大蒜・忍辱・アホと妙な取り合わせ
のような気がしますが、
全てニンニクのことなのです。
大蒜は食べるニンニク、ガーリック
のことです。
忍辱は六波羅蜜の修行で最も肝要な
忍辱波羅蜜という
堪え忍ぶということです。
「アホエン」というサプリです。
名前がどうも!?
「アホ」とつきますので
阿保を連想してしまい
どうしてこういう名前を
付けたのだろうと不思議に思って
いたのですが、
「アホ」とは(Ajo)と書いて
スペイン語でニンニクノことです
それを研究した方の名前からか
「アホエン」と命名されたとか
ということです。
なんだかんだといいつつ
もうお彼岸が間近にせまっています
お彼岸、彼(か)の岸と書きます。
近くの平等院の造りは
本堂の前に大きな池があります
ご本尊は阿弥陀様
その壁面には音楽を奏でる
天女たちの姿があり
極彩色の画と相まって
まさに浄土の姿を現しています。
此の岸より(この苦しい世界)
彼の岸へ向かって
阿弥陀さまの極楽浄土へ生まれる
そのことが大きな願いだったのです。
阿弥陀さまの手と自分の手を
糸でつなぎ、念仏を唱え
極楽浄土へ行くことを人生の
最大の目標にしたのです。
大きな池は
この苦しみの世界から渡って行く
その修行の段階を表現したのでは
ないでしょうか。
その修行が六波羅蜜といいます。
その六つとは
布施波羅蜜・持戒波羅蜜・
忍辱波羅蜜
精進波羅蜜・禅定波羅蜜
そして最後が、智慧波羅蜜です
忍辱ということは三番目です。
忍辱ということは
普通には堪え忍んで我慢する
ということですが、
この忍は言遍がついた「認」
ということで、
認識の忍ということです。
ただ我慢せよ、ということではなく
物事をよく認識すれば
我慢する時は我慢でき、
もう堪忍袋の緒が切れた
ということにはならないのです。
六波羅蜜の修行も
似たようなことがあって
一歩間違うと修行にはなりません。
布施ということも
人に施しをするということですが
まあ、俗的には
「蒔かぬ種は生えぬ」、
ということがあります。
人に施しをしておくと
廻りまわって自分の為になる
ということであれば
その行は汚れてしまいます。
廻りまわってくる徳を
期待しているのです。
そうなると、自分が汚れてしまいます
本来は、
自分の物惜しみの心を対治する
ということが大きな目的です。
持戒ということも
娑婆を生き抜くにはほどほどに
忍辱も
ならぬ堪忍するが堪忍
といって我慢しておけば
大風は通り過ぎていく
我慢してこそ本当の我慢だと
精進も
稼ぐに追いつく貧乏なし
何でも一生懸命やれば
貧乏せんで済む、と
一歩間違えば単なる世渡りの術と
なってしまいます。
すべて、あてにして働くと
その行が汚れてきます。
計算通りにならなかったら
腹を立ててしまします。
だから幸福追求を波羅蜜とは
いわないのです。
この娑婆(此の岸)の延長線上に
浄土(彼の岸)があるのでは
ないのです。
浄土を捨てて彼岸へ行く
そこが大事で、
平等院も前に大きな池があるのです
此の岸(迷いのこの世界)と
阿弥陀さまのいらっしゃる浄土とは
一線を画しているのです。
六波羅蜜でも
最後の智慧波羅蜜が大事で、
智慧がなかったら
単なる、世渡り上手の幸福追求
になってしまいます。
智慧があるからこそ
自分自身の本当の姿の認識ができ
この世界を厭い
六波羅蜜の行が始まるのです
家康の旗印も
「厭離穢土・欣求浄土」
ということです。
この世を厭い離れ、浄土を希う
そこに家康の本当の願いがある
のではないでしょうか。
自分自身の物惜しみの強さ
人から借りたことはすぐ忘れる
人に貸したことはいつまでも
覚えているというように、
また決まりも人が見ていなければ
破ってしまう。
我慢できなくてすぐに腹立ててしまう
ちょっとした隙にすぐ怠けてしまう
そういう本当の自分自身の姿が
見えてこそ
六波羅蜜の修行に励めるのでしょう。
私たちの延長線上にあるのは
幸福追求で、
自分の姿の再確認から
(そこが智慧波羅蜜でしょう)
始まるのが本当の修行のように思います。
此の岸と彼の岸の間に
池があるということは
大きな意味があるようです。
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