ばばちゃんのおっちゃんの日本語の先生への道

日本語の先生になろうと一念発起いたしました。

その22 日本語教授法

2015-10-16 10:34:03 | 6.私の感想・考え
日本語教授法

 海老原さんの「ニュー・システムによる日本語」のサワリだけを読んでみました。どうも、「今までやってきた教え方は、パーフォーマンスも良くないし、おかしいのではないか」と言うような発想から出発しているようです。私がこのブログを書き始めたのも同じような発想です。何か、時代遅れで、卑屈な感じで、おかしいな・・・・・。
 
 今まで、日本人が、国内で行ってきた外国語教育は、翻訳のための教育で、会話のための教育ではなかったかということが最近になって分かってきました。「原書は読めても会話が出来ない。」と言う事実がよく示しています。従いまして、「翻訳」と「会話」は、区別して考えるべきでしょう。
 会話を勉強したいのに、翻訳の勉強の仕方で、会話を教えていると言う事になっているのではないでしょうか。
 また、偶然、たまたま、日本にいる人と、日本語をマスターして、少しでも、自分の将来に役立てようと言う人では、心構えも違いますので、教え方も違って当然だと考えます。現在の教え方は、どっちつかずの教え方のように感じます。
「活用が難しいから、簡単なものから始めましょう」と言う発想は、「どうか皆さんお願いだから日本語を勉強してください」と言うような卑屈な感じがします。日本語を勉強したいのならこうしなさいという勉強方法が有ってしかるべきと考えます。

 ヘボン式ローマ字の「ヘボン」と、「オードリ・ヘップバーン」の「ヘップバーン」は同じスペリングだと聞いた時、驚き、何かおかしいぞと感じました。明治の人は、「ヘボン」と聞こえ、「ヘボン」記述したようですが・・・・。

 私の外国語の会話の経験からしますと、会話に中に、聞いたことのある単語が有れば、想像を逞しくして、ああかな、こうかなと、懸命に理解に努めました。しかし、知らない単語ばかりでは、想像力も発揮できません。
 米国人の発音が聞き取れず、韓国人のその事の英語の説明は聞き取れたという経験もしております。そこで、「会話は単語だ」と言う発想が生まれ、聞いたことがある単語をどんどん増やすことに精を出し、とにかく単語、慣用句を憶えるようにしました。

 脳科学者の池谷博士の実験では、会話の中の単語が30%分かっていても、会話の中身の20%しか理解できていないそうで、それが、60%になりますと、理解が90%まで進むそうです。
 そうです、これに近い経験は、我々も学生時代、英文和訳の試験で経験している筈です。たとえ知らない単語が混じっていても想像力を逞しくして、「○」をもらったりしています。

 動詞の活用が重要であり、難しいとよく言われますが、我々が国文法で習う「書かない、書きます、書く、書く時、書けば、書け」の方法で良いと考えます。特に、「サ変」とか、「カ変」とかは、「変格」と言う名前のごとく活用が特殊なので、それらは、全く同じ動詞ですよと言うことを知らしめるためには、お経のように唱えるのが最適と考えます。そうやっておけば、聞いたことのある単語だ、活用だと言うことになります。
 更に、「カ変」には、「来る」しか有りませんが、「サ変」は、漢語とくっついて、数えきれないほどの動詞を作ります。一網打尽で、動詞とその活用を覚えることが出来ます。

 韓国語を勉強していた時、「하다」(ハダ)「합니다」(ハムニダ)と言う語は、「する」と全く同じ用い方をするというのが分って、一度にボキャブラリーを増やすことが出来ましたし、活用も間違え難く成りました。

 動詞の活用も、やまと民族オリジナルの「やまとことば」=「和語」や、外来の「漢語」、そして、漢語を活用のための「する」と言う動詞を上手く説明できればよいのですが・・・・






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