本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

数数修習(さくさくしゅうしゅう)

2016-05-18 21:07:22 | 十地経

「数数修習」、

略して「数習」(さくしゅう)(さくじゅう)

ともいいます。

初めて聞いたのは『十地経』の

安田先生の講義のなかです。

やはり、とても感動した言葉です。

 

本蔵院も先先代の『力の泉』

というハガキ伝道に始まり、

『不動の光』という隔月発刊の新聞

そして、

この度、新しく『数数修習』として

本蔵院の伝道紙が始められます。

 

 

「数」を(さく)と読むのも面白い、

この字も読み方で意味も違ってくる

「数数」サクサクと読めば、何度も、

しばしば、たびたび、という意味になり、

「数数」をソクソクと読めば、

いそがしい、という意味になります。

「修」という字は、彡(サン)と攸(ユウ)から

出来ています。

「攸」は身に降りかかった塵を払う

「彡」は飾りという意味、

そこで、「修」という意味は

塵を払って飾るということから

事をおさめる、という意味になります。

「習」は、ならうということですが

成り立ちは鳥が繰り返し羽を動かし

飛ぶ練習をする、という意味です。

 

「数数修習」は

何度も何度も繰り返し繰り返し

修行をしていくということです。

 

今読んでいる『十地経講義』も

全30巻ほどありますが、

十地経の中でも特に「第七地」

について何度も何度も

講義をされているのです。

修行とか勉強というものは

直線的に階段を上るように

ステージがアップしていくという

のではなく、

行きつ戻りつしながら

円を描くように進んでいくのです。

 

先日のテレビで「東大」に行くには

小さい頃の勉強法は、

というような特集をしていました。

なるほどと頷く点もあれば

ちょっとさびしく思うこともありました。

「東大に行って、社長さんになって

金儲けをしたい」

と、小学生の子供さんが言っていたのです。

 

「フィロソフィー」ということがあります。

『哲学』というように訳されますが

もともとは、

「知を愛する」ということが

語源です。

ですから、

学生という身分であるということは

職を免除されているのです。

昔は制服制帽があったのは

そういう意味だったのです。

学生という時間は短い

ソロバンを外し、

学問を愛してほしいと思います。

 

今は、

十地経に日々浸かっていますので、

一つの講義が終わって

また翌月になると

前月のところから始まる、

一向に進んでいない

ということがわかるのですが、

当時聞いている時は

毎回新しいことを聞くような

毎回感動するような

そういう講義だったのです。

 

今思うと、

安田先生という方

本当に経典を愛し、

繰り返し、前からも後ろからも

横からも、いろいろな角度から

経典を愛して読んでいかれた

一つの言葉でも、

それだけで一つの講義が

完成するというような、

 

「アビダルマ」『阿毘達磨』という

ことがあります。

直訳すれば「対法」ということです。

法に向かうという

仏教学研究というような意味に

なるかと思いますが、

このアビダルマということと

フィロソフィーということは

同じような意味ではないかと

法を愛し、知を愛する

ということでは、

 

以前、水前寺清子さんの歌に

「三歩進んで二歩下がる」

という歌詞がありましたが

そういう進み方かもしれませんが

そこには

頑張って努力する

という意味合いがありますが、

 

数数修習となると

努力の向こう側になる

もはや努力ではなくなり

努力することが楽しくなってくる

繰り返していくことが

愉しみなっていく

経典が身に添いいつもいつも

心の中に浮かんでくる、

 

なんだか観念論のような

気もするのですが

そうではなくやってみると

実践してきた人には

分かる話ではないかと

おもうのです。

 

人生の修行は

「数数修習」

しかないように思います。

死ぬまで「数数修習」です。

 

 

 

 

 

 

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