『 にちにち出会う
なんでもない
あたりまえの人を
ひそかに拝めるような
私になりたい 』
榎本栄一
当院のお向かいにある 『 東光石油 』
朝から元気のいい声が響いています。
お店に来る車はもちろんのこと、
止まってくれた車に対しても、歩道を通られる方にも
大きな声で挨拶をされています。
また、以前お参りしたおり、そこのおばあさま
「 いつも娘から笑われるのですよ !!
失礼があってはいけないと、
すれ違う方には必ずお辞儀をしているのです。
そしたら、電信柱に向かって挨拶をしていたのです。
誰に挨拶をしているの ?!
ぼんやり人影のように見えたものですから … !! 」
と、おっしゃっておられました。
三浦先生も来る方来る方に、いつも合掌して挨拶をしておられました。
そのお姿がなんとも型にはまっているのです。
なかなか合掌する姿は身に付かないものです。
私たちがしてみても、とってつけたような形になってしまいます。
それから、よく聞かされたのは、
「 仏さんというと、立派な姿を想像しているでしょう。
ほんとうの仏さんは目立たないところで、
もくもくと仕事をしているかもしれませんよ。」
という話です。
私たちも仏さまというと、きんきらに輝いた仏さまを想像してしまいます。
ところが、ほんとうの仏様はボロをまとっていらっしゃるかもしれません。
ついつい、金襴の立派な衣を着た方を仏さまと思ってしまいます。
昔の話ですが、
鈴木大拙という方が博士号を取ったので祝賀会が開かれたそうです。
そこに西田幾多郎先生も来賓で呼ばれ、挨拶をされました。
そしたら、西田先生は、
「 なんでそんなものがいるのか。
鈴木大拙は鈴木大拙でいいではないか。
博士なんて俗界の話だろう。
俗界の名誉だろう。
そんなものを超越するのが仏教じゃないか。
祝賀会、大拙を小さくするだけの話しじゃないか。」
という挨拶をされたということです。
なかなか難しい事もありますが、
仏教の立場からいったらそうでしょう。
なにも、勲章や肩書きをぶら下げた人が本物ではありません。
にちにち出会う、なんでもない人が
かえって、本当のことを見抜いているのかもしれません。
なんでもない人をひそかに拝める、
東光石油の社員の方、なんでもない行為かも知れませんが、
誰彼となく、あたまをさげ挨拶をされる。
そこに、拝むという心が入ると、
これは、とても大切な修行をされているという事になります。
このことは私たちにとってもとても大切な事です。
仕事を拝み、人を拝み、見るもの聞くものを拝む
この心がなかったら、本物の声は聞こえないように思います。
なんでもない
あたりまえの人を
ひそかに拝めるような
私になりたい 』
榎本栄一
当院のお向かいにある 『 東光石油 』
朝から元気のいい声が響いています。
お店に来る車はもちろんのこと、
止まってくれた車に対しても、歩道を通られる方にも
大きな声で挨拶をされています。
また、以前お参りしたおり、そこのおばあさま
「 いつも娘から笑われるのですよ !!
失礼があってはいけないと、
すれ違う方には必ずお辞儀をしているのです。
そしたら、電信柱に向かって挨拶をしていたのです。
誰に挨拶をしているの ?!
ぼんやり人影のように見えたものですから … !! 」
と、おっしゃっておられました。
三浦先生も来る方来る方に、いつも合掌して挨拶をしておられました。
そのお姿がなんとも型にはまっているのです。
なかなか合掌する姿は身に付かないものです。
私たちがしてみても、とってつけたような形になってしまいます。
それから、よく聞かされたのは、
「 仏さんというと、立派な姿を想像しているでしょう。
ほんとうの仏さんは目立たないところで、
もくもくと仕事をしているかもしれませんよ。」
という話です。
私たちも仏さまというと、きんきらに輝いた仏さまを想像してしまいます。
ところが、ほんとうの仏様はボロをまとっていらっしゃるかもしれません。
ついつい、金襴の立派な衣を着た方を仏さまと思ってしまいます。
昔の話ですが、
鈴木大拙という方が博士号を取ったので祝賀会が開かれたそうです。
そこに西田幾多郎先生も来賓で呼ばれ、挨拶をされました。
そしたら、西田先生は、
「 なんでそんなものがいるのか。
鈴木大拙は鈴木大拙でいいではないか。
博士なんて俗界の話だろう。
俗界の名誉だろう。
そんなものを超越するのが仏教じゃないか。
祝賀会、大拙を小さくするだけの話しじゃないか。」
という挨拶をされたということです。
なかなか難しい事もありますが、
仏教の立場からいったらそうでしょう。
なにも、勲章や肩書きをぶら下げた人が本物ではありません。
にちにち出会う、なんでもない人が
かえって、本当のことを見抜いているのかもしれません。
なんでもない人をひそかに拝める、
東光石油の社員の方、なんでもない行為かも知れませんが、
誰彼となく、あたまをさげ挨拶をされる。
そこに、拝むという心が入ると、
これは、とても大切な修行をされているという事になります。
このことは私たちにとってもとても大切な事です。
仕事を拝み、人を拝み、見るもの聞くものを拝む
この心がなかったら、本物の声は聞こえないように思います。