人生は 不思議の 建立である
この言葉も師匠の三浦先生がよく口にしておられました。
時折思い出す、心のどこかに残っている言葉なのです。
90歳を過ぎて、お元気でおられる、
人生の達人だろうと思って、いろいろお聞きすると、
『 人生ってわからんな !
不思議の建立で出来ている 。 』
と、おっしゃっていました。
いくつになっても、日々過ごされていることが、
新鮮でみずみずしく感じられるのでしょう。
ところで、
絵描きさんはみな長生きである。ということを、
『 半藤一利 』 さんが新聞のコラムにコメントしておられました。
ピカソ 91歳、
シャガール 97歳、
ミロ 90歳、
日本では
奥村土牛 101歳、
横山大観 89歳、
本当にみなさん長生きです。
『 葛飾北斎 』 が跋文で書いておられるそうで、
6歳から描きはじめて、70歳までの作品は取るに足らない。
いま73歳にして、ようやく、描くものの生命の在りかがわかってきた、
そして、
「 90歳にして猶その奥義を極め、百歳にして、
正に神妙ならんか 」
と、物事の真の姿を見つめる、その探究心は止まるところがない、
ということでしょう。
私たちも、仏道修行は、
「 悟りとは、始めがあって、終わりがない 」
と聞かされてきました。 その反対に、
「 迷いは、終わりがあって、始めがない 」
『 悟り 』 とは終着点ではなく、
出発点が見つかったというのでしょう。
終わりのない世界が見つかったということが、凄いことなのです。
私たちは、つい、口癖で、
「 もう ○○ 歳になりまして … 」
と言ってしまいます。
北斎でも、70歳までの作品は取るに足らない、
73歳になってやっと、少し見えてきた、と言うのでしょう。
そこには 「 まだ まだ 」 と求むるべきものは無限にある、
と求道心の熱き思いがたぎっているのです。
三浦先生も90歳になっても、
『 人生は不思議だ ! 』 と、
そこには、求めずにはおられない心を持っておられるのです。
私たちも 「 もう○○になって 」 ということは言わないように、
「 まだ、まだ 」 ということを
念じて、日々励まなければなりません。
この言葉も師匠の三浦先生がよく口にしておられました。
時折思い出す、心のどこかに残っている言葉なのです。
90歳を過ぎて、お元気でおられる、
人生の達人だろうと思って、いろいろお聞きすると、
『 人生ってわからんな !
不思議の建立で出来ている 。 』
と、おっしゃっていました。
いくつになっても、日々過ごされていることが、
新鮮でみずみずしく感じられるのでしょう。
ところで、
絵描きさんはみな長生きである。ということを、
『 半藤一利 』 さんが新聞のコラムにコメントしておられました。
ピカソ 91歳、
シャガール 97歳、
ミロ 90歳、
日本では
奥村土牛 101歳、
横山大観 89歳、
本当にみなさん長生きです。
『 葛飾北斎 』 が跋文で書いておられるそうで、
6歳から描きはじめて、70歳までの作品は取るに足らない。
いま73歳にして、ようやく、描くものの生命の在りかがわかってきた、
そして、
「 90歳にして猶その奥義を極め、百歳にして、
正に神妙ならんか 」
と、物事の真の姿を見つめる、その探究心は止まるところがない、
ということでしょう。
私たちも、仏道修行は、
「 悟りとは、始めがあって、終わりがない 」
と聞かされてきました。 その反対に、
「 迷いは、終わりがあって、始めがない 」
『 悟り 』 とは終着点ではなく、
出発点が見つかったというのでしょう。
終わりのない世界が見つかったということが、凄いことなのです。
私たちは、つい、口癖で、
「 もう ○○ 歳になりまして … 」
と言ってしまいます。
北斎でも、70歳までの作品は取るに足らない、
73歳になってやっと、少し見えてきた、と言うのでしょう。
そこには 「 まだ まだ 」 と求むるべきものは無限にある、
と求道心の熱き思いがたぎっているのです。
三浦先生も90歳になっても、
『 人生は不思議だ ! 』 と、
そこには、求めずにはおられない心を持っておられるのです。
私たちも 「 もう○○になって 」 ということは言わないように、
「 まだ、まだ 」 ということを
念じて、日々励まなければなりません。