仏教とは何かと問われたとき
その旗印て掲げる「四法印」と
いうものがあります
その第一番目が「諸行無常」と
いうことです
『平家物語』のくだりで
「祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり」
という一文が有名で
諸行無常ということは
誰でも知っています
そして、
すべてのものは常に変化し
ひと時として同じ
ということはないということを
知っています
それなのに
お釈迦さまは誰でも知っている
「諸行無常」ということを
仏教の旗印にされたのでしょう。
というのは
私たちは何となく分かっている
ようで本当は分かっていない
そこのところを押さえられた
のでしょう。
私たちはずっとこのままで
若いままでいたいと願っています
願うだけならいいのですが
願ったようにあると
錯覚してしまいがちです。
その証拠にアンチエイジングに
励みます
いつまでも若々しくありたいと
けれども事実は
確実に一歩一歩おいに向かって
いるのです
若い頃、童顔の私は
何とか渋い顔になりたいと
思っていたのです
30過ぎても未成年に
間違えられたり
何かと一人前の大人として
扱ってもらえないような
苦々しい思いをしていました
ところがです
年と共にそれなりに渋くなるのか
と、期待していましたが
渋さを通り越して
一気に皺くちゃの爺様に
なってしまいました。
しかし、不思議なもので
年賀状を書いていて
その方のお顔を思い浮かんで
くるのですが
中にはもう40年余りお会いせずに
いる方もいらっしゃいます、
頭の中の顔は若い時のままです
ふと、お会いしてみようかと
思ったりもするのですが
たぶんお会いしたとしても
お互い昔のままの姿しか
頭の中にはないと思います
ということは、
記憶の中にある若い時の姿のまま
その方がいいのかもしれないと
思い直しています。
師匠の生き方を思い出すのですが
私の兄によく言っていました
「人間の身体は精密機械
大事に使えば長持ちする
酒は控えめにしなさい」
と諭すように言ってたことを
思い出します
若い頃から酒での逸話も
よく知っていて、兄の生き方が
とても気になっていたのでしょう
若い自分は勢いの任せ
まあ、明日があるさ!と
そのような考えでした。
また師匠の生き方を見ていると
部屋の片づけにしても
夜中に起きて真っ暗い中でも
何がどこにあるということは
頭の中に入っていたそうです
本棚にしてもどの本は
右から何番目と
そういうことも覚えておられ
寝るときは、
明日は眼が覚めないかもしれない
そういう気持ちで床に就いた
ということを聞いていました
天涯孤独で生きてこられた師匠には
明日はないという生き方
今を精一杯尽くして生きる
そのような生き方だったと思います
まあ、明日がるさと!
未来に向かって歩めばいい
というのですが
前だけ向いて「今がない」
明日明日といって今という
この一瞬がない生き方
本当に諸行が無常である
ということを知ったならば
明日があるということは
言えないはずです
それこそ
明日は何が起こるか分からない
だからこそ
このひと時に前生命をかけて
生きるという生き方
そういう時に
無限に流れる時間の中で
今という一瞬をつかみ取る
「永遠の今」エターナルナウ
ともいいますが
時間は無限である
私たちはその有限な
限りある命を生きている
であればこそ
一瞬一瞬、一所懸命に
生きるということが
「諸行無常」的な生き方では
ないかと思うのです。
今日から大掃除を始めました
するとそこに「蜘蛛」がいる
死んでるのかなと思ったら
ゆっくりと長い手足を動かす
なんと、生きている
この寒空、餌になる虫たちは
もういないのでしょう
動く元気もないのかもしれない
そっと取って庭木の中に
放して見ました
ゆっくりと葉の裏に入って
いきましたが
夜になって
外は雨が降り出しました
死んでしまうかもしれません
しかし、
彼は彼なりに一生懸命に
命のかぎりを生きたのでしょう
「諸行無常」を生き抜いて
いったのです。
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