本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

波羅提木叉(はらだいもくしゃ)

2024-09-10 21:03:29 | 十地経

波羅提木叉、プラティモークシャ

律のことですけど、

あえて訳さず音写した言葉です。

お経の中ではこの言葉で

よく出てきます。

仏教には戒律ということが

ありますが、熟語として使う場合

と戒と律というように分けて

使う場合とがあります。

 

簡単には、

戒というのは自分で自分を

いましめていくもので、

律というのは

教団とか僧伽ソウギャの中での

決まりです。

大きく違うのは

律には犯したら罰がある

ということです。

「随犯随制」ズイハンズイセイ

といって、

お釈迦さまの時代最初は簡単な

ものだったのでしょうが、

弟子たちが犯すたびに

お釈迦さまが定められていった

ということがあります。

 

三蔵法師の「三蔵」ということは

経・律・論といって

お釈迦さまの説かれた教えが経蔵

で、教団として守っていくべき

決まりが律蔵、

経を解釈したものが論蔵という

ことです。

三蔵法師はこの三蔵をおさめた人

ということですが、

三蔵法師といえば玄奘を

指すようになりました。

 

経と論があればそれいいような

気もしますが、

律ということがとても重要

なのです。

鑑真はこの律を伝えるために

何度も渡航を失敗しながら

艱難辛苦の末やっと日本へ到着し

その時には鑑真の眼は見えなく

なっていました。

それで、唐招提寺において

日本に戒を伝えたのです。

 

今では、法要というと

先祖供養とか願い事を叶える

祈願法要ということが盛んですが

古い時代は

いかにして戒を保つかという

ことが法要の中心でした。

奈良の東大寺のお水取りも

修二会シュニエという、悔過ケカの

法要です。

つまり、罪を懺悔するお勤め

なのです。

 

講義では

「釈尊がその法を残したという

『涅槃経』の場合はですね、

プラティモークシャ波羅提木叉と

いって律のことなんです、律ね。

だから今日の律法ですね。

あるいは法律といってもいい

かも知れんね。

律という一つの法なんです。

 

律の中に定も慧も含んでいる。

これは戒といってもいいですね。

戒律。戒といっても、

戒だけ述べているわけじゃない。

戒の中に包んで止観です、

止観が与えてあるのでしょう。

戒の中に定も慧も包んである。

 

だから戒をやめてもう、

手っ取りばやく定と智慧とを

得るというような、戒はやめやと。

そういうわけにかんのです。

戒をくぐって定に触れ、

定によって慧というものを

明かにしていくんです。

 

戒定慧というものは、

横に並んでいるものじゃない。

縦に連続しているものです。

何でも縦に連続しなきゃ、

行ということはいえんのです。

 

だからそこに、波羅提木叉、

律のことを、

それは自分が今死ぬのは色身、

色身ですね。肉体。

仏陀の肉体は今入滅する。

が、しかし、

残した波羅提木叉は法でしょう。

これは法身です。

 

仏の残した法が実は、

それが法としての仏なんだと。

法身です。

色身は入滅してもですね、

汝等が法を行ずるならば、

法身は永遠不滅なんだと。

汝等が法を行ずる時、

法身は生きとるんだと。」

 

お釈迦さまの最後の言葉も

戒律をよく守りそれを行ずる

ならばそれが仏だと、

いうことです。

戒律・波羅提木叉それが

法身なんだということです。

 

 

 

 

 

 

 

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