本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

一大事を発見する

2024-07-08 19:41:33 | 十地経

「やまいこいぼう

    よくいなり」

ということを言います。

東寺の朝参りをして、

「今日はお山してきます」

といって、

稲荷山へ行かれるのです。

最近はどうでしょう、

そういう方も少なくなった

のではないでしょうか。

 

病は東寺のお大師さんへ

金儲けはお稲荷さんへ

ということです。

やはり健康で金儲けする

これが身近な関心事です。

どんなにお金があっても

寝込んでいたら

お金の使い道はありません

また健康であっても

お金がなかったら

自分のしたいことが

出来ないということも

あります。

 

まあそういう

関心事もありますが

人間の究極的関心事は

どこにあるのでしょうか。

 

安田先生もそういう

世俗的な関心事を疎かに

しないで、

そういうところにこそ

本当の関心事が眠っている

と仰っておられます。

 

「僕が昔会ったティリッヒ

という人。

あの人が

アルティメイトコンサーン

(ultimate  concern)

ということをいうんです。

究極的な関心です。

関心ですね。

関心といいますか、関り

ですね。

 

宗教心といってもですね。

稲荷さんに参っとるのも

宗教心といってですね、

分からんです。

そりゃ弘法大師にみんな

お参りに来ています、

善男善女は。

みな宗教心でないとは

いわんです。

あそこでも二重なんです。

何か表面からみると、

病気を早く治してもらいた

いとか、何とか頼みます

というわけです。

何かその人は意識して

いないけど深いもんがある

んでしょう。

 

この間、僕の所の近所で、

親一人子一人の家族が

あったんです。

母親一人、子供一人

小学校の三年生です。

ところが母親がえらい重病

絶えず病気に悩まされて

もう生きる力がない

というような難病で。

それで自殺したんです。

 

それを見て、

一緒に寝ていた子供がね、

近所の病院から飛び降りた

死んだんです。

そして

その懐に文章書いている

『家に運んでくれ』と

『家ではお母さんはもう

死んでいる』と

『私をそこへ運んで連れて

帰ってくれ。誰もみんな

親切でなかった』

と書いてある。

 

あっちこっち小学校の

三年生の子供が、

かけずり回ったんでしょう

医者を呼んでこようと思っ

て。

今日は日曜だといってね

どの医者も来てくれなんだ

それでとうとう死んだんで

す。それで自分も、

枕がその横に、

母親の死んだ横に置いて

あったというんです。

一緒に寝とったんでしょう。

 

その小さい子が食事も作る

しね、

母親は寝とるんだから。

それでまあ死んだんです。

そういう事件があって、

えらい胸の痛む話です。

 

その死んだとこにね、

その翌日から花が立ててある

菓子も供えてあるし、

牛乳も供えてあるんや。

今日はもうやめになったかと

思って、通ってみたら、

やっぱり花が立っていた。

もう大分なりますが。

 

まあ何ともいえん、

もうどうしてみようがない

けど、その方法がない。

会ってみたところで、

色々言ってみたところで、

誰も不親切であったという

子供の言うことを繰り返す

だけであって、

後の祭りです。

 

あんな時に、

ああいうところに原始宗教

というものがあるんじゃ

ないだろうか。

どうしようもないけど、

そのままに放っとくことは

できないんです。

絶えんでしょう、

あの花は。

絶えるはずはない、

問題が解決せん限りは。

 

ああいうような、

最後は何かどうなるという

もんじゃないんだろうか、

人生というものは。

最後はそういう何か祈り

みたいなもんでしょう、

人生というものは。

 

あの原始宗教という、

あれ原始的なもんです。

教理もないです。

『十地経』も何もない

です、あの宗教には。

 

あれはやっぱり、

ああいうものを内面に

深めていくところに

本当の宗教というものが

出て来るじゃないでしょうか

 

ああいのは、原始的な

もんです。

放っておけば、

安価なものになってしまう

ここらに、

弘法さんに参ってくる人も

みんなあんなもんです、

表面から見れば。

けど、

その内面は非常に深いもの

があるじゃないか。

 

それで人生の問題は

最後はどうにもならない

もんじゃないでしょうか。

そのどうにもならんものを

引き受けていく

という以外にはないんです

 

あれもしかし

よほど人間の心を打ったん

ですね。花や菓子が絶えん

ところを見ると。

あそこに教理もなにもない

のですけども。

 

とにかくその一大事という

ものがね。

それを表す言葉はなかった

んですけど、

一大事見つかるというと

ですね、むしろ死ななければ

ならないけど、

死んで行けるんじゃない

でしょうか。

一大事が発見されたら。

 

死しても後悔のない道

というような、

それ以外に道ないでしょう。

それ以外のことは

どうにもならんじゃない

でしょう、

一大事を発見する以外に。

 

あれは昔だったらあそこに

きっと地蔵さんが立った、

今はそんなような教養が

なくなっているから、

あんな牛乳瓶に花生けて

パン供えてるんです。

ただもう祈るということ

しかない。」

 

長くなりましたが

こういうところに本当の

宗教心の在りかがあると

思うのです。

簡単なことに深いものがある

ということをいいます。

それを縁として

どのように深めていくか

それが私たちの問題では

ないかと思います。

 

 

 

 

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