お正月は縁起にいいものが
ならびます。
やはり私たちは「福」とか「宝」
に弱いのです。
世界中見わたしてみても
これだけ福と宝にあふれた国は
ないと思うのですが、
それでも、
福を求め宝を欲しがります。
「福」という字も成り立ちは
示(神)と畐(酒を入れる甕)
からできています。
祭りに参加した人がもらう神酒
というのが語源です。
そこから神の恵みという意味になり
酒の意味がなくなって
神さまから与えられるもの
さいわい、しあわせ、という意味に
なってきました。
お経にもよく出てくる言葉です。
いつもお唱えする
「観音経」には
『福聚海無量』と、
福が集まることが大海に
無量の川が流れ込む
ようであるという喩として
でてきます。
また、
『福徳円満』という言葉も
よく使う言葉です。
『福田衣』(ふくでんえ)
と言えば衣の袈裟のことです。
仏さまのことを
大福田(だいふくでん)ともいいます。
名前として使えば福田(ふくだ)
ですが、仏教読みでは(ふくでん)
と読みます。
福徳を生み出す田ということですが
仏や父母、苦しむ悩むものに
敬い仕えて施せば福徳功徳を
得られるということで
「田」に喩えたのです。
また「宝」という字も
旧字体では「寶」と書きます。
この字を分解すると
ウかんむりはしまっておく所
たっとい財を示す貝と玉から
できている字です。
家にしまっておく大事なもの
を表すのがこの字の意味です。
そこから、「たからもの」という
意味になったのでしょう。
この字も仏教ではよく出てくる
文字なのです。
聖徳太子も十七条憲法で
「篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり」
といっておられます。
それから当院でも授与される
「宝船」ということもあります。
橋の上についている
「擬宝珠」(ぎぼし)
宝珠に似せた球ということですが
「如意宝珠」ということもあり
思いのままに宝を出してくれる
玉ということです。
地蔵菩薩も手に
宝珠を持っておられます。
虚空蔵菩薩もそうです、
虚空より宝物を雨降らせた
ということです。
なんだか不思議なことに
「福」とか「宝」ということが
仏教に関係しているというのは
面白いことです。
般若心経のなかにも
『一切顛倒』(いっさいてんどう)
という言葉が出てきます。
私たちの生きざま
すべてが逆さまだというのです。
幸福になろうとして、
不幸になっている。
得を得ようとして損をしている
賢くなろうとして賢さを
失っている。
さとりということも
この逆さまになっている
ということの自覚かもしれません。
福とか宝とか求める
のもいいですけど、
今ある現実を
静かに見つめ直してみるのも
福とか宝ものに気がつく
ことかもしれません。ね!