っぺらで単純であることに由来する。単純な人間しか出てこなければ複雑な話になりようがないのは当然だ。
 唯一見どころと呼べるのがアクションかもしれないが、この種のヒーロー物は決して主人公が死なないという予定調和があるから、見ていてもドキドキ感がない。最後はトム・クルーズがキムタクに見えてきた。やれやれ。


映画「Fai bei sogni」(邦題「甘き人生」)

2017年08月04日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Fai bei sogni」(邦題「甘き人生」)を観た。
 http://www.amakijinsei.ayapro.ne.jp/

 予告編にある通り、子供の頃に母を失った男の物語だ。母が何故死んだのか、どんな死に方をしたのか不明なまま、男は長じてジャーナリストになり、危険地帯をはじめ世界中を飛び回る。しかし依然として母を失った喪失感は消えない。
 話は理解できるが、男の気持ちが理解できない。どうしてそこまで死んだ母親に
こだわるのか?
 高圧的な父親に対する反発や世の人々についての猜疑心もあっただろう。それが子供の頃からずっと消えず、素直に人を愛せない人間にしてしまった?

 もしこの作品が子供の頃に芽生えた猜疑心がその後の人生を左右したというテーマなら、お金と時間をかけて映画を作る動機としてはあまりにも弱すぎる。かといって、前世紀後半のヨーロッパの社会状況を考えてみても、この映画に結び付くような出来事は思い当たらない。
 ということは、トラウマを抱えた人間が自分自身とどのように向き合っていくかという極めて個人的な人生観がテーマである可能性が高い。長い年月をかけて真実に辿り着く、時間軸のロードムービーだ。それにしては主人公の動機が分かりにくく、まったく感情移入できないまま、映画が終わってしまった。


言論の自由を損なおうとする女性

2017年08月03日 | 日記・エッセイ・コラム

 Change.orgというサイトから、賛同を求めるメールが来た。乃木坂46が歌っている「月曜日の朝、スカートを切られた」という歌が、トラウマを刺激して不快だからやめさせるという運動に賛同しろというメールだ。
 共謀罪が成立したからと言って、言論の自由を早速侵害する運動を始めるのはどうか。秋元康も好きじゃないし、乃木坂46にも興味はない。しかし歌は表現だ。言葉の表現、即ち言論の自由である。政府によって特定の歌が恣意的に禁じられる時代がどんな時代であるのか、そんな想像力さえ働かない頭の悪い女性がこんなことを考える。言論の自由が奪われれば、スカートを切られるどころの話ではないのだ。

https://www.change.org/p/%E6%AC%85%E5%9D%8246-%E6%9C%88%E6%9B%9C%E6%97%A5%E3%81%AE%E6%9C%9D-%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%92%E5%88%87%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F-%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E6%9B%B2%E3%81%8C%E3%81%A9%E3%82%8C%E3%81%A0%E3%81%91%E8%A2%AB%E5%AE%B3%E8%80%85%E3%81%AB%E8%BE%9B%E3%81%84%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%8B?utm_medium=email&utm_campaign=aa_sign&utm_source=112645&j=112645&sfmc_sub=362138014&l=32_HTML&u=22090411&mid=7259819&jb=258


映画「君の膵臓をたべたい」

2017年08月01日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「君の膵臓をたべたい」を観た。
 http://kimisui.jp/

 猟奇ものみたいなタイトルは果して作品の内容と合っているのかは議論の分かれるところだが、インパクトのあるタイトルであることは確かだ。予告編では、見ればタイトルの意味に涙するとあったが、涙するかどうかは微妙なところだ。
 高校生たちの台詞には整合性のない部分も見られるが、その世代の精神性としてはむしろリアリティがあるといっていい。大人を演じた小栗旬の台詞は少なく抑えられている。そこに13年間の年月を感じさせるいい演出だ。
 主演の浜辺美波をはじめ、女子高生役の演技はそこそこだったが、相手役の男子高生を演じた北村匠海の演技には光るものがあった。彼が演じた、人と相容れないが自分の殻に閉じ籠る訳でもない自由でニュートラルな精神を持つ稀有な高校生は、その姿を見ているだけでとても清々しい。自称「人を見る目がある」主人公が彼に夢中になるのは必然だ。
 過去のシーンも現在のシーンも、男子高生役の演技は総じてレベルが高かった。ガムをくれる友達を演じた矢本悠馬の悠揚迫らぬ態度には大物感さえ漂う。この人はいいバイプレイヤーになるだろう。
 ストーリーや世界観は月並みだが、実写版としてのリアリティは十分だ。観客の誰もが自分の学生時代を思い出す。