なんだか、昨日夢の中で
この言葉が出てきました。
「こむのしん、むごくのたい」
という、…
なんだろう??
とても難しい言葉、
出てくるということは以前どこかで
聞いた言葉なのでしょう。
漢字もあてずっぽうながら
虚無(こむ)、無極(むごく)
ということが浮かんできました。
起きて早速、調べてみると
どうも『無量寿経』というお経の
一節のようです。
どちらも「身」、「体」と
身体という字が入っています。
身(み)ということが仏教では
とても大事な概念です。
弘法大師も、「即身成仏」
ということを言われています。
身が成仏するのだと、
心が成仏するとは
言われておられない。
よくものごとは思いようと
言われる方もいらっしゃいます。
けど、心だけの問題でもなく、
身ということをとても重要に扱います。
よく、スポーツ選手の方の話を
聞いていると、
努力の先に未来がある、とか
やはり身体ということを、
身体が覚え込むまでとか
心でいくら、ああだこうだと思っても
身体がついてこなければ
なんにもなりません。
三帰依文のなかでも
「この身今生(こんじょう)
において度せずんば」
と、この身、
ということが出てきます。
やはりここでも「この身」という
言葉おさえてあります。
以前、檀家の方に熊大の皮膚科の
先生がいらして、
話しの中で、体内とはどこを指すのか
胃とか腸は普通は体内と考えますが
人間の皮膚は一枚皮で出来ていて
実は皮膚は口から喉、胃そして腸と
つながっていて、
出来ないけれども、
くるりと引っくり返すことができると
すると胃も腸も一面には体外と
いえるのではないでしょうか。
私たちが生きているということは
空気を吸い、食物を頂き
それを栄養として生きている。
命とは何かと考えた時、
呼吸をして、食べものを食べ
それが体内に取り入れられ
エネルギーとなり
細胞が栄養を取り入れ老廃物を
外に出す、
この働きがいのちのハタラキでしょう。
すると、
私たちが生きているということは
外にある空気や食物を
肺や胃や腸で交換している。
常に交換して一つとして
同じものはない。
短いものでは皮膚
長いものでは骨、
骨は一年でその細胞が
入れ替わるそうです。
細胞レベルで考えると
わたしという人間は
一年もすれば
すべて入れ替わっている。
自分自分とヤケニこだわって
自分に固執していますが、
意識だけはあるのですが
その実態の体という細胞は
すべて入れ替わっているのです。
そして、
自分という存在は
小さく自分として
まとまっているのではなく
外には広く空気という世界
あらゆるいのちを自分のものとして
頂戴して生きている。
そうすると、
小さな自分ではなく
自分の命はあらゆる
大きな世界とつながって生きている
だから、固執すべき自分は
ないというのが、
本当の姿である、と
分別で苦しむのではなく
分別したことに固執して
そのことによって苦しんでいる
煩悩とか分別とかで
煩悩するのではなく、
固執することで苦しむと
だから固執を離れるということに
最大の力を注がなければ
そのためには固執するという
実態をよく見きわめる
ということが肝心です。
話しが飛びましたが
「虚無之身 無極之体」
ということは、
私たちの身体ということは
広くあらゆる世界とつながりを
持って生きている
ということではないかと??
なにせ夢のなかでの話
でしたので、
とりとめもないことになりましたが
身体ということを考え
自分が固執すべきものは
何もない、
一年もすれば自分の身体は
細胞がすべて入れ替わっている
ということですので、
そのようなことを考えていました。