本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

『 我思う 故に … 』  9/7~9/13

2009-09-07 07:40:50 | 今週の言葉
   『  我思う  故に  我あり  』

                                デカルト


とても有名な言葉です。どこかで一度は耳にされたことがあると思います。

「 我思う 」 という 「 思う 」 という言葉がいろんな場面を持った

言葉です。

 「 思う 」 という言葉の中には 「 知る 」 ということもあるのですが

「 欲する 」 ということもあるのです。



 「 あなたの思いを言ってごらん 」 という場合には、自分が知的に知ってい

るということを述べるというです。

「 私の思い通りには行かない 」 、というときは、私の知っている知識どおり

には物事は運ばない、ということです。

そこで、

 「 我思うが故に 我あり 」 ということは、

 「 我 自分を知るが故に 我あり 」 という

『 知る 』 という面よりも、

 「 我 欲するが故に 我あり 」 という、

『 思う 』 ということを 『 欲する 』 という

『 意欲 』 というように考えたほうが、

そこには、自分が自分として存在する責任のようなものを感じます。

 「 我 欲するが故に 我あり 」 「 意欲 」 です。

『 自分が自分でありたい 』 と欲するわけです。


 アンパンマンノ歌に

  「 何のために生まれて  何をして生きるのか

    答えられないなんて  そんなのはいやだ 」

 とあります、

簡単そうですが、根底には 「 自分が自分でありたい 」

そして、 「 自分が自分であることの本当の意味を知りたい 」

そいう叫びでしょう。


 ニーチェという思想家がいます。

「 神は死んだ 」 という言葉が有名です。

これはキリスト教を否定したのでしょう。

しかし、キリストを否定したのではありません。

キリスト教という教理を否定した。

教理は人間を縛るものです。


 デカルトは、この当時の哲学宗教書はラテン語で書かれるのですが、

あえてフランス語で書いた。

 そこに今までの教理にとらわれない、人間の自立を目指して、

「 我思うに 我あり 」 

という人間独立の宣言をしたのではないでしょうか。

『 キリスト教という教理 』 によって人間は存在しているのではないのだ!


 洋の東西を問わず、

西洋では  『 我思うに我あり 』

仏教的には 『 我欲するが故に我あり 』

と、同じ事を言われているのではないでしょうか。


 『 欲 』 の煩悩の欲望ということもありますが、

欲するという 『 清浄意欲 』 ということも

宗教を求めいていく上ではとても大事なことです。
コメント
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