本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

宗教問題とは

2021-02-17 20:10:55 | 十地経

宗教問題というと、なにか

分かったようで分からない

信仰が足りんとか

もっとお参りしなければとか

あるでしょうが、

本当は、自分が問題になる

ということでしょう。

いろいろなことは

知識としてわかっても

肝心の自分自身はというと

誰も教えてくれないし

ただ一人考えても分からない

ものです。

 

講義ではそのことを、

「宗教問題は最初は本能として

あるんでしょう。

前に言ったように、

何か気にかかる。

一番大事なものを忘れとるような

気がするんです。

それは欺けない。

それだから忙しくするんです。

だから忙しくするのは

それはもがきなんです。

自己欺瞞なんです。

問うに落ちず語るに落ちる

といってね、

忙しくしとるということが

何も人から批判されて

ごまかしたというんじゃない、

忙しくしているということは、

実は、

ごまかしを告白していること

でしょう。

 

だから、そういう意味からいえば

非常に普遍的なんじゃないか

人間が宗教的存在として

成り立つということは。

宗教という概念が、

答えとして見るならば、

まあ神とかなんとかもってこんと

宗教にならんように思うから、

それは、

答えとしての宗教であって、

宗教という概念は問なんです。

本来の自己を失った人間が、

自己を回復しようという

要求なんです。」

 

忙しい、ということも

よく口癖のように出てきますが

以前は家内にとって

家庭を第一に考えていると

子どもと遊んで欲しいとか

家のあれをして欲しいとか

いろいろあると思います。

ところが、

忙しい、の一言で

何も言えなくなったようです。

その、「忙しい」を

一刀両断したのは三浦先生です

熊本に帰りお寺も軌道に乗り

そんな折電話がかかってきて

お葬式や法事で忙しくしてます、

というと、

「何を呑気なこと言っとるか」

と檄が飛んできました。

職業坊主ではなかろう

坊主になった第一の仕事は

本当の自分を見つけるためだろう

何の為に坊主になったのか。

と、

まあ厳しい言葉を頂きました。

ついつい忘れてしまうところです

 

それから講義はさらに、

「霊魂というのが

魂じゃないんであって、

願が魂でしょう、人間の。

だから、願というのは

どういうものかというと、

無上というでしょう。

無上ということをよく言うのは

究竟クキョウですね。

この上はないんですから。

だからその願というのは、

究竟的関心やね、

気にかかることです。

究竟的関心なんです、

この願というのは。

それが人間の魂や。

人間には究竟的な関心という

ものが … 。

非究竟的な関心もあるんです

経済の関心とか、幸福の関心とか

知識の関心とか。

いろいろ関心はあるけど、

究竟的関心ね、

そういうものが

根底にあるわけでしょう。」

 

というように出てきます。

究竟(くきょう)というのは

至上絶対の究極を表し最上級を

形容する語。

例えば、最極無上の真理を仏という

形で示して、究竟法身クギョウホッシン

といい、

仏教の至高最終の目的である

大般涅槃ダイハツネハンのことを

究竟涅槃クギョウネハンという。

というように辞書には出ています。

 

また、ティリッヒという方は

アルティメイトコンサーンと

究極的関心というように

いわれています。

いろいろ関心はありますが

最終的に何に関心があるか

ということを考えていけば

やはり人として生まれて

自分自身が分からない

本当の自分自身を知らないで

死んでいくことほど

悲しくさびしいことはないと

思います。

 

 

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