普通は修行というと階段を
上がっていくように
一つクリアしたら次へ
そしてそれが出来たらまた次へと
順々に上がっていくと
ステップアップしていくのです。
ところが
仏教における修行はそうではなく
円を描くように
完成したところから
またはじめを見直していく
そうやって進んでいくように
思います。
私たちも加行という行をやる時
まず最初に「礼拝加行」といって
仏に対して五体投地する
ことから始まります
朝から晩までひたすら五体投地
仏の前へ身を投げ出す
ということです
やっとそれが慣れた頃、
それにプラスするように
十八の印を結ぶ「十八道」という
行が始まります
加行というくらいですから
次々加わっていく
とことでしょうか
その「十八道」が身に付くと
それに今度は「金剛界」の作法
が加わってきます
礼拝+十八道+金剛界と
それが完成されると
それの護摩が加わり
最後に胎蔵界が加わってきます
寝る間がないじゃないかと
というくらいハードになって
くるのです。
大学生の頃
安田先生の『十地経講義』を
聞き始めました
その時はちょうど「第七地」です
何も分からないまま
七の次は八、八の次は九と
十地まで行ったら
次は何をやるのだろうと
隣の方に聞いたら
「ずっと七地ですよ!」
と、その時は
何か不思議な気がしていたのです
ところが
今読んでいる所は
ちょうど、七地から八地へ移った
ところなのですが
その八地から再び
初歓喜地の最初の話が
出てたのです
八地という立場に立って
初地を見直していく
えっ!また元に戻っている
と思われるかもしれませんが
そうではなく
なにか、
ドリルで穴をあけるように
深まっていく感じがするのです
そういえば、
東海道五十三次の話は
題材は仏教の物語で
善財童子(ぜんざいどうじ)が
仏道を求めて修行の旅に出る
最初の師匠から次々と
名立たる師を訪ねて行く
その度ごとに教えを乞い
自分を明らかにしていく
そして最後にたどり着いた師が
最初の師であった、
という物語です。
また、仏道修行は
到達点からの出発とも言います
というのは
修行に入る前には
仏の心を頂いているのです
汚れた心のままでは
修行はできません
仏の心を頂いたから
その感動を初歓喜地といいます
その感動の心で修行する
「初発心時すでに正覚を成ず」
という言葉があります
志を起こした時
その心には仏が来ているのだと
このことは
行に向かうという
若い修行者の顔をみれば
その凛とした顔に驚きます
仏の心を頂かなかったら
修行なんてできるものでは
ありません
そこから、
第二番目は「離垢地」
垢を離れる
つまり煩悩を離れる
六波羅蜜でいえば戒波羅蜜です
煩悩を離れるといっても
その実践は戒律を守る
ということです
今読んでいる所は八地ですが
そこから初歓喜地、離垢地と
再び見直していく
そういう進み方が仏道を学ぶ
やり方なのです
直線的ではなく
円を描くように完成した所から
また最初を見直していく
そうやって進んでいく
こういう修行のやり方は
独特なものかもしれません
しかし、
体操とかスポーツの選手を
見ていても、
常に基本に戻りそこから始める
ということは何か似ているような
気もするのです。
何かそういうところに
一直線に行ってしまうのではなく
行ったところからまた最初を
見直していく
そうすると
自分が持っている問題が
さらに深まっていくように
思うのです。
なんだか進まないようですが
でも、行きつ戻りつ
結構面白いものですよ!!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます