「双行」(そうぎょう)
ということが第七地の中心
課題のようです。
一つの講義が終わり
そして次の講義でも双行と
いうことから始まります。
第七地の内容を四つに分け
ています。
1.楽無作行対治差別
ラクムサギョウタイジ
第六地に停滞する心を
対治する。妨げるもの煩悩
を対治する。
2.彼障対治差別
カノショウタイジサベツ
未熟を対治する。
無量にして
自然ジネンになるまで対治する。
3.双行 ソウギョウ
無量・自然となった状態。
4.前上地勝
ゼンジョウチショウ
前の六地以前にも勝れ
後の上地(八地以降)にも
勝れている。
ということが大きく四つの
内容です。
そこで、双行ということが
よく繰り返しでてきます。
経典では「双行」という
短い言葉ですが
その内容は深いものを
持っています。
内容が深いほど言葉として
は短いといわれます。
双行とは止観、
止と観です。二つの行、
この止観の行が完成する
のが七地ですが、
というより仏教全体が止観
といえます。
最初から最後まで止観です
止はとどまる、
観は見るということです。
詳しくは
もろもろのおもいを止めて
心を一つの対象に注ぐ
ということが「止」、
それによって、
正しい智慧を起こして
対象を見る「観」という
ことです。
お釈迦さまの時代、
ヤサという青年が
「あぶない、あぶない」
といって、お釈迦さまの
もとへやってきます。
お釈迦さまは
まあ、座れ、と
ヤサの心を落ち着かせます
理由を聞くと
女性を侍らせ楽しく飲み
浮かれていたのですが、
ふと夜目を覚ます
今まで美しかった女性は
見るも哀れな姿
化粧も落ち服も乱れた
様子なのです。
そのことを見たヤサの心は
すっかり覚めてしまい
お釈迦さまの元へ
飛んできたというのです。
仏教では座禅というように
まず座る、思索するのも
座って行います。
西洋では逍遥学派という
こともあるように、
歩くということが思索の
中心です。
お釈迦さまも
座らせて落ち着いたところで
諄々と教えを説いた
たぶん八正道の教え
というか実践の方法です。
それでヤサも出家して
お釈迦さまの弟子になった
といわれています。
こういうことも一つの止観
の実践のようです。
寺も悩んだ人がやって来る
そういう場所です。
お見えになった時、
どうぞお坐りください
まあ、お茶でもどうぞ、と
その一時が
心を落ち着かせ
自然と心を開き
自身の悩みということを
話すという、
そういうことがあります。
止観ということは
もっと深い内容をもって
いますが、
簡単には、止という
心があれやこれやと
思い患い動揺している
その心を止める。
観ということは
貫穿(かんせん)の義
という意味があります。
貫き穿つ、
ただ見るということでは
ない、きわめてみる
というような意味がある
のは面白い表現です。
講義ではもっと深い内容で
止観・双行ということが
出てきます。
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