心は清く柔らかに
常に耐え忍んで
争いを好まず
人々を悩まさず
華厳経 十地品
私たちの心はいつも 「 清く・柔らかく・耐え忍ぶ 」 ことが大事なのですが、
この簡単なことが一番難しいようです。
このことをお経の中では 『 柔軟心 』 ( にゅうなんしん ) という
言葉で表現しています。
「 柔軟心 」-とはただ柔らかいだけで、優柔不断ということとも少し違います。
柔らかいだけということに止まらず、積極的にすべてを慈しんでいくという
「 大慈悲心 」 という、仏さまの心そのものを表しているのです。
では、心をやわらか~く、といっても身体のようにマッサージして揉みほぐす
ということもできません。
「 華厳経 」 というお経のなかには、
「 柔軟心 」 を保つには 「 常に耐え忍ぶ 」 こと、と説いてあります。
「 耐え忍ぶ 」 といっても、ただじっと我慢するということではありません。
昔のことわざに、
『 ならぬ堪忍 するが堪忍 』 ( もう全く死語といっていいでしょう、が )
「 もうこれ以上我慢できない、というところを堪えるのが、本当の我慢 」
という意味なのです。
江戸時代に 「 心学 」 という一種の庶民教育がさかんでした。
ここに面白い問答があります。
ある儒教の学者のもとへ、学問もない若い町民が尋ねてきました。
「 人間生きていく上で、何が一番大事でしょうか ? 」
「 それは、人間 『 堪忍 』 の二字が大事じゃ ! 」 と教えます。
町民は指を折りながら、
「 先生は二字とおっしゃるが、〈 かんにん 〉 は四字ではありませんか 」
先生はいらいらして、
「 えいっ 堪忍は 〈 たえしのぶ 〉 と書く二字じゃ 」
学問のない彼は、また指を折りなおして、どうも納得がいかないようで、
「 二字とおっしゃいましたが、 〈 たえしのぶ 〉 は、
五字でまた一字ふえました。どうして二字なのですか ? 」
と真剣になって尋ねます。
とうとう儒教の先生は腹を立てて、
「 えいっ、学問のない奴は困る。お前の相手にはなっておれん
さっさと帰れ! 」
追い返してしまいました。
しかし、彼の町民は、
「 はい、帰ります。私は先生に教わった ”かんにん” の四字を
腹の中に納めましたので、少しも腹が立ちません 」
と、にこやかに帰って行ったという、笑い話があります。
よくよく味わってみると、ただの笑い話では済まされないものがあります。
私たちもよく経験することです。
一生懸命言ってる私たちの方が、カッカきて、諭す側の私たちが腹を立てている、
ということがよくあります。
案外、ものごとをよく知っているということは、
知っているということにこだわりすぎて、
頭が固くなってきているということがあります。
ものごとを勉強すると、不思議なことに、
「 知った 」、ということに固執していくのです。
「 自分の勉強したことは、絶対に正しい ! 」 と思ってくるからおかしいのです。
本当に勉強する方は
「 知った 」 とは言わない。
「 知らなかった、ことがわかってきたことが楽しい 」
と、おっしゃいます。
勉強すればするほど、わからないことが増えてくる、
ということが本当なのでしょう。
師匠の三浦先生も、九十才を越えた頃、
「 人生は不思議の建立や ! 」
と、つくづくおっしゃっていました。
自分の歩いてきた人生に固執することなく、
すべてのことを新鮮に生き生きと感じ取られる、
その心こそが 「 柔軟心 」 のように思います。
悲しいかな !!
年とともに、心も体も硬くなっていくようです。
先日、届きました
「 西京極幼稚園 」 発行の 『 たんぽぽ 』 340号
『 気は引き締めて、心は穏やかに、身体は元気に 』
とありました。
なるほど !! 「 納得 」 させられました。
常に耐え忍んで
争いを好まず
人々を悩まさず
華厳経 十地品
私たちの心はいつも 「 清く・柔らかく・耐え忍ぶ 」 ことが大事なのですが、
この簡単なことが一番難しいようです。
このことをお経の中では 『 柔軟心 』 ( にゅうなんしん ) という
言葉で表現しています。
「 柔軟心 」-とはただ柔らかいだけで、優柔不断ということとも少し違います。
柔らかいだけということに止まらず、積極的にすべてを慈しんでいくという
「 大慈悲心 」 という、仏さまの心そのものを表しているのです。
では、心をやわらか~く、といっても身体のようにマッサージして揉みほぐす
ということもできません。
「 華厳経 」 というお経のなかには、
「 柔軟心 」 を保つには 「 常に耐え忍ぶ 」 こと、と説いてあります。
「 耐え忍ぶ 」 といっても、ただじっと我慢するということではありません。
昔のことわざに、
『 ならぬ堪忍 するが堪忍 』 ( もう全く死語といっていいでしょう、が )
「 もうこれ以上我慢できない、というところを堪えるのが、本当の我慢 」
という意味なのです。
江戸時代に 「 心学 」 という一種の庶民教育がさかんでした。
ここに面白い問答があります。
ある儒教の学者のもとへ、学問もない若い町民が尋ねてきました。
「 人間生きていく上で、何が一番大事でしょうか ? 」
「 それは、人間 『 堪忍 』 の二字が大事じゃ ! 」 と教えます。
町民は指を折りながら、
「 先生は二字とおっしゃるが、〈 かんにん 〉 は四字ではありませんか 」
先生はいらいらして、
「 えいっ 堪忍は 〈 たえしのぶ 〉 と書く二字じゃ 」
学問のない彼は、また指を折りなおして、どうも納得がいかないようで、
「 二字とおっしゃいましたが、 〈 たえしのぶ 〉 は、
五字でまた一字ふえました。どうして二字なのですか ? 」
と真剣になって尋ねます。
とうとう儒教の先生は腹を立てて、
「 えいっ、学問のない奴は困る。お前の相手にはなっておれん
さっさと帰れ! 」
追い返してしまいました。
しかし、彼の町民は、
「 はい、帰ります。私は先生に教わった ”かんにん” の四字を
腹の中に納めましたので、少しも腹が立ちません 」
と、にこやかに帰って行ったという、笑い話があります。
よくよく味わってみると、ただの笑い話では済まされないものがあります。
私たちもよく経験することです。
一生懸命言ってる私たちの方が、カッカきて、諭す側の私たちが腹を立てている、
ということがよくあります。
案外、ものごとをよく知っているということは、
知っているということにこだわりすぎて、
頭が固くなってきているということがあります。
ものごとを勉強すると、不思議なことに、
「 知った 」、ということに固執していくのです。
「 自分の勉強したことは、絶対に正しい ! 」 と思ってくるからおかしいのです。
本当に勉強する方は
「 知った 」 とは言わない。
「 知らなかった、ことがわかってきたことが楽しい 」
と、おっしゃいます。
勉強すればするほど、わからないことが増えてくる、
ということが本当なのでしょう。
師匠の三浦先生も、九十才を越えた頃、
「 人生は不思議の建立や ! 」
と、つくづくおっしゃっていました。
自分の歩いてきた人生に固執することなく、
すべてのことを新鮮に生き生きと感じ取られる、
その心こそが 「 柔軟心 」 のように思います。
悲しいかな !!
年とともに、心も体も硬くなっていくようです。
先日、届きました
「 西京極幼稚園 」 発行の 『 たんぽぽ 』 340号
『 気は引き締めて、心は穏やかに、身体は元気に 』
とありました。
なるほど !! 「 納得 」 させられました。