本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

仏教は自覚の宗教

2023-05-17 20:46:16 | 十地経

この回は録音機が不具合で

音が残っていません

それで、虎頭先生の

「講義録」が内容になって

います

それでエッセンスだけ

ということもあり

数ページで終わっています

 

安田先生は自ら書かれた本は

一冊もないのです

先生の講義を聞きとられた方

によって

最初はガリ版刷りの

簡単なものでした

それが次第に本になり

全集まで刊行されました

その時も

「本にする必要はない」

というのが先生の言葉

だったのですが

「お経もお釈迦さまの言葉に

感動したお弟子によって

作られたのですよね」

という三浦先生の言葉により

刊行されるに至ったようです

 

こうやって書き写すという

作業をしていますと

あらためて

言葉を文字にするという

このご苦労に頭が下がります

 

「広い意味では

衆生も菩仏も菩薩である。

狭い意味では

衆生とは凡夫であるが、

それに対して仏、菩薩は

聖者である。

 

仏とはブッダ、

菩薩はボーディサットバ。

ブッダやボーディの語根は

知る。覚めて知る。

覚知、覚めるというのは、

夢に対して覚める。

知るというのは夢から覚めて

知る。

サットバとは衆生という

ことである。

 

自覚とは、自分で知る。

自分で自分を知る。

自分が、自分で、自分を知る

という三つのモーメント

がある。

知るものと知られるものが

一つであるということで

自覚というのである。

自分が自分において

自分を知るのである。」

 

という言葉で始まっています

 

この講義の折も

一応、私たちも何かしら

ノートを取っていたのですが

感動した言葉が断片的で

こういう一つの文章には

なりません

やはり虎頭先生は

こういうようにきちっと

講義を聞いておられたのだと

感心します

ですから、

『十地経講義』も

虎頭先生がおられなかったら

こういう本にはならなかった

でしょう。

 

しかし、

安田先生も三浦先生に

対しては、ノートを取るな、

私の目を見て聞いていなさい

と仰っておられました

ですから、

一番前の席でひたすら

聞法されていました。

 

本当は話を聞くということは

ノートを取る必要は

ないのでしょう

ただじっと目を見て聞く

感動したものは心に

残っているはずです。

 

なんだかそういうことが

思い出されます。

というと

違った言葉ですが

「自分が、自分で、自分に、

頷く世界」

ということも心に

残っている言葉です

「うそかまことか」

ということは本能的に

知っているのだと思います

どんなに「そうだと」

無理やり言ってみても

静かに、

頷かない自分がいる

ということを知っているのも

自分です。

 

 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 四摂法(ししょうほう) | トップ | アマリリス開花次第 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

十地経」カテゴリの最新記事