本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

今週の言葉 5/17~5/23  『 人を先にし自分を後にす 』

2010-05-16 23:35:20 | 今週の言葉
   人を先にし 自分を後にす
   ひと さき    じぶん  あと



 この言葉も師匠の三浦先生がいつも口にされていた言葉です。

そしてこの言葉が 『 西京極幼稚園 』 の幼児教育の根幹を

なしている理念ではないかと思います。


  「 人を先に 自分を後に 」

  「 人の喜ぶことを見て 我が喜びとする 」


 幼児期にいかに自我の抑制ということを教えていくか

ということが教育の根本としておられました。


 ブランコで順番に並んでいる時、年少さんの子どもが来たら

順番を譲ってあげる。

 「 ありがとう 」 といってブランコを譲ってもらった子ども

の喜ぶ顔を見て、

 そのことを 「 よかった 」 とうれしく感じる

そういう心を育てる、ことに心血を注いでおられたように思います。


 今の世の中では、そんなことでは生存競争についていけない、

と思われる方も多いと思います。

 しかし、自我の心が育つ前に、こういう

人に譲って喜んでもらうという心を経験しておくことは、

その人にとって人間としての一番大事なことを学んだことだと思います。


お釈迦さまは 『 遊行経 』 というお経の中で、

お坊様たちが仲良く修行していく、約束ごととして


   お互いにむつまじく教えを語り合うこと

   お互いに尊敬しあうこと

   お互いに礼儀を重んじること

などなど数項目があるようですが、その中の一つに


   「 人を先にして 自分を後にすること 」


ということが含まれています。


 時代に逆行する言葉かもしれませんが、

私たちが本来持っている、一番大事な心ではないでしょうか。

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かなしかりけり

2010-05-16 09:49:02 | 住職の活動日記
 今朝、表の参道に 「 うろこのはへん 」 が飛び散っています。

「 あっ やられた 」

 ちょっとした油断でした。

池には網を掛けたから大丈夫と思っていましたが、

わずかな隙間が開いていたのです。

 白鷺は毎日のようにきて、虎視眈々と狙っていたのでしょう。


          

「 金魚君 」 には悲しい災難です。


 白鷺にとっては、やっと今日の糧にありつけたのでしょう。

今日のところはおなかを満たしてゆっくり休めるのかもしれません。


 考え直して見ると、こういう事実は毎日繰り返されているのです。

地球上で、他の生き物から見たとき、

『 人間 』 という生き物は一番恐ろしい怪獣に見えるのではないでしょうか??

地上にいる生き物はゆうに及ばず、海の底までも、空飛ぶ生き物も、

ありとあらゆる生き物を我が食としています。 われわれ人間は !!


 地球が生れて46億年

想像もつかないような長い年月が流れています。

そして、昆虫やゴキブリが誕生したのが3億年ほど前、

 ( 私たちはゴキブリを見ると目の敵のようにしていますが、

   私たちよりもはるか昔から、この地に住んでいるのです。 )

詳しくはわかりませんが、

今の人間のような姿になったのは、約20万年まえ位でしょう。

その中でも、ここ100年ほどの間に

私たちは地球に眠っている資源をほぼ食い尽くそうとしています。

46億年という永遠に近い時間の中で、

私たちはたった100年でそのエネルギーを消費尽くしているのです。


 一体、人間は何をしてきたのか ??

ということを問わざるを得ないような気がします。   


 食べるだけ食べて、必要以上にエネルギーを使いまくり、

一面からいえば、地球にとっての 「 ガン 」 のような存在かもしれません。


 しかし、人間の命は地球よりも重い、といいます。

今から2000年から3000年ほど前に人類が

自分の存在に目覚めたのです。

 『 自分と入った何ものか ? 』

時を同じかのように、キリストもソクラテスもお釈迦さまも誕生しているのです。

同じように、

 「 人間に生れたことの意義を明らかにされた。」 

そして、

 「 すべてのものいのちの意義を明らかにされた。」

ということでは同じ命題に答えておられるのです。


同じことを

『 やなせたかし 』 さんは  『 アンパンマン 』 に願いを込めて


   『 なんのために うまれて

       なにをしていきるのか

         こたえられないなんて そんなのは イヤだ! 』

と、歌っておられます。


 『 ぼくらはみんな生きている 』  の歌の中でも、


1番の歌詞は   『 生きているから悲しいんだ … 』

となっています。

2番の歌詞で   『 生きているからうれしいんだ … 』


 と変わっていくところに、

ただ食って寝て、子どもつくって死んでいくだけなら、

これほど悲しいことはありません。


 人間に生れたことの意義を明らかにしてこそ、

  『 生きているからうれしいんだ 』

 となるのでしょう。


そこに、私たちが生きるために犠牲になってくれた多くの生き物たちの命、

そのいのちの意味を問うという、大きな責任と義務があるはずです。


  ただただ  『 ドカン 』  だけではすまされない

  大きな問題を孕んでいるのです。
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