本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

直心是道(じきしんこれみち)

2020-08-07 21:09:16 | 住職の活動日記

ハッとさせられた言葉です

心が素直になって行くところが

道である、というのです。

宗教心といっても具体的には

素直な心ということです

誤魔化してうまくやっても

その誤魔化したことを

ちゃんと知っているのは自分です

嘘をついても

一番先に聞いているのは

自分の耳です

自分が嘘をついたことを

黙って聞いているのは自分の耳

何だか怖い話です

けど、調子よく嘘をつきます。

 

ですから、修行とは

自分の心が素直になっていく所

そういう意味では

「道という言葉に迷う事勿れ

 朝夕己が為すわざと知れ」

という言葉もあります

 

生きていくうちに知らず知らずに

色々の鎧やら飾りを

つけて行くものです

つまり肩書やら財を持つのも

そういうことでしょう

そういう物を捨てきる場所

そういう束縛からしばしの間でも

離れることができるところが

道といわれるものでしょう。

 

東寺の東門を入る所に

大きな石碑が立っています

「真言宗根本道場」

真言宗の根本の道場であると

掲げてあるのです

そういう場所もありますが

身近なところでも

草引きでも、落ち葉掃きでも

一心不乱にやるうちに

心が素直になって行く場所で

あればそこは道場なのでしょう。

 

道ということも

倶舎論(クシャロン)という中には

「道とは涅槃(ネハン・さとり)に

 往く路であり、

 涅槃の果を求めるための

 よりどころ(所依)である」

と書いてあります。

 

また、仏法ということも

仏道ともいいます

訳し方によっては

法ということは道とも訳されます

法ということはただ教えという

観念的なものだけではなく

そこには修して行うという

実践的なことを含んでいるので

法ということは道と同じ

意味になるのです。

 

心が素直になれないのであれば

どんなに経典を読んで

賢くなっても

それは賢い凡夫になるだけで

仏道修行にはならないと思います

今まで身に付いてきた汚れを

薄皮をむくように一枚ずつ

剥いで行くのが修行でしょう。

 

そして素直な心(直心)を

取り戻していくのです。

ということを

自分に言い聞かせているのです。

年とともに自分の身に付いた

汚れを落としていくのは

なかなかつらいことです。

 

 

 

 

 

 

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