仏道修行ということも
いろいろあるようですが
不眠不休の行とか
断食の行など
そういう特別なものも
あるのですが
「威儀即仏法」という
何気ない当たり前のことが
「行」ということもいいます
威儀というと
行住坐臥・ぎょうじゅうざが
四威儀(しいぎ)といいます
美空ひばりの歌に
「行くも住(とま)るも
坐(すわ)るも臥(ふ)すも」
という「やわら」があります
このことも
四威儀を表しています。
講義の中では
「道元禅師がですね、
一寸座れば一寸の仏と
いうことをいってある。
朝は顔を洗う。洗面する。
それが仏行だと。
そういうのを一つの、
威儀というです。
つまり行住坐臥の形式です
そういう人間の行動の一つの
形式を威儀という。
それは形式じゃない。
それが仏法だと。
朝起きて顔を洗うということが
仏行なんだと。
仏になる行じゃないんだ、
仏を実現しとる行なんだ。
仏になった行なんだ。
別にそれは
さとりをうる手段じゃない
目的なんだ。
仏になりたいと
そんなような妄想を
起こしちゃ駄目だと。
こういうわけです。
もう仏自身、
だから、
本当の仏というものは
行仏なんだと。
行としてある。
仏が行ぜられとる
ということが
本当の仏なんだと。
こういうような意味で、
ご飯食べるとか、
便所に行くとかいうのが
仏行なんだと。
つまり
二十四時間の威儀という
ものが、
それが仏道なんだ。
威儀即仏法だ。」
と、このようにのべてあります
大きな誤解があったようです
行というと仏になるため
というような
そうではなく
日々の一つ一つの行いが
仏行なんだと
何でもない当たり前のことが
仏を行じている
そう考えると
一つ一つの行いを
見直さなければいけない
ように思います。
また、「雑事は仏事」
ということがあります。
雑用雑事が即ち仏道なんだと
今朝も、朝早くから
孫たちが海へ行くというので
お弁当作りで余念がありません
手慣れたものでチャチャっと
作っていきます。
矢張り女性というもの
日々の食事を作り洗濯をして
後片付けをして、と
これこそ「雑事は仏事」で
こういうことからも
女性の凄さがあるように思います
女性に敵わないのは
日々の雑事をいかに巧みに
こなしているかということです
行住坐臥
一挙手一投足の行いを
見直していけば
それがそのまま仏道に
なるのでしょう。
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