本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

五陰盛苦

2016-06-18 18:53:27 | 十地経

「四苦八苦」の五陰盛苦も

なかなかわからない苦しみの一つです。

自分にとって

都合の悪いものがやって来た、

反対に、

自分にとって

都合の良いものが去っていく

という事はわかるのですが、

四苦八苦も

「三苦」に分けて見るということを

しないとはっきり見えてきません。

「苦苦」「壊苦」「行苦」という

このなかで、

「苦苦」(くく)と「壊苦」(えく)は

誰でもすぐに苦しいと

感じる苦しみです。

「行苦」というのがわからない。

「行」とは「諸行無常」の行です。

 

先日、はたと 

頷けた一文に出遭いました。

京都新聞に『楽吉左衛門』の投稿です。

「昨年末、これから始まる老後を、

山あいの小村・久多に生活の基本を

置くことにしました。

…略…

自然と自分の間に何が違うのか、

どのような隔たりがあるのか

考えてみる。

自然には「私」という主語がない。

ススキは「私は」とは言わないし、

ハトもカラスも、

ちっちゃなアリに至るまで、

私というものがなく、

互いに命を与え合う。

長い命のやりとり、

循環の中で共生しているんだよね。」

 

このなかで、

自然には私という主語がない、

ということです。

五蘊とは色というフィジカルな面と

受・想・行・識というメンタルな部分

このすべてにおいて

俺が自分が私がと固執してしまいます。

なかなか主語がない自分とは

なりにくいものです。

 

住職も譲り一切の肩書から

離れて見たものの、

「愛欲の広海に沈没し

名利の大山に迷惑して…」

と親鸞の述懐にもあるように、

なかなか捨て難いものです。

 どうしても執着してしまう。

 

人間には妙な癖があって、

すべてのものを言語化する。

言葉として考え、

考えたことに固執してしまう。

「無我」という事を言われるんですけど

五蘊皆空と、

五蘊とは実体のないものだと、

けれども、

言えば言ったことに固執して

考えれば考えたことに固執する。

 

十地経ではよく智慧という事を

やかましく、

というか中心に考えられます。

智慧、智慧と言っても

わからないのですが

固執を破るという事が

智慧のはたらきなのです。

破るというと何か力ずくで

打ち破るような気がするのですが

固執の構造をよく見ていくという事です。

 

だから「五陰盛苦」ということも

人間ほったらかしておけば

何にでも固執してそれに執着し

大変なことになっていきます。

先日のM氏も最初の時点で

すんなり謝っておけばよかった

なんだかんだ屁理屈を述べ

それに固執しだしたものだから

大変なことになってしまった。

それに加え、

自分の得た名利は捨てがたく

なおさら火に油を注いだのでしょう。

 

それこそ、

自分をよく見抜く第三者の目、

自分の都合を通すための目ではなく

明らかに見ぬく知恵があれば

大切なポストまで捨ててしまう

ことにはならなかったのかもしれません。

 

執着するものだという

智慧があれば、

何でも自分中心に考えるような

人間根性を破って智慧に立つ

智慧が主人だという意味で

「十地経」では智慧ということを

さかんに述べてあるのだと思います。

自分の分別で生きるのではなく

智慧を主人として生きる。

だからして自分の心で生きちゃいかん

自分の心を絶えず批判して

自分の心に妥協したりしてしまう

だから、転落してしまうと

でないと持ったものに支配されてしまう

金をもてばお金に、

地位や権力をもてば

持ったものに支配されてしまうと、

そこに自分をどこまでも批判できる

智慧がないと、…

 

だから、「五陰盛苦」がなぜ苦であるか

ということは、

フィジカル面でも、メンタル面でも

それがほっておけば燃え上がり

それに執着して

自分を見失い

転落してしまうと、

そこにそれを見抜く知恵がいかに必要であるか 

 

というようなことを

「十地経講義」では述べてあるようです。

 

 

 

 

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