一休さんの歌に
「釈迦といういたずら者が
世に出でて
おほくの人を迷わするかな」
というのがあります。
一休さんらしいというか
変化球でズバッと真理をついている
ように思います。
「諸行無常」と
私は聞きなれているせいか
何の抵抗もなく
言っているのですが、
しかし、
よく考えて見ると
ゾッとする話です。
自分だけは変わらないつもりで
生きています。
よく、お年寄りに
(自分もそうなのですが)
お聞きすると
気分は娘よ!!
という答えが返ってきます。
不思議なもので
鏡で自分の顔を見ると
皺くちゃになった顔に驚くし
道を歩いている時など
ビルのガラスに映ったわが姿を
見ると、こうも変ったのかと
ビックリします。
鏡とかを見ないで生きていると
気持ちだけは昔のままで
いるのです。
そこに向かって
「諸行無常よ!」
世の中の娘が嫁と花咲きて
かかとしぼんで
ばばと散りゆく
といわれるものなら、
そんなことはない、と
否定しつつもどこかしら
受け入れざるをえない
気持ちもどこかにあります。
諸行無常とは
本当にひどい話です。
また残酷な事実でもあります。
そういうことを言う
お釈迦さまですから
折角のんびりと楽しくやっている
私たちに冷たい水を
頭からかけるようなものです。
本当にいたずら者ですし
事実を見せられ迷ってしまいます。
まわりで
知った方が亡くなって逝かれます
先日もロックンロールの方が
シャギナベービーとか言って
逝ってしまわれました。
聞くと年もそう変わらない
ボーっとして生きていたら
10年なんてあっという間
そいう自分も10年たてば
80を超えてしまう。
思えば嘘みたいな話です。
かと言って
まだ死にそうにないように
思っているのです。
しかし何があるかわかりません。
出来るだけ事実を見ないように
現実を忘れて
楽な楽しいことばかり思って
いたいのですが
諸行意無常です
一歩一歩時間は進んでいます
何時なにが起こるのか分からない
時は流れていく
これはクロノスという時間
そのなかに
カイロスという実存の時間
永遠にふれる今という時間
有限ではあるけれども
自分の生きている今
ということを考えると
ただ流れていく時間ではなくて
止まったような時間が
見い出せるように思うのです。
一休さんも
多くの人を迷わした
と言い切れる、ということは
その反対に迷わない世界を
見い出したということでしょう
そういう大きな問いかけが
込められているように思います。
迷っていることも分からず
生きているのが私たちですから
よく、煩悩が多くてとか
迷いに迷ってとかいいますけど
それは何か都合のいい道はないかと
取捨選別しているだけで
うろうろしているだけで
迷っている訳ではありません
迷いが見つかったということは
その反対の
迷わない道を見出している
ということです。
自分を知るということも
浅くも捉えられますし
また深くも見つめていくことも
できます。
せっかく頂いたいのち
どこまでも深く自分を見つめて
いくことがより豊かな人生に
なるように思うのですが、
地位や名誉や金や欲や
といっているうちに
自分を見失てしまいます。
そういう皮肉も込めて
一休さんは詠まれたのでしょう。
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