果分不可説(カブンフカセツ)
因分可説(インブンカセツ)
ということが出て来ます
果の分は説くことができない
ということですが
果というのは、
結果ということで
人間の最終の結果
つまり仏を指します
仏は
教えを説くことが出来ない
ということです
それに対し
因分可説というのは
因の分ですから
仏に成る前
菩薩の位を指します
分というのは位といっても
いいのです
仏の位、菩薩の位と
それを、仏の分、菩薩の分
というように言うのです
よくお寺には
三尊の形というのがあって
たとえば、
阿弥陀如来の場合は
両脇に
観音菩薩と勢至菩薩が
おられます
釈迦如来の場合は
文殊菩薩と普賢菩薩です
阿弥陀如来のはたらきを
あらわすのは
観音さまと勢至菩薩です
このように
阿弥陀如来の教えは説くのは
観音・勢至の両菩薩です
それで、講義では
「仏本願力という言葉は
『十地経』でも最初に出とる
これはなにも、
仏本願力というけれど、
仏は黙っている。
絶対沈黙しとるんです。
法身は沈黙しとるんだ。
つまり、果分は不可説です。
果分は説くことができない。
語るのは、因分が説く。
菩薩において語られる。
菩薩という世界で如来は
語られるものになるわけです
如来を語られるものに
するには、
菩薩の位が必要なんです。
体として語られるんです。
如来そのものは、
沈黙が面目なんだ。
法身が説法したら、
かえって意味がなくなると
思うんです。
如来は言わん。
言わん如来を菩薩が語る。
そこで初めて、
立体的になる。
菩薩の世界はいつでも
背後に如来の、
いわゆる不可分の世界
というものを
背景としてもつということが
非常に大事なことです。
不可分の世界というものを
背景としてもつ。
その背景を
前面にあらわしてくるときに
『無量寿経』になる。
『十地経』は、
背景は背景として、
ちゃんと控えてある。
『十地経』は、菩薩経です。
菩薩道の経典です。」
というように出てくる
のですが、
ふと思うと
私たちがお説教をするとき
ご本尊に尻を向けて
話すように思っていたのです
が、この話を聞いてみると
ご本尊を背景として
住職が語るのでしょう
なにか、
そういう意味があるように
思います。
また、分というのは
仏のさとりの一部分という
意味があるようです
唯識に出てくる
「満分清浄者」の
「満」は仏であり
「分」は菩薩です
分には分斎(ブンザイ)と
いう意味があって
分位、くらい、という
ことになります。
この果分不可説・因分可説
という問題もなかなか
面白い問題です。
今の社会でいえば
社長は果で、社員は因と
考えてみても
面白いのじゃないでしょうか
そこが混乱すると
色々問題も出て来るようです