『 唯識で読む 般若心経 』
少しずつ読み進めていくうちに、
「 憎い気持ちがなければ、決して憎い人は眼の前に現れてこない。」
という一文に出会いました。
『 憎い人 』 という 「 人 」 はいないのです。
勝手に自分が思い込んで、憎いと思う心が 「 憎い人 」 を作り上げているのです。
そういえば、
最近、記録写真ということもあり、いろいろな行事を撮影していただいています。
当然の如く、ちょくちょく 「 私め ! 」 が登場するのですが、
どうも、自分とは違ってるように思うのです。
しかし、本当は写真のとおりなのでしょう。
例えば、
自分の声を聞いた時、最初はびっくりします。
「 こんな変な声は絶対に違う ! 」 と思います。
そして、とても恥ずかしくもなってきます。
他の人に尋ねると、 「 おなじ声ですよ。」 といわれます。
「 エエッ ? 」
けどそれが事実なのでしょう。
そのことから、自分のことを冷静に見直してみると、
『 自分が 自分が 』 と思っているのですが、
その自分が思っている 『 自分 』 と
人が見ている 『 自分 』 とはまったく別物ではないか ???
自分は自分で勝手に 「 自分という虚像 」 を作り上げ、
その中で、自分でこれが絶対だという価値判断で動いているようです。
しかし、客観的に見ている周りの人の見方が正しいのでしょうが、
どうもそうは思えません。
ずっと、
「 人は自分を誤解して見ている。 」
と、思っていました。 ( 今もそうなのでしょうが ? )
? 写真の自分の姿を見て 、 光の具合か カメラのせいか ?
撮り方が悪いのでは ???
なんてことまで、考えてしまうのです。
『 唯識 』 では、
「 自分が存在しているのではなく、自分というはたらきがある。」
という風に教えているのでしょう。
ということは、
『 自分が! 自分が! 』 という
『 固執すべき自分はない 』 ということを説いているのでしょう。
このことも、一度考え直して見ると
『 自分とは ? 』 ゾッとするような自分がいるかもしれません?? ネ
少しずつ読み進めていくうちに、
「 憎い気持ちがなければ、決して憎い人は眼の前に現れてこない。」
という一文に出会いました。
『 憎い人 』 という 「 人 」 はいないのです。
勝手に自分が思い込んで、憎いと思う心が 「 憎い人 」 を作り上げているのです。
そういえば、
最近、記録写真ということもあり、いろいろな行事を撮影していただいています。
当然の如く、ちょくちょく 「 私め ! 」 が登場するのですが、
どうも、自分とは違ってるように思うのです。
しかし、本当は写真のとおりなのでしょう。
例えば、
自分の声を聞いた時、最初はびっくりします。
「 こんな変な声は絶対に違う ! 」 と思います。
そして、とても恥ずかしくもなってきます。
他の人に尋ねると、 「 おなじ声ですよ。」 といわれます。
「 エエッ ? 」
けどそれが事実なのでしょう。
そのことから、自分のことを冷静に見直してみると、
『 自分が 自分が 』 と思っているのですが、
その自分が思っている 『 自分 』 と
人が見ている 『 自分 』 とはまったく別物ではないか ???
自分は自分で勝手に 「 自分という虚像 」 を作り上げ、
その中で、自分でこれが絶対だという価値判断で動いているようです。
しかし、客観的に見ている周りの人の見方が正しいのでしょうが、
どうもそうは思えません。
ずっと、
「 人は自分を誤解して見ている。 」
と、思っていました。 ( 今もそうなのでしょうが ? )
? 写真の自分の姿を見て 、 光の具合か カメラのせいか ?
撮り方が悪いのでは ???
なんてことまで、考えてしまうのです。
『 唯識 』 では、
「 自分が存在しているのではなく、自分というはたらきがある。」
という風に教えているのでしょう。
ということは、
『 自分が! 自分が! 』 という
『 固執すべき自分はない 』 ということを説いているのでしょう。
このことも、一度考え直して見ると
『 自分とは ? 』 ゾッとするような自分がいるかもしれません?? ネ