花開く時に 蝶来り、
蝶来る時に 花開く。
この言葉には前後がありまして、かの有名な 『 良寛さん 』 の言葉なのです。
「 花無心招蝶 蝶無心尋花。 花開時蝶来 蝶来時花開。
吾亦不知人 人亦不知吾 不知従帝則。 」
( 花は蝶を招くに心なく、蝶は花を尋ぬるに心なし。
花開く時に蝶来たり、蝶来る時に花開く。
われもまた人を知らず、人もまたわれを知らず、知らずして帝則にしたがう。)
というのが、全文になります。
『 帝則 』 ( ていそく ) とは自然の法則のことです。
花は無心にして蝶を招き、蝶は無心で花を尋ねる。とはごく自然の摂理です。このあたり
まえのことをあたりまえと受け流すのではなく、その働きに大きな感動を持ってみるとき
このときは、自然 (しぜん )と書いて、自然 ( じねん ) と読むほうがいいの
ではないでしょうか。
『 自然 』しぜん 、というと自分と言うことが抜きになっているような、自分は自
分、自然は自然というような別々のこととなっているようです。
『 自然 』 じねん 、そこには起こっている現象を自分のことと受け止めていく、
自分が生かされているのは、この大きな働きの中の一つの存在なのだと言う、自然に対す
る謙虚な受け止め方があるようです。
良寛さんの歌も、当たり前、のことなんですが? 難しくもありません!
良寛さんのご苦労の人生観が、当たり前なのに、そこによくよく考えて見ると奥深い重
みを持った言葉として響いてくるのではないでしょうか。
晩年、こういう歌ものこしておられます。
『 災難にあう時節には、災難にあうがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。
これはこれ災難をのがるる妙法にて候。 』
なかなかこういう心境にはなれないものです。
が、自分のことを見て見ると、災難に遭いたくない、死にたくない、という 「 いやな
こと 」 (自分にとって都合の悪いこと ) から逃げる心が、自分の心を苦しめるの
です。
その時そのときに、精一杯生き抜いてこられた、良寛さんならではのやさしくみえて、
実は味わいのある、苦労からにじみ出た言葉となってると思います。
味わってみてください!
蝶来る時に 花開く。
この言葉には前後がありまして、かの有名な 『 良寛さん 』 の言葉なのです。
「 花無心招蝶 蝶無心尋花。 花開時蝶来 蝶来時花開。
吾亦不知人 人亦不知吾 不知従帝則。 」
( 花は蝶を招くに心なく、蝶は花を尋ぬるに心なし。
花開く時に蝶来たり、蝶来る時に花開く。
われもまた人を知らず、人もまたわれを知らず、知らずして帝則にしたがう。)
というのが、全文になります。
『 帝則 』 ( ていそく ) とは自然の法則のことです。
花は無心にして蝶を招き、蝶は無心で花を尋ねる。とはごく自然の摂理です。このあたり
まえのことをあたりまえと受け流すのではなく、その働きに大きな感動を持ってみるとき
このときは、自然 (しぜん )と書いて、自然 ( じねん ) と読むほうがいいの
ではないでしょうか。
『 自然 』しぜん 、というと自分と言うことが抜きになっているような、自分は自
分、自然は自然というような別々のこととなっているようです。
『 自然 』 じねん 、そこには起こっている現象を自分のことと受け止めていく、
自分が生かされているのは、この大きな働きの中の一つの存在なのだと言う、自然に対す
る謙虚な受け止め方があるようです。
良寛さんの歌も、当たり前、のことなんですが? 難しくもありません!
良寛さんのご苦労の人生観が、当たり前なのに、そこによくよく考えて見ると奥深い重
みを持った言葉として響いてくるのではないでしょうか。
晩年、こういう歌ものこしておられます。
『 災難にあう時節には、災難にあうがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。
これはこれ災難をのがるる妙法にて候。 』
なかなかこういう心境にはなれないものです。
が、自分のことを見て見ると、災難に遭いたくない、死にたくない、という 「 いやな
こと 」 (自分にとって都合の悪いこと ) から逃げる心が、自分の心を苦しめるの
です。
その時そのときに、精一杯生き抜いてこられた、良寛さんならではのやさしくみえて、
実は味わいのある、苦労からにじみ出た言葉となってると思います。
味わってみてください!