本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

人間の努力の最後

2019-06-09 21:11:24 | 十地経

『十地経』の第七地は

「遠行地」(オンギョウチ)

遠くへ行くと書きます

どういう意味なのか分からなかった

のですが

ちょうど、講義になかでは

遠行ということは

人間の努力の最後という

意味を表しているということです

 

大学生の頃

『十地経』の講義を

聞き始めたのですが、

その時が第七地のところの

講義でした

何もわからず

十地までいったらあとは

どうなるのだろう、と

聞いたことがあります

すると、ずっと七地を

講義されていますよ、

ということを聞いて

不思議な気がしていました

 

「前から後が出て来ると共に、

また前のものが後のものを生み出す

と共に

後のものが前のものを完成していく

こういう関係ですね

前のものから後のものが出てくると

同時に後のものがまた前のものを

完成していくと

こういう形で初めて道程になる

わけです

そういうことでね、

すうっと直線があるわけでもない

こういうものがつまり

歩みになるわけです

まあ歩むということは

同じことを繰り返しているわけでは

ない。同語反復じゃない。

いってみれば

なにかに対する道程ではない

道程が一切だと

歩みが一切

歩みというところに生きとる意味が

あるんだろうと思いますね、人間の

ただあるもんじゃないですわね

歩んであるんです。」

 

というように講義には出てきます

 

思い出せば

「一服はないんだと!」

とよく言われました

「一服するのは死ぬ時でいい」

なんとも厳しい言葉ですが

現実を見てみると

意識するしないの関係なく

歩んでいるのもだと思います

 

金子大栄先生は

「人生はやり直すことはできないが

 見直すことはできる」

と、おっしゃっています

考えてみると、どうやっても

やり直すことはできません

もとの十八に返してとっても

無理な話です

けど、これでよかったのか

もう一度振り返ってみることは

できます

過去を振り返りその視点で

未来を見ていく

その繰り返しが必要なのでは

ないかと思います

 

常に見直していく

ただ流されていくのではなく

そうすると人生にメリハリが

出てくるのではないでしょうか

 

仏様というのは

人間の到達点の姿です

ですから

仏を拝むということは

到達点の自分を拝む

到達点から自分を見直していく

ということが拝むということ

ではないでしょうか

 

到達点に向かって修行するのですが

その自分は

常に到達点から見直されている

ということでしょう

 

面白いもので、

迷いからさとりへ向かうのですが

迷った心では

さとりは分からない

さとった心でしか

さとりは分からない

しかし、

今いる自分は迷いの世界です

その迷いの世界にいる自分が

仏の心をいただいて

修行に励むのです

迷いの心では修行はできない

 

ここが微妙な心なのですが

『十地経』の第一は「初歓喜地」

初めて歓喜したというのです

何に歓喜したのか

無著(ムチャク)という方は

初めてエゴを克服することができた

これが歓喜だと述べておられます

歓喜の心があるからこそ

歩みが始まるのです

 

だから、

「人間の努力の最後」

ということは

もう何も努力しない

ということではなく

努力無功用(ムクユウ)という

努力しているという意識が

なくなったということです

そこによく出てくる

「自然」とかいてジネンと読む

自然という世界が開けてくる

のでしょう

だから、死ぬまで歩み続ける

これが自然(ジネン)ということだと

思います

 

だから七地から第八地へ

という歩みも

歩みは無限であるということを

述べているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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