大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

日蓮宗・中山法華経寺の発祥の地「奥の院」の佇まい

2011年10月08日 13時26分29秒 | 地方の歴史散策・千葉県市川
現在の中山法華経寺の伽藍が並ぶ場所からほぼ北へ5分ほど歩いたところに、法華経寺の起こりとなった場所があります。その地名はなんとも優雅な響きを持つ「若宮」と呼ばれています。

中山法華経寺の法華堂

ここ若宮の地で日蓮聖人が百日間にわたる百座説法を行ったことで、日蓮に帰依する人々が増えたと言われています。これによりこの場所に法華堂が建てられ、日蓮は自らの手で釈迦如来を彫りこの法華堂に安置し、寺号を妙連山法華経寺としたのが、現在の中山法華経寺の起こりで、奥の院の地とされています。なんとも意味ありげな響きに誘われて「奥の院」へ向かうことにしました。

それではどうして日蓮聖人がこの地にやってきたのかを紐解いてみましょう。
時は鎌倉時代の文応元年(1260)に遡ります。当時、打ち続いていた天変地異や悪疫の流行を憂っていた日蓮はこの原因を「邪宗のはびこり」であると糾弾し、今に他国の侵略を招く危険があることを警告するために「立正安国論」を著しました。

日蓮は時の執政「北条時頼」に法華経による救国を進言したが聞き入れられず、かえって念仏宗徒に庵を焼討され、日蓮は市川若宮の富木常忍の館に逃れてきました。この富木常忍と日蓮とのそもそもの出会いは二子ノ浦から鎌倉に向かうおり、同船した二人が船中で問答を交わし、常忍はついに日蓮に帰依したという伝説が残っています。

そんなことでここ若宮にかくまわれた日蓮は前述のように若宮の鎮守若宮八幡の社殿で百日間にわたる百座説法をしました。いわゆる初転法輪(しょてんほうりん)の地と言われています。尚、富木常忍は、日蓮の死後出家して「日常」と称し、法華経寺はこの日常上人を開山とされています。

奥の院への道標

奥の院への道のりの2ヶ所の辻には、その方向を示す道標が路傍に置かれ「巡礼の道」のような風情を醸し出しています。現在の中山法華経寺からはなだらかな坂道を登りつづけるような巡礼道となっています。2つ目の道標をすぎると真新しい夢殿のようなお堂が正面に見えてきます。このお堂は法華経寺の開山、日常上人の廟堂です。この廟堂に隣接して若宮の奥の院の入口が構えています。

奥の院入口

入口を入ると左手に「宗祖最初転法輪旧蹟」の石碑が置かれています。境内を見下ろすように石段の上に奥の院のご本堂がどっしりと構えています。日蓮宗の信徒の方々にとっては初転法輪の地としてまさしく聖地の中の聖地と崇められている場所です。境内には仏典を持った手を私たちに差し伸べているように立つ日常上人の立像が置かれています。

宗祖最初転法輪旧蹟の石碑
奥の院ご本堂
奥の院ご本堂
日常上人立像

日蓮宗の信徒ではない私にとって感じる奥の院の佇まいは歴史的建造物が一切ない、なんとも味気ないもので、「その昔この場所で日蓮聖人が始めて説法を行った場所だったんだ。」程度のものでした。

日蓮宗荒行の聖地・中山法華経寺




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