安田先生の講義の中で
私にとりましては
『十地経論講義』と
『唯識論講義』が
大きな二つの柱です。
といいましても先生には
幅広い講義録があり
全集が発刊されています。
その中で、
『唯識論講義』を読んで
なるほどと頷くところが
ありましたので記します。
アレキサンダーは至る所に
アレキサンドリアという
自分の名前をつけた都市を
造りました。
そして
インドまで来たわけです。
それまではインドの思想と
西の方の思想とは、
それぞれ独立して発展して
来たのですけれども、
アレキサンダーの東征に
おいて、初めてインドと
ヨーロッパの思想が
触れたのです。
仏教の経典の中に
『ミリンダ王問教』という
のがありますが、
あれはその記念でしょう。
仏教僧とミリンダ王との
対話が出ています。
ギリシャの思想とインド
から出た仏教の思想とが、
そこで初めて対話したこと
が語られています。
無我ということに
初めて触れたのでしょう。
無我という考え方は
全くギリシャの人にとって
は思いもよらない考え
だったのではないでしょう
か。
インドの大学教授で
ラクシュミナラスという
人がいまして、
著書に『エッセンス・オブ
・ブッディズム』という
本があります。
今でも私は名著だと
思っています。
その本を私は少年時代、
田舎にいる頃に読んだ
のですが、
その中にミリンダ王と仏僧
との対話について
述べてありました。
そのラクシュミナラスが
述べるところによりますと
人間の他に誰にも依らずに
神のようなものを立てずに
人間それ自身の自覚を
通して人間を超える道が
見出されたところが仏教の
素晴らしさというもので
ある。
人間を通して人間を超えた
人間以外のものの力に
よって人間を超えたのでは
なくて、
人間を通して人間を超えた
ということが仏教の
素晴らしさであるという
ことでした。
「遇い難くして今遇うこと
を得たり」というのは
そういう感動でしょう。
そういう人間の自覚を
通して人間を超えたという
ことは非常にユニークです
ある人に言わせると
仏教は宗教じゃないんじゃ
ないかということです。
というのは絶対的な神とか
他というのもが出てこなく
て、
自分が自分を超えていく
ということです。
今読んでいる
『十地経論講義』も
その十地というのは
私たちが自分の煩悩を対治
していくという道程です。
何もしなかったら
自分を悩ます煩悩という
ものはないのです。
何かをやれば必ず
自分を超えなければ
ならないという問題が
見えてきます。
自分が自分を
自分で超えていく
ということはいかにも
自力の限りのような
気がしますが
そうではなく、
第六地まではやはり
自力の限りを尽くすので
しょう、
第七地は遠行地
行が完成していくという
自力のかぎりを超えていく
そこが自然(じねん)と
いう世界が開けてくる。
まあ、先生の講義は
行きつ戻りつしながら
第七地の所を繰り返し述べ
ていかれています。
ということで
私にとっては
『十地経論講義』と
『唯識論講義』とは
学び尽くせないほどの
大きな行のような存在
なのです。
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