本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

開経偈(かいきょうげ)

2021-05-20 20:17:35 | 十地経

「無上甚深微妙の方は

百千萬劫にも遭い遇うこと難し

我今見聞し受持することを得たり

願わくば如来の真実義を解し

たてまつらん」

という言葉で始まる開経偈

いつも唱えながら何回唱えても

新鮮に響いてくるこの言葉

仏教の教えがここに

集約されているように思います。

 

法というものには遭い難し、と

あるように

百千萬の劫という時間が必要と

いわれています。

 

講義の中では

「真に自己が自己になる

というような、

菩提心というものによって

自己が自己になるんです。

 

法というものに対しては

遭い難い、値遇という。

法は遭い難い。

それから、

自己というものは、

獲得ギャクトクです。

自己の方は獲得し難いと。

 

自己とは何ぞや。

自己というものはなかなか

獲得し難いと。

やっぱり、

獲得というと、捨てるものが

あるんでしょう。

自己でないものを自己としている

そういうものを捨てるという。

間違った考えを放棄する。

そういう形を通して、

自己が獲得されてくる。

 

頭から自己を肯定しとるんでは

ないんだ。

自己が分からんからして、

自己でないものを

自己としとるんだ。」

 

講義ではこのように出てきます

法は得難いと

自己は獲得し難いと、

そこで十地という段階がある

ということのようです。

 

「十地経で大事なのは、

菩提心が菩提を成就する。

菩提が菩提に始まり、

菩提心が菩提に終わっていく

わけです。

円環を描いて動いているんだ。

その中に媒介するものがある

それは妨げです。

無数の過失だ。

まあ広い意味でいえば罪だ。

我執ですね。

 

こういうのが

展開に大事な縁となってくる。

そうでないというと

十といって立てる必要がない

十あるのは、

人間というものが自己疎外、

本来の自分を失わせるような

ものを人間はもっている。

その闘いです。

自己が自己との闘いです。

それが十地なんだ。」

 

このようにあります。

菩提は菩提心から出て

菩提になる、というのは

世間心、世間的な関心からは

出てこないということです

不思議なことで

到達点の心は到達点からしか

出てこないと、

志を起こした純粋な心からしか

出ないということです。

 

このところは

第1巻のところで

もう結論が出ていますが

ここから、展開していき

各地ジにおける難関、無数の過失

自分の我執との闘いが

出てきます。

 

難しいようにも感じますが

目的をもってやり始めれば

やるべきことが見つかり

自分の課題が見えてくる

はずです。

スポーツ選手にしても

優勝したからといって

これでいいとは仰いません

次のやるべきことが見えてきた

という風にコメントされます。

 

そのように修行も

やればやるほど

終わりが見えるのではなく

次の課題が見えてくる

ということが修行だと思います。

 

 

 

 

 

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