本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

三蔵法師

2020-01-31 20:48:06 | 住職の活動日記

三蔵法師のような姿をした友人の

夢を見た、と

三蔵法師とはどのような方ですか

というお尋ねがありました。

 

仏教の経典をまとめたものを

三蔵といいます

その三つとは「経・律・論」

お釈迦様が説かれた教えが

「経」つまりお経です

そのお経を解釈したものが

「論」ということで

今日には必ずその経を解釈した

論というものがあります。

 

般若心経がある『大般若経』の

論は『大智度論』といいます

そのように経には必ず「論」が

あるのです

 

ところが「律」となると

独立した経典で

お釈迦さまも亡くなった後は

「戒律がわが師である」

とおっしゃっています

戒律を能く保持して修行に励む

ようにと

弘法大師も遺言にあたる

「御遺告」(ごゆいごう)に

「戒律を自分の師とせよ」

ということを述べておられます

 

戒律と一つのものですが

厳密には、戒と律と

二つに分かれています。

戒というのは、

自分で自分を諌めていくもの

律というのは

法律とか旋律とかあるように

外から規制していくものです

 

「戒」という自分で自分を律し

それから、律という外からの

教団でいえば集団として守るべき

決まりでもって、

自分の内からの戒と

外からの律という二つで

自分自身を修め、修行に励む

ということになるのです

 

戒ということは「性戒」とも

いわれて、

外からのこうしてはいけない

というような意味じゃなしに

人間の人間性として持っている

ような戒なのです

 

今は、レベルが下がったというか

この「性戒」にあたる部分が

低くなったように思います

法律に触れなければ何をしても

いいというか

都合の悪いことは

なかったことにして

消去してしまう

そういう人間性として保つべき

自分自身の内面にある戒

これはしてはいけない

という人間性としての戒(性戒)

がなくなったようです。

 

しかし、戒律ということは

してはいけない、という

外からがんじがらめに自分を

縛るものではなく

本当は

自分の持てる力を最大限に

発揮するために

エネルギーの分散を防ぐもの

でもあります。

 

目的もなくふらふらしている

子どもでも

何か一つ目的ができると

自然に、

他にあった関心がなくなり

一つのことに集中していく

ものです

テレビ見たりゲームしたりと

散り散りになっている心が

目的をもつとそれに向かって

心も変わり行動も

変わっていくものです

 

だから、戒律というと

厳しく自分を縛るものと

思いがちですが

そうではなく

自分の持てるエネルギーの分散を

防ぐというのが

本来の目的です。

 

三蔵法師ということも

仏教の経典すべてを修めた

という意味で「三蔵」という

名前を頂かれたのでしょう。

 

三蔵という仏教の経典

からみれば、

万分の一もいや億分の一も

学んでいないのでしょう

八万四千の法門といいますから

遥かに深く広い世界を

もったものが仏教の経典です。

 

 

 

 

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