本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

省エネ電球発見

2007-06-27 18:40:37 | 住職の活動日記
 インターネットで省エネ電球を取り寄せました。

先ず見本として何種類か注文、今日届きました。

早速付け替えてみました。(電球器具に使えるのです)

 30ワットの明るさで、消費電力 なんと 5ワット

 40ワットの明るさで          7ワット

 60ワットで          なんと 13ワットです。

 ここまでの、省エネ電球はないように思います。


 『 キャンボール 』 という名前です。

 一度お試しあれ !!
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一大事(いちだいじ)

2007-06-27 18:29:53 | 住職の活動日記
 今日、池の濾過器の掃除をしました。

池の水は、ここ数年替えたことがありません。水道の水をポタポタ落としています。

水がよかったのか、金魚君たちはとても元気でとても立派です。


 濾過器のフィルターを洗ってましたら、初めは真っ黒だったんですが、だんだん

綺麗になっていくうちに、フィルターに、全長5ミリほどの赤いミミズのようなものが

たくさんいるではありませんか。  なんだろう?

バケツの底にもたくさん残ってました。池に返すと、残念!ながら、

金魚君たちにはおいしいご馳走だったようです。

 フィルターを洗った水を庭木にやってましたが、ミミズは死んでしまいます。

どうしよう、と思いつつ、

 掃除もそこそこに、濾過器を池に戻そう。


 本蔵院の池も小さな自然の生態系が出来ていたのです。

あの、ミミズ君たちもどっからどうやって来たのだろう。

 よく見れば、身近な周りに『 無量無数 』 の命があることを実感しました。
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懺悔

2007-06-27 00:19:20 | 住職の活動日記
     懺悔
 
 普通は 『 ざんげ 』 と読みます。

 お経の中に出てくると 『 さんげ 』 と読みます。濁らないのです。

 やはり意味があるのです。( さ )でも ( ざ ) 変わらないように思うのです

が、仏教では深くとらえているようです。


 昔、勉強会で、『 真の仏弟子 』 ということで、討論しました。

自分は仏弟子といえるのか? 仏の弟子、と言えるほど、立派なもんではないだろう。

この問題は、今でも、ふう~っと、頭のどこかにあるのです。

 自問自答することがあります。


 懺悔(ざんげ)と普通に読んだ場合、それは自己反省して今までの罪を悔い改める。

そういうことになります。それは道徳の範囲なのです。


 自分を振り返った時、一応は衣着て坊主の格好はしているものの、

よくみれば、自分は逆に仏に背いて生きているのではないか?

自分は仏弟子なんかとてもに値しない、と自分で思うのです。

しかし、これが、仏の側から見れば、仏はそういう自分でも、仏弟子とされる。

そこに転回があるのですが、 ( 転回というか飛躍というか実感として )

  それは 『 もったいないことです 』、となると、

それが、懺悔 ( さんげ ) となるのです。


 ( ここのところは理解しずらいと思います。 )

 ( 偽りの仏弟子が懺悔したら、真の仏弟子になるのではないのです )

 ( 偽りのままが、真の仏弟子として迎え入れられる )

 ( そこに、反省ではない、かたじけなくもと、身を投げ出す、というか

   そういう転回があると思います。 )


 人間が人間で自己を反省するような反省ではない。自己反省ぐらいではおっつかない、

そういう意味で、懺悔を ( ざんげ ) と濁らないで、( さんげ ) と読み、

道徳的意味合いと、宗教的意味合いを、区別しているのです。


 『 真の仏弟子 』 『 懺悔 』 この言葉も重い問題です。

 また読み返して、この言葉が復活してきたのですが、昔から、悩んでたことです。

    「 変わらんな~ 」 

  この年になってもまだ、二十歳代の問題を引きずっているのです。

 ここのところ、なんか、重い問題が頭の中にデーンとかまえているのです。



 
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