本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

仏になる鍵!?

2019-11-22 20:40:33 | 十地経

弘法大師の著作の中に

『秘蔵宝鑰』

(ひぞうほうやく)

があります。

「鑰」(やく)という字は

カギという意味ですが、

秘密の蔵を開く鍵と、

つまり仏になる鍵で宝の蔵を開く

というのでしょう

弘法大師の言葉に対するセンスの

鋭さに驚きます。

まず、

その鍵を持とうではないかと

 

カギという字も

今は鍵と書きますが

昔は鑰という字を使ています

カギも今は差し込んで回す

というものが主流ですが

昔のカギは開け方が難しく

たぶん、鍵を渡されても

どうやって開けていいか分からない

のではないかと思います

特に国宝級の品を収めた鍵となると

鍵自体も美しいし

どれがカギ穴やら

どうやって差し込んで

どういうふうに開けるのか

分からないと思います

そこであえてというか

昔は鍵といえば「鑰」という字

を書いたのでしょう。

 

 

『十地経』の中に

一番最後に文学的表現で

たとえが出てきます。

金を練って作品を作り上げる

というたとえです

金というのは鉱石の中に

埋もれている

その鉱石から金を取り出していく

ということなのですが

まず、その鉱石を見つける

ということが、

修行の最初「見道」ケンドウと

いうことが出てきますが

まずは金になる鉱石を見つけた

という喜び

それが初歓喜地でしょう

そして鉱石の中から金を

取りだしていくことが始まります

それを練っていくという言葉で

表現してあります

そのことが修行の道程では

鍛錬ということです

切磋琢磨するということです

練り上げながら鉱石の中から

金を取り出していく

 

十地ということも

その練っていく道程

練り上げていく段階をあらわします

鉱石に含まれてある雑夾性を

排除していくという

私たちには「そうだ!」と

頷いても、まだまだ心の中は

不純物でいっぱいです

その不純物、雑夾性を取り除く

段階が十地ということになるのです

 

菩薩という位であっても

五十二位という段階があって

菩薩からいきなり仏ではないのです

 

十地経の講義の中では

鉱石の中から雑夾性を排除して

金そのものを取り出して

一つの作品を作ると

仏という作品をつくっていく

人間を仏という作品にまで

作り上げていくと

というように出ています。

 

普通には修行が終わって

仏になると思いがちですが

そうではなく

無限の修行が見つかった

ということがほとけでしょう

自分を練り上げていく道筋が

みつかった

無限に修養していくことが

見つかった

つまりカギというのは修養という

ことになるのでしょう

修行が終わったというのでなく

 

『十地経』でいえば

「上上に証する」と書いてあります

上上に、とありますから

上へ上へと

一遍得たらもう済んだという

のではなく

それを上上に練り上げていくと

その練り上げるということが

「修養」ということです。

 

これは不思議なことで

やればやるほど

自分の中にある雑夾性が

不純物が見えてくる

名人といわれる方の話でも

まだまだ、とおっしゃいます

これでいいというのは

ある面からいうとやってない証拠

だともいえます。

 

弘法大師も57歳の時

『秘蔵宝鑰』三巻と

それをもっと詳しく書いた

『秘密曼荼羅十住心論』十巻を

書いておられます

やはり「十地」ということを

「十住心」ということで

あらわされ

人間の修行の道程を記されて

います。

 

「修養」ということ

まだそんなこと言ってるのかと

いわれそうですが

案外、この「修養」ということが

仏になる鍵のように思います。

「死ぬまで続けるのよ!」

と言っておられた先生の言葉を

思い出します。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする