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『ほのぼのマイタウン』気まま通信

『ほのぼのマイタウン』のブログ版~見たこと、聞いたこと、伝えたいことを自由に気ままに綴ります。

震災から10年、「とびだす100通りのありがとう」動画配信

2021-03-11 12:35:33 | 忘れえぬ人々

今日で東日本大震災から10年ですね。

津波で親を失った子どもたちの10年の成長を映像で見るにつけ、彼らの生きる逞しさ、
周りの人々の温かい支援に心動かされています。

小平在住の演出家・作曲家の寺本建雄さんとプロデューサーの祖父江真奈さんご夫婦が9年前に作った、100人以上の被災者が出演したミュージカル「とびだす100通りのありがとう」が今日、震災の起こった時間14時45分からYouTubedeで公開されます(3月31日まで)

祖父江さんが東京新聞に掲載されたとラインで知らせてきました。



動画サイトはこちらから
https://www.youtube.com/channel/UCaBIlQlsjw7qexi7tMFPslw

思えば、このミュージカルの出発点に私は居合わせたのでした。

寺本さん宅に東松島市から避難してきたバンド仲間の友だちが「世界中からの支援にお礼を言いたい被災者が多いはずだから、何かやりたい」と言ったところ、確か寺本さんが入浴中に「そうだ、ミュージカルでありがとうを発信しよう」と思い立ち決めたのだそう。

このエピソードを寺本さんのアトリエで発足の集まりがあった時聞きました。

2011年春、当時まだ小平市に計画停電が実施されていた時のこと。
途中で電気が消え、ろうそくの灯りの中で話し合ったことが懐かしく思い出されます。

それからの寺本さんと祖父江さんの東松島通いが始まったのです。
出演する被災者を募り、現地で震災体験を取材し、脚本を書き、作詞作曲をしていきました。

こうして2歳から80代の素人の被災者が出演するミュージカル「とびだす100通りのありがとう」
が震災の1年後、3月18日に銀座ブロッサムで公演されたのです。
出演者は大型バスで銀座にやってきました。

あの時のステージから発するエネルギー、観客の熱気は今も忘れられません。
「私たちは負けない、世界中の人々にありがとう!」フィナーレは皆が涙、涙でした。

祖父江さんは「コロナ禍の今、元気のない人も励ますことができると思います。ぜひぜひ一人でも多くの方々にみてほしい」とメッセージしています。

10年の節目にこのミュージカルを見ていただければうれしいです!






勝海舟の曾孫、勝康さん

2020-05-21 17:16:52 | 忘れえぬ人々

    先日投稿したように坂本龍馬を生んだ坂本家九代目、坂本登さんを取材したのが2010年。

    その4年半年後に、今度は「東久留米には勝海舟の曾孫さんがいるから取材してほしい」とある方から頼まれました。

    何でも、東久留米には50年近く住んでいらっしゃるけれど、勝海舟の子孫であることを名乗られないせいで地元に全く知られていないとのこと。

    
    私はびっくりしました。

    歴史に名を遺す師弟の末裔が150年の時を経て、こんなに近くに住んでいらっしゃるとは!と。

    勝康(かつやすし)さんが勝海舟四代目の方でした。


    


    



    勝さんは取材時、84歳になられていましたが、海舟に倣い身体を鍛えていらしたのでかくしゃくとしていらっしゃいました。

    テニスに鉄アレイ筋トレ、散歩を欠かさず、背筋真っ直ぐの方でした。

    
    海舟には正妻たみとの間に嫡子の小鹿(ころく)がいましたが、小鹿には男の子がなく伊代、知代という二人の女の子がいました。

    小鹿が40歳で急逝したため、海舟はその最晩年伊代と知代に婿養子を迎えました。

    家督を継いだ長女、伊代の婿養子は徳川慶喜の十男、精(くわし)でした。

    勝康さんは次女知代の五男で、勝家の分家にあたります。


    両親から「絶対に先祖の名を汚すな。先祖の名前を吹聴するな」と育てられたそうです。

    勝さんが名乗られないのも、両親の戒めがあったからでしょうね。


    祖母から聞かされた晩年の海舟は「気難しくて、怖い存在」だったそうです。

    勝さんは身内ならではの海舟観をいろいろと話してくださいました。

    海舟の父、小吉は喧嘩っ早い暴れん坊で不良旗本として恐れられていたとか。

    「そんな父親だと、普通ならグレますよね」と、くくっと笑う勝さんのお顔を思い出します。

    しかし、父を反面教師として、海舟は厳しく己の心身を磨いたそうです。

    「執念的な努力と鉄壁な意思、肝の据わった度胸、根っからの武士だったと思います」

    「眼光鋭く、相手の反応を見て、即どういう人間かを見抜く人。取っつきにくい、一癖も二癖もある嫌なオヤジだったんでしょう(笑)」

    中でも交渉により、江戸無血開城を実現させた西郷隆盛とは、お互いが尊敬の念を持ち「無私と至誠」という価値観でつながっていたといいます。



        


    『氷川清話』は晩年、海舟が赤坂氷川の自邸で語った、人物評、時局批判の数々をまとめたもの。

    従来の流布本を検討し直し、再編集し2000年に発行された講談社学術文庫です。

    海舟の目を通した辛辣な人物評がとても面白い。

    けれども西郷隆盛に関しては、ともかく太っ腹で、知識においては自分が優っているが、その大胆識と大誠意にはとても及ばない
    とべた褒めしています。

    坂本龍馬のことは「彼(ア)れは、おれを殺しにきたやつだが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着(オチツ)いてな、なんとなく
    冒しがたい威権があって、よい男だったよ」と。



    海舟と龍馬の子孫である勝康さんと坂本登さんが、車で20分余りのところに住んでいらっしゃることに、勝手にロマンを感じています。

    お二人に共通するのは偉大な先祖を持つことをひけらかさず、一歩引いたところに静かに佇んでいらっしゃること。

    一昔前の日本の男性をみるようで、失礼ながら私はお二方とも大好きで、お会いできた幸運に今さらながら感謝しています。


    最近もう一つ、共通点を見つけました。

    それは勝さんが息子さんの名前が「舟一郎」と照れ臭そうに言われたことは憶えているのですが、

    坂本登さんのお孫さんの名前が「坂本龍哉」と「坂本悠馬」というのをつい先日知りました。

    やはり先祖への誇りと思いは深く、つながっていくのでしょうね。


    






    


    


    

    

    

    

    



    
    

龍馬を生んだ坂本家の子孫の方々

2020-05-10 14:37:00 | 忘れえぬ人々
       
       
       「坂本龍馬の子孫の方がうちの隣に住んでいらっしゃる」という情報を小平在住の友人を通して聞いたのは、丁度10年前のこと。

       折しもNHKではその年、大河ドラマ「龍馬伝」が放映中で、世間には龍馬ブームが起きていました。

       そして、九代目坂本登さんのお父様が画家坂本直行さんであり、私が若い頃帯広にいた頃お名前を知っていたこと。

       何よりお菓子で有名な六花亭、その包装紙の山野草を描いた人であること・・・でお会いしたい気持ちが募りました。

       「ぜひ取材させていただきたい」私の熱い思いが通じて、坂本家九代目当主にお会いした記事が下記の号です。


       

       
       
       上段の写真の右側が坂本登さん(当時73歳)、左側が坂本家八代目、父の直行さん。

       
       上段がお母様と登さんのご兄弟、下段がキャンバスに向かう直行さん。


       「龍馬との共通点は背丈が同じことくらいですよ(笑)」

       とおっしゃる坂本さんは堂々たる体躯の、寡黙で穏やかな方でした。

       この頃はまだお仕事を続けていらっしゃいましたが、週末は龍馬関連のイベントやシンポジウムでひっぱりだこ。

       全国を飛び回っていらっしゃいました。

       父が入植した北海道広尾の原野で生まれ、厳しい自然環境の中で育ちました。

       高校卒業後は東京の大学に進学し、以来東京暮らし。

       父は龍馬の家系であることを子どもたちには一切しゃべらず、取材からも逃げ回っていたといいます。


       しかし、床の間に西郷隆盛と勝海舟の書がかけてあり、来客からの質問で、それとなく間接的に自分のルーツを知ったとか。

       龍馬とおりょうの間には子どもがなく、断絶していた龍馬家の跡目を甥が継いだものの、その後直系は途絶えてしまいました。

       坂本登さんは龍馬の兄が継いだ、郷士坂本家の直系で父の直行さんが龍馬の甥の孫にあたります。

       その家系図は次の通りです。


       

       それではなぜ土佐の郷士坂本家が北海道に渡ったのでしょう?

       それは龍馬が蝦夷地開拓を目指していたからだといわれます。

       龍馬の宿願を果たすべく、甥の坂本家五代目直寛(登さんの曽祖父)へと引き継がれ、北見の開拓に着手。

       理想の実現を目指し、開拓とキリスト教伝道に生涯を捧げ、龍馬の思いを継承したともいえる人生だったようです。

       詳しくは記事に書いていますので、関心ある方は

       http://www.honobono-mytown.com/topics.php
       掲載号No145をご覧くださいね。


     
       坂本登さんは上京するまでの原野での暮らしや、お父様のことをユーモアを交えながらとつとつと語ってくださいました。

       「龍馬は自分で手紙を書いたことでそれが残り、人間的魅力がアピールされています。平等と自由という思想が根底にあり、今の時代も色褪せない」

       

       あれから10年、坂本さんは83歳になられたでしょうか?

       数年前に体調を崩されたと聞きましたが、今は散歩にも出かけられているそうです。

       子孫としては八王子在住の息子さんに十代目を譲られたようです。

       その息子さんには二人の男の子がいらっしゃるので、十一代目も坂本家は安泰です。

       龍馬の精神は脈々と引き継がれていくことでしょう。



       参考資料にと取り寄せた坂本直行さん著『開墾の記』

       

       入植後5年間の体験を記した本で、昭和17年に出版されました。

       その復刻版を平成4年北海道新聞社から発刊。

       厳しい自然との闘い、想像を絶するほどの重労働、その中で夜ストーブの焚火の明かりで読書し、スケッチしていた直行さん。

       その骨太な生き方に感動したものです。

       北海道大学山岳部で、道内の山々を踏破した直行さんの山の絵は清澄で温かく大好きです。

       13年前、帯広郊外の六花の森「坂本直行記念館」で見ました。


       後日談
       *毎号送付していた、知り合いの産経新聞の記者さんから「いやぁ、龍馬の記事感動しました。コピーしてみなに配りましたよ」と
        電話がありました。彼は当時政治部記者、とても熱い方でした。

       *この年の9月に「こだいら雑学文化塾」で坂本登さんを講師に迎え、小平市福祉会館で話していただきました。
        前日の読売新聞に掲載されたこともあり、青梅からも参加者があり、100人以上になって私たちスタッフはイスを追加して大わらわでした。

       

       


       



       

       


       




       



       

思い出のぐるっと多摩サイクリング

2020-04-28 21:56:18 | 忘れえぬ人々

       

       

       今から丁度17年前のこと。

       私が独立して一人で再スタートした最初の号でした。

       以前からやりたいと思っていた自転車特集で、その1年前に結成され注目していた「自転車スイスイ」の会の代表さんを取材しました。


       

       その時に会で月に1度実施しているサイクリングのことを知り、同行取材することになりました。

       私は車の免許を持っていないので、取材はいつも自転車のチャリ大好き人間です。

       が、この日は小平駅から立川の昭和記念公園まで往復するというので、ママチャリでついていけるか不安でした。

       「30キロの予定ですが、遅い人に合わせて走るのでママチャリでも大丈夫。ぜひ参加してください」

       「え~っ 30キロも!」とためらいつつも、事務局の方の言葉に乗せられ参加したのでした。


       この日の参加は5人、ロードバイクなどのサイクリストの方々に交じって、ママチャリは一人の女性と私のみでした。

       ナビゲーターのYさんを先頭に、5人の熟年自転車スイスイ隊が出発しました。

       新小金井街道から野川沿いを行き、貫井神社に寄って参拝。

       2月19日、快晴の早春の空の下で爽快なサイクリング日和でした。


       それから国分寺のお鷹の道に入り、万葉植物園を見学。

       その後、お二人が迷子になり、ナビゲーターが引き返すというハプニングもあり・・・

       府中街道を横断し、国立市へ入り谷保天満宮へ。

       梅の花が5分咲きでしたが、自転車はこういう寄り道ができるからからうれしい。

       国立は大学通りしか知らなかったけれど、郊外に乗馬クラブがあったり、田んぼが広がる風景に感激したものです。


       でも、何せママチャリ、迷惑かけずについていくだけで精一杯。

       「この自転車だとこんな坂道でも平気ですヨ~」と最後尾のガード役のTさんがおちゃめに追い越していくのです。

       出発から2時間半、ようやくランチタイムで立川のおそばやさんへ。

       ようやく落ち着いて、みなさんからお話しを伺うと・・・

       ナビゲーターのYさんは多い時で月に2000キロ走るという猛者。

       所持する自転車5台、前の年にはドイツのロマンチック街道を愛車で駆けたとか。

       一方、Tさんも利根川を銚子の河口まで360キロ走ったという方でした。

       お二人とも60代の入口を過ぎた頃で、第2の青春まっさかりのようでした。


       このようなスゴイ方々と一緒に走るなんて厚かましいこと、よくやったものです。

       昭和記念公園は塀だけ見て素通りし、帰りは砂川町から玉川上水緑道へ。

       美味しい鍋焼きうどんを食べて満腹なのと、睡眠不足のせいかウトウトしそうになったところへ、
  
       Yさんが横道にそれ、農家の梅の古木を見に行くことで気分転換させてくださいました。

       多摩のどんな路地にも精通なさっているYさんに感服したものです。


       終点の小平駅が見えた時はホントに本当にホッ。

       小平、小金井、国分寺、府中、国立、立川の6市を自分の足で駆けたのです。オドロキ!

       しかも交通費ゼロ、排ガスゼロ、運動量は私にとってマキシマム。

       メーターを覗いていたTさんが「距離36キロになってるよ。初めてにしちゃキツかったかな。ママチャリは30キロが限度だっていうから」。

       「ワ~ォ~ッ」


       こんな体験をさせてくださったみなさんのこと、今も忘れられません。

       独り立ちして不安な時期に次へのステップになった取材でした。


       

       あれから17年、YさんとTさんは80歳近くになられたでしょうか。

       きっと、今もカッコよく自転車に乗っていらっしゃるのでは?

       あの頃は私も元気いっぱいだったのだなあ、と懐かしく思い出します。

       今、36キロはムリ、ムリ、ム~リです。







       

       

       

       

     

       

       

       


       


       

       

忘れえぬ人・・・手製本の名人

2020-04-20 14:57:28 | 忘れえぬ人々

     stay homeの日々、これまで見て見ぬふりをしていた、細かい所の整理を少しづつやっています。

     ところが、懐かしい写真やモノが次々に出てきて、来し方に思いをはせる時間にとられてしまってはかどりません。

     大事にとっておいた、手製のハードカバー仕立てのノートも思い出に残るそのひとつです。


     

     絣地の2冊はタテ8㎝×ヨコ5.5㎝の豆本ならぬ豆ノートです。

     3冊ともハードカバーで頑丈に作られていて、勿体なくて26年経った今も使えずにいます。



     1994年、ほのぼのマイタウンの「腕一本に生きる~わが街の職人さん」特集を組んだ時のこと。

     

     知り合いの製本所社長のお父さんが一人で手仕事の製本をなさっていると聞き、取材に出向いたのでした。

     息子さんが経営している機械製本所の2階で、その方、篠崎興次さん(当時73歳)は和机の前で作業中でした。


     ところが、篠崎さんは挨拶しても、仕事の手を止めないばかりか顔も上げてくれません。

     やんわりと質問しても「うん」「ふ~ん」ばかり・・・

     職人さんは頑固と言われるけれど、これでは取材になりません。

     周りには誰もいないので、静寂が焦りとなって「ど、どうしよう?」状態。

     
     何か方向転換して、関係ないことを聞こうと「戦争中はどうなさっていたのですか?」と訊ねてみました。

     そうしたら、どうでしょう? 口を開いてくださったのです!

     うれしかったですね~

     それまでの様子とは打って変わって、兵隊時代のことについて堰を切ったように言葉があふれてきました。


     私が信用できる人間か試していらしたのかもしれませんね。

     「製本と名がつけば、何でもこなしちゃうね」

     この道60年、13歳の頃から製本工場で「ぶったたかれながら、仕事を覚えた」方でした。

     月刊誌を合本にしたり、図書館の百科事典の表紙(金の箔押しがあるような)や和綴じの製本も。

     表紙の材質がクロス紙であれ、革であれ、布であれ、何でもござれ。

     かける熱の具合がとても難しいそうですが、名人の手にかかれば寸分の狂いもなく美しく仕上がるのでした。


     

     「趣味? 趣味は仕事だよ。それしかねえの」

     と、記事の最後に書いています。


     私は最初のどぎまぎはどこへやら、ぶっきらぼうな中に職人さんの優しい心根を垣間見た楽しい取材になりました。

     「気にいった布があれば、何でも持ってきな。表紙にしてやっから」

     といいながら、屈託のない笑顔で渡してくださったのが、最初の3冊の豆ノートです。

     大・中・小と5、6冊、戴いたのですが、友人や孫にもあげて今、手元にあるのはこの3冊です。



     取材する方の中には、自分の半生を目いっぱい語りたい方も多く、なかなか本題に入れないこともありました。

     それだけに、この時の取材は忘れがたく、豆ノートとともに記憶が蘇ります。