本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

三昧(さんまい)

2020-01-29 21:13:49 | 十地経

芸術三昧とか創作三昧など

三昧という言葉も色々な場面で

使われるようです

この三昧ということも

インドの言葉の音写でサマディーを

そのまま漢字に当てた

インドではやはり瞑想の文化で

禅ということもドゥヒヤーナを

禅那と音写しそれが略して禅と

 

その禅という言葉も独り歩きして

いるようで

これは鈴木大拙という方の尽力で

禅がZENとなり世界共通語に

本来のインドの言葉ではなく

日本語の禅が世界のZENとなった

不思議な言葉です

 

禅も三昧も定(じょう)も

同じ意味合いの言葉ですが

厳密にはその違いがあります

しかし、

その内容の意味するところは

ものごとに集中するという

ことになるのではないでしょうか

 

「十地経講義」のなかでは

外に支配されているエネルギーを

内に向ける

無駄にエネルギーを使わずに

内面に向けていく、と

そうなってくると

外面的な生活に支配されている

生活を厭うということになる

それで、三昧とか定とかが

必要になってくるわけです

 

お経の中には

「禅三昧を食物となす」

ということが出てきます

精神生活の食物ということです

 

その三昧ということを

このように表現しておられます

「ものを見るんでも聞くんでも

目で見るんじゃなしに、

耳で聞くというんじゃなしに

全身が耳となると

こういうのが禅三昧という

ものです

つまり耳で聞いて何かするんじゃ

なしに、

全存在が耳となる

真理を聞くという場合、

そういう形をとるわけです。」

 

というように述べておられます。

 

そういえば、

三浦先生もよく、

「全身を耳にして聞いてください」

と洛南高校の生徒さんに

おっしゃっておられました。

その事が自然に生徒の身に付いた

のでしょう

いろいろな講師の先生の話を

聞く場合、後で聞いてみると

「洛南の生徒さんは

とても話しやすい、

話すことがスーッと入っていく」

ということを話されておられました

やはり、全身を耳にして聞く

ということが

素直に身に付いておられた

ということでしょう。

 

それから、

ものそのものに集中するというと

ものそのものが胸を開いてくる

ものそのものになるというと

ものが自分自身を開いてくると

こっちからいろいろ

ああだろうか、こうだろうか

というような小細工をやめて

ものそのものに全身が集中すると

集中した心に

ものが自分を語ってくる。

こういうように述べておられますう。

 

よく仏師の方が

自分がこの仏を彫ったのではない

木の中にいらした仏を

取り出しただけなのだと

木をじっと見たとき

木の中にいる仏が

語りかけて来るのでしょう。

 

すべてのことにおいて

自分がこうしたり

ああするのではなく

じっと集中して見ると

相手の方が語りかけてくる

ということなのでしょう。

 

それから先生は

「ものがもの自身を語ってくる

 それが智慧ですね。」

とおっしゃておられます。

 

いずれにせよ

三昧とか禅定ということは

ものそのものになる

ということでしょう

こういう味(たのしさ)は

絶対に忘れらない

何事にも代えがたい喜び

となるようです。

 

 

 

 

 

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