本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

仏教を学ぶということは

2021-02-08 20:44:21 | 十地経

いろいろ勉強して知識を身につけ

学んでいくことは楽しいものです

知識が増え、知らなかったことが

分かっていく、

そういう学んでいく魅力という

ものがあります。

しかし、

仏教を学ぶというのは

少し方向が違うようです。

 

確かに、仏教には

独特の言葉もあり、また

人間の煩悩を分析する言葉もあり

そういうことを知らないと

本当の自分自身がわからない

ということがあります。

 

それで、

そういうことを学ぶのですが

それは方向が違うというか

学んだ知識智慧によって

自分自身を解明していくのです

その学んだ知識でもって

地位を得たりとか金儲けをする

というようなことではありません

 

講義の中で、

「これまでの学問というのは、

どういうものかというと、

仏教学とはどういうものかと

というと、

一番大事なことはその転倒と

言うようなことから考えると、

やっぱりソクラテスの無知

みたいなもんで、

学問というのは

何かを知ることですけど、

分からんものを知ることじゃない

だろうと思いますね。

 

分かっておると

思っているものを知るんだ。

分かっておると思うものを

吟味してみると、

分かっておらんのや。

分からんものを尋ねていく、

そういう探求じゃないと

思いますね。

そういうものは客観的真理を

求める科学というもんでしょ。

分からんものを知る

という意味じゃない。

すでに分かっておると、

一点の疑いもなく肯定している

ものを吟味するわけです。

知ればそれは分かっとらんです。

分かっとらんという証拠は

どこにあるかというと、

それで苦しんでいますでしょ。

 

だからまあ、

苦しんどらん衆生、

人間には必要ないんでしょう。

むりにごり押しに、押し付ける

必要もないんでしょう。

 

生きることが苦悩であるという

そういうところに……。

そういうもんで

人生というものがなければね、

なにも学だの仏道だのという

必要がない。

生きるというのは苦悩でしょう。

だから

無生ということは客観的真理

というような意味じゃない。

自己自身の存在を自覚する

ような真理や。」

 

というように述べておられます。

学んだ智慧が外に向くか

自己自身の内に向くかで

大きく変わってきます。

いつもノートの初めに書いている

言葉で講義の中のどこかで

出てきた言葉です。

 

「聞法とは

自己を吟味することであって、

法が聞こえたことは

何かが分かったのではなく、

分かったと思っていたことが

思い違いであったことに

気付くことである。」

 

ということですけど、

ちょっとぐらい間違っていた

というのではなく

頭の先からつま先まで

全部間違っているのですよ

と言われました。

一切が顛倒している

と言われてもなかなか

そうは思えませんが

この頃になって振り返ってみると

よくも厚かましく

俺が俺がといって

生きてきたとぞっとすることが

あります。

 

自分を剥いていく智慧は

厳しくもあり辛くもあり

今までの自分を否定するのが

智慧ですから

本当は見たくないものです

けど、いったん知ってしまうと

どうにも気にかかり

見過ごせないのが智慧という

ことのようです。

 

 

 

 

 

 

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