「実際」という言葉、
普通には
「あの人は実際に良くできた人だ」
というように、
「ほんとうに」、というような
意味で使います。
調べてみると、
「理論と実際とは異なる」
とか、
「実際にやってみて驚いた」
という例を出して、
現実のありさま。事実。
という内容を持った言葉です。
「実」という字も
古くは「實」と書き、
貝が付いた言葉です。
家の中に財宝(貝)みちる
ということです。
「際」も、
交際とか国際交流とか
際限(きわ)、水際ということもあり
結構広い意味で使われます。
ちょっと驚いたのは、
『十地経』の中にも出てきて
仏教用語としても使われる
ということです。
「この菩薩は、実際行を行じて、
しかも寂滅定を証せず。」
という形で出てきたのです。
これはどうも私たちが普段使う
意味とは違っている。
やはり仏教辞典には
「真実際極」の意とあります。
これが略されて、
「実際」となったのです。
事実の究極ということで
本当のあり方は何か
ということを求めていくと
究極の存在である、という
真如ということを表し、
それは涅槃のさとりを表す
ということが、
「実際」ということの
意味になります。
私たちも、特に最近は情報も多く
実に沢山のことを知っています。
逆に、
知りすぎて、
本当のことから遠ざかっている
ともいえるのではないでしょうか
修行とは
肝心要のただ一つのことを知る
それを求めていく、
ということです。
善財童子(ぜんざいどうじ)
という方は、本当のことは何か
そのことを知りたくて
師を訪ねて、歩まれます。
ついに53人の師を求めて
結局は元の師のところへ
もどってきた。
という話があります。
(そこから、東海道53次も
生まれたとかいわれています)
やはり修行とは、
本当のことは何かということを
求めて勤めるのです。
本当に知るべきものの際(きわ)
アルティメイトコンサーン
という、究極的関心
いろいろな事を求めているのですが
心の底では
ただ一つの嘘のない世界を
求めているのでしょう。
実際ということをほんとうに
と使うのも、
ある意味、真実の際ということで
究極の本当のこと
ということになるのではないでしょうか
何気なく使っているこの言葉も
案外本当のことを求めているという
暗示なのかもしれません。
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