本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

歴史を背負うて子供は生まれてくる

2023-02-06 21:29:45 | 十地経

自分は自分の業に泣く

ということをよく

聞いていましたが

どうにもならない自分の業に

思い知らされます。

 

講義の中でも

「みんなが、

生まれたときに、

白紙で生まれてきとらん

のです。

生まれたとき、

皆違っとるんです。

さあ、

子供にその責任が負えますか

 

仏教では、

宿業というんですが、

今日の実証科学では、

遺伝というんです。

遺伝体質ということがある。

もう

歴史を背負うて

子供は生まれてきとる。

 

そんなところで、

我々が教えるというような

ことがどれだけできますか。

もう、千分の一、万分の一

ぐらいの仕事ですね、

教育といっても。

それは小さいことしか

できんのです、

人間というものは。

 

だけど、

課題というものは

そんなものじゃないんです。

課題は限度がない。

そういう衆生でも皆、

絶対円満な平等性を

もっとるんだ。

入学試験に及第した子供も

そうでない子供も、

皆如来なんだ。

 

その本能をもっとる。

欲求不満がそこにあるわね。

そういう一つの、

まあ、

理想主義でいえば、

それは我々の責任だと

いうけれども、

もっと如来の立場からいえば

責任じゃない、

願ガンなんです。

願というものは、

できることに

願を起こすんじゃない。

 

できなければ

願をやめると、こういう

わけだ。

できるという見込みのついた

ものを願という。

できんものをやるというのは

無謀じゃないか。

 

そうだ、

無謀を承知の上ですわね

本願というのは。

できるだけのことをやる

というのは理性や。

できんことをやるといのは

理性からいえば、

無謀な話です。

そうじゃないんです。

 

できる、できんを超えて、

やらずにおれん

というのが願です。

そのひとつの祈りといっても

祈りという言葉では

足らんほど、

なるほど願というのは

渇仰ですわね。

情熱的な祈りです。

 

そういうものの基礎の上に

人間は成り立っとるんです。

そういうものの願に祈られて

人間が成り立っとるんです。

 

我々は、

我々にそうできんけど、

その願に同感することに

よって

できんままに救われるんです

子供を救うんじゃない、

むしろ、

教師が救われていくんです、

その願に触れて。

 

だから、教師自身も、

できる、できんを超えてやる

という具合に立ち上がって

くるわけです。

できるだけのことをやる

というのは、

それは月給泥棒や。

これだけの努力に対して、

これだけの報酬を求める

というだけの話です。」

 

十地経の講義も

洛南高校の先生方が

中心でしたので

安田先生も常に教育という

宗教と教育じゃない

宗教教育なんだ

宗教を根底に据えなければ

教育はできない

そういう立場で話されました

人願が修道するという

それが教育だと

 

この問題はいつになっても

気になり外すことのできない

問題です。

 

 

 

 

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