遊びに行くと書いて「遊行」
(ゆぎょう)といって
ただ遊びに行くことでは
ありません
お釈迦さまが各地を廻られる
のを遊行といいます
「遊」という字も
語源的にはのんびり歩く
ということです
そういうことを講義で
「ゴータマブッダ(釈迦)が
生まれた当時には、
ゴータマブッダのような人が
沢山いたわけです。
それを沙門といっています。
沙門、婆羅門ということが
よくいわれるでしょう。
そういった点では、
ギリシャによく似た点が
あります。
プラトンとか、
アリストテレスとか、
ヘラクレイトスとか、
そういう思想家がたくさん
出てますね。
あれは皆、哲学者とか、
知恵を愛する人、
こういう名前で呼ばれている
そういうものが、インドでは
沙門(シュラマナー)です
だから
無数の沙門がいたわけです。
遊行という、
遊ぶという字と行くという字を
書いて遊行者という、
ヴァンデルンwandernですね。
ちょうど、プラトンの、
あの当時は寺というのではない
学校ですね。
プラトンの学校はアカデミー
という。
アリストテレスの学校は
これを翻訳して逍遥と
いうでしょう、逍遥学派と。
つまり逍遥という概念は
遊行というんでしょう。
遊行するということが
なぜ大事かというと、
思索するのにいちばん便利な
姿勢なんです。
思索するのにいちばん自然な
姿勢が遊行なんでしょう。
だからして、ソクラテスが
話しに行く場合、
遊行していくんですが、
思想がやむというと
とどまるんです。
思想が展開するとまた
足を運ぶ、
思想が行き詰まってしまうと
足が止まってしまう。
新幹線で来てすぐかえる。
それは商業、経済の用件なら、
それですむんですが。
だから日本人はもう思想が
できんようになっている
のでしょう。
今の日本では、
何でも
仕事になってしまっている。
これは仏教ばかりじゃない。
日本の文化全体から考えても
そういう危険なもので
ないでしょうかね。」
と話しておられますが、
何かしら耳に痛い話です
なんでも用事で済ませてしまう
そして、ついでに
ちょっと話でも聞いて
帰ろうかと。
昨日も少し散歩したのですが
不思議なことに
いつもの道が車で過ぎるのと
歩くのでは見る景色が
違ってきます
歩くスピードというのは
いろいろなもが見え
虫の音とかも聞こえてきます
散歩という字も
散はちる、心が散らばって
集中しないのを「散」
その反対は「定」ジョウです
心が定まる
遊行ということは
定歩ということになる
かもしれません
このような字はありませんが
年とともに
散歩が徘徊と間違えられない
ようにならによう
気をつけて
しっかりした足取りで
歩かなければと
思っています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます