『 我思う 故に 我あり 』
デカルト
とても有名な言葉です。どこかで一度は耳にされたことがあると思います。
「 我思う 」 という 「 思う 」 という言葉がいろんな場面を持った
言葉です。
「 思う 」 という言葉の中には 「 知る 」 ということもあるのですが
「 欲する 」 ということもあるのです。
「 あなたの思いを言ってごらん 」 という場合には、自分が知的に知ってい
るということを述べるというです。
「 私の思い通りには行かない 」 、というときは、私の知っている知識どおり
には物事は運ばない、ということです。
そこで、
「 我思うが故に 我あり 」 ということは、
「 我 自分を知るが故に 我あり 」 という
『 知る 』 という面よりも、
「 我 欲するが故に 我あり 」 という、
『 思う 』 ということを 『 欲する 』 という
『 意欲 』 というように考えたほうが、
そこには、自分が自分として存在する責任のようなものを感じます。
「 我 欲するが故に 我あり 」 「 意欲 」 です。
『 自分が自分でありたい 』 と欲するわけです。
アンパンマンノ歌に
「 何のために生まれて 何をして生きるのか
答えられないなんて そんなのはいやだ 」
とあります、
簡単そうですが、根底には 「 自分が自分でありたい 」
そして、 「 自分が自分であることの本当の意味を知りたい 」
そいう叫びでしょう。
ニーチェという思想家がいます。
「 神は死んだ 」 という言葉が有名です。
これはキリスト教を否定したのでしょう。
しかし、キリストを否定したのではありません。
キリスト教という教理を否定した。
教理は人間を縛るものです。
デカルトは、この当時の哲学宗教書はラテン語で書かれるのですが、
あえてフランス語で書いた。
そこに今までの教理にとらわれない、人間の自立を目指して、
「 我思うに 我あり 」
という人間独立の宣言をしたのではないでしょうか。
『 キリスト教という教理 』 によって人間は存在しているのではないのだ!
洋の東西を問わず、
西洋では 『 我思うに我あり 』
仏教的には 『 我欲するが故に我あり 』
と、同じ事を言われているのではないでしょうか。
『 欲 』 の煩悩の欲望ということもありますが、
欲するという 『 清浄意欲 』 ということも
宗教を求めいていく上ではとても大事なことです。
デカルト
とても有名な言葉です。どこかで一度は耳にされたことがあると思います。
「 我思う 」 という 「 思う 」 という言葉がいろんな場面を持った
言葉です。
「 思う 」 という言葉の中には 「 知る 」 ということもあるのですが
「 欲する 」 ということもあるのです。
「 あなたの思いを言ってごらん 」 という場合には、自分が知的に知ってい
るということを述べるというです。
「 私の思い通りには行かない 」 、というときは、私の知っている知識どおり
には物事は運ばない、ということです。
そこで、
「 我思うが故に 我あり 」 ということは、
「 我 自分を知るが故に 我あり 」 という
『 知る 』 という面よりも、
「 我 欲するが故に 我あり 」 という、
『 思う 』 ということを 『 欲する 』 という
『 意欲 』 というように考えたほうが、
そこには、自分が自分として存在する責任のようなものを感じます。
「 我 欲するが故に 我あり 」 「 意欲 」 です。
『 自分が自分でありたい 』 と欲するわけです。
アンパンマンノ歌に
「 何のために生まれて 何をして生きるのか
答えられないなんて そんなのはいやだ 」
とあります、
簡単そうですが、根底には 「 自分が自分でありたい 」
そして、 「 自分が自分であることの本当の意味を知りたい 」
そいう叫びでしょう。
ニーチェという思想家がいます。
「 神は死んだ 」 という言葉が有名です。
これはキリスト教を否定したのでしょう。
しかし、キリストを否定したのではありません。
キリスト教という教理を否定した。
教理は人間を縛るものです。
デカルトは、この当時の哲学宗教書はラテン語で書かれるのですが、
あえてフランス語で書いた。
そこに今までの教理にとらわれない、人間の自立を目指して、
「 我思うに 我あり 」
という人間独立の宣言をしたのではないでしょうか。
『 キリスト教という教理 』 によって人間は存在しているのではないのだ!
洋の東西を問わず、
西洋では 『 我思うに我あり 』
仏教的には 『 我欲するが故に我あり 』
と、同じ事を言われているのではないでしょうか。
『 欲 』 の煩悩の欲望ということもありますが、
欲するという 『 清浄意欲 』 ということも
宗教を求めいていく上ではとても大事なことです。