話が分かりやすい
現在私の言語環境は、めちゃくちゃで、考え方は随分違いますが、表面的な翻訳、通訳は、ほぼ完璧な仕掛け人が一人います。
社長と助っ人は英語を話しますが、私には聞き取れない英語を話しますので、分かったような分からないような話になってしまいます。そうは言いましても、社長は、シンガポーリアンと英語で、問題なく会話をしています。
会社での会議は、仕掛け人が通訳を行いますが、考え方が随分違っていますので、私の考えが正しく伝わったかどうか疑問で、メンバーの顔色を窺って、判断するより仕方ありません。
社長に正しく伝えたい、社長の考えを正しく把握したいときも仕掛人の世話になります。
助っ人との会話は、ほぼ日本語で、通じない時は英語が混じります。しかし、連絡のやり取りのメールは英語です。メールは、クリック一つでgoogle翻訳が、翻訳してくれますので、多少助かります。
仕掛け人とは、土曜日に会議のために会うだけですが、生活の相談等は、間違いが起こらないように、電話ではなく、日本語のメールのやり取りを行います。と言うようなややこしい環境です。
そこで、自分が、相手の言うことが、正しく分かったのか、また、相手が、私の言うことが、正しく分かってくれたのかが、大きな問題です。
「分かった!!」というのは、言葉ではなく、絵と言いますか、イメージだというのは、前から承知していますが、会話においては、この作業が、連続して起こっているのでしょうね。
「分かり易い」で言いますと、仕掛人の日本語の単語が何回聞き返しても、分からないときがしばしば起こります。これは推測ですが、単語自体は間違っていないのですが、話の流れから、その流れでは、余り使わないような単語の出現のようです。
我々の頭の中では、可成り前以て、シミュレートしているようで、そのイメージに合致しておれば、スムースに話が進行していくでしょうが、そうでない単語を用いますと、意味が合っているのに聞き取れないというようなことが起こったというような感じが致します。脳が抱いたイメージと合致していないのでしょうね。
やはり単語のTPOを弁えた使い方によって、分かり易い話であったり、そうでなかったりするのではないでしょうか。実際には、人それぞれポテンシャルが異なりますので、一対一の会話では調整が効きそうですが、複数の人に対して行う時は、通り一遍の話し方でなく、いろいろな調整を含めて話さなければならないのかもしれません。
今まで、竹内薫さんの話には、何かピンと来ず、あまり好きでは有りませんが、「話がわかりやすい」人は一体何が違うのか。理系作家がそのナゾを解き明かすという記事を書いておられますので、ほっておけなくなりました。
( http://toyokeizai.net/articles/-/159121 )
「分かった」と言うのは、私が他の所で、得た知識や実感から、ごくまともな話と考えます。日本語指導者の試験を受けた方ならご存知のフェルディナン・ド・ソシュール(スイスの言語学者)氏が出てきて、びっくりしたわけです。
脳は、可なり先回りして、シミュレーションしているよと言う話は、池谷さんが言っておられます。そういう話から、接続詞の使い方で、脳は先回りしてくれているというのは、言われてみればそうで、もう少し注目して考えたいと思います。日本語の係り結び的な接続詞と語尾は、正にそのことを表しているのではないでしょうか。
竹内さんの話では、易しい言葉を使ったからと言って、理解が進む訳ではなく、相手が蓄積している知識や、その他とのマッチングが大切だと述べておられます。
我々は、明確に意識はしていませんが、何となくそれらしき対応をしています。今後は、もっと意識して、取り組みたいと考えます。
日本語の先生や外国での生活には、イメージがぴったり合えば、非常に楽しいですが、生活習慣、宗教、考え方が異なっていて、なかなかそうは参りません。
現在私の言語環境は、めちゃくちゃで、考え方は随分違いますが、表面的な翻訳、通訳は、ほぼ完璧な仕掛け人が一人います。
社長と助っ人は英語を話しますが、私には聞き取れない英語を話しますので、分かったような分からないような話になってしまいます。そうは言いましても、社長は、シンガポーリアンと英語で、問題なく会話をしています。
会社での会議は、仕掛け人が通訳を行いますが、考え方が随分違っていますので、私の考えが正しく伝わったかどうか疑問で、メンバーの顔色を窺って、判断するより仕方ありません。
社長に正しく伝えたい、社長の考えを正しく把握したいときも仕掛人の世話になります。
助っ人との会話は、ほぼ日本語で、通じない時は英語が混じります。しかし、連絡のやり取りのメールは英語です。メールは、クリック一つでgoogle翻訳が、翻訳してくれますので、多少助かります。
仕掛け人とは、土曜日に会議のために会うだけですが、生活の相談等は、間違いが起こらないように、電話ではなく、日本語のメールのやり取りを行います。と言うようなややこしい環境です。
そこで、自分が、相手の言うことが、正しく分かったのか、また、相手が、私の言うことが、正しく分かってくれたのかが、大きな問題です。
「分かった!!」というのは、言葉ではなく、絵と言いますか、イメージだというのは、前から承知していますが、会話においては、この作業が、連続して起こっているのでしょうね。
「分かり易い」で言いますと、仕掛人の日本語の単語が何回聞き返しても、分からないときがしばしば起こります。これは推測ですが、単語自体は間違っていないのですが、話の流れから、その流れでは、余り使わないような単語の出現のようです。
我々の頭の中では、可成り前以て、シミュレートしているようで、そのイメージに合致しておれば、スムースに話が進行していくでしょうが、そうでない単語を用いますと、意味が合っているのに聞き取れないというようなことが起こったというような感じが致します。脳が抱いたイメージと合致していないのでしょうね。
やはり単語のTPOを弁えた使い方によって、分かり易い話であったり、そうでなかったりするのではないでしょうか。実際には、人それぞれポテンシャルが異なりますので、一対一の会話では調整が効きそうですが、複数の人に対して行う時は、通り一遍の話し方でなく、いろいろな調整を含めて話さなければならないのかもしれません。
今まで、竹内薫さんの話には、何かピンと来ず、あまり好きでは有りませんが、「話がわかりやすい」人は一体何が違うのか。理系作家がそのナゾを解き明かすという記事を書いておられますので、ほっておけなくなりました。
( http://toyokeizai.net/articles/-/159121 )
「分かった」と言うのは、私が他の所で、得た知識や実感から、ごくまともな話と考えます。日本語指導者の試験を受けた方ならご存知のフェルディナン・ド・ソシュール(スイスの言語学者)氏が出てきて、びっくりしたわけです。
脳は、可なり先回りして、シミュレーションしているよと言う話は、池谷さんが言っておられます。そういう話から、接続詞の使い方で、脳は先回りしてくれているというのは、言われてみればそうで、もう少し注目して考えたいと思います。日本語の係り結び的な接続詞と語尾は、正にそのことを表しているのではないでしょうか。
竹内さんの話では、易しい言葉を使ったからと言って、理解が進む訳ではなく、相手が蓄積している知識や、その他とのマッチングが大切だと述べておられます。
我々は、明確に意識はしていませんが、何となくそれらしき対応をしています。今後は、もっと意識して、取り組みたいと考えます。
日本語の先生や外国での生活には、イメージがぴったり合えば、非常に楽しいですが、生活習慣、宗教、考え方が異なっていて、なかなかそうは参りません。