早速講義ですが、
「それから、第二番目は
何かというと、
『無量の世界網』という。
網という字はアミですか、
網という比喩はどうも
よくわからんですね。
これはま、
どれだけの衆生かというと、
誰を救うのかというような
誰も救うんだという意味
ですね。
衆生というけど、
誰を救うんだと、who
という。
そしたらwhereという
ことがありましょ。
どこにおるんかと、衆生がね
衆生というのは、
空中に浮いているもの
じゃない。
衆生というのは、
さっきも言ったように、
世界における存在なんです。
世界における存在が
衆生ですね。
世界網というのです。
衆生を救おうとすれば、
衆生の世界の理解が
なければならない。
ここは、そういう世界網
という、
世界の問題がでている。
その世界の問題は、
広くいえば、環境問題です。
それは
『無量の世界網に入り、
諸仏無量の清浄国土に入る』
と。
その国土は、浄土ですね。
国土の問題はそこから
出とるんです。
世界は穢土ですし、
衆生の住んでる世界は
穢土ですし、それに応える
仏の世界は国土で、浄仏国土
です。浄土です。
浄土というようなものでも
遠い問題じゃないんです。
この現実の世界というものの
祈りなんだ、衆生の。
祈りを起こしているのは
衆生の要求です。
だから、
衆生の要求からいえば、
往生浄土というんです。
応える方からいえば、
荘厳浄土というんです。
荘厳浄土から往生浄土が
起きたんじゃない。
往生浄土から荘厳浄土が
起きたんです。
浄土があるから
往きたいんじゃない。
往きたいという要求に
応えて浄土が荘厳される。
『求めよ、
さらば与えられん』
という言葉が、福音書に
あるが、
打つのは衆生ですし、
響くのは如来なんです。
衆生という、
現実の手でもってですね、
存在を打つんです。
それに対して、
存在が響き返ってくるのが
仏です。仏荘厳でしょう。
だから、
どこということがここに
出ている。
我々の環境の中に、
何か一つ、
どうも逃げだしたいような
環境の中にですね、
悠々と安んぜられるような
心境を見出してくるんです。
心が開いてくると、
昨日まで厭うておった穢土の
環境が、
浄土という心境に変わって
くるんです。
心境を開くんだ。
自殺でもしたいという、
逃げだしたいという世界が、
満足して、悠々と生きられる
心境を開いてくるんです。
この環境の別のところで、
その心境を開くんじゃない。
どうにもならん環境に、
どうする必要もない
心境を開いてくるんです。
そういう近接の問題やね、
浄土というものはもね。」